夢を食う烏〜第七章〜
主は、また今日もロバートの看板カラスとして、一日の終わりを過ごしている。
私は、店内から聞こえてくる雄叫びに耳を澄ましていた。黒猫が音楽と感情に酔っている。
前頭葉で聴くべからす。
身体全部で感じ、受け止める。
丹田を意識し、バランスを保つ。
見られたくない知られたくない触られたくない秘密や嘘を、聴きなさい。
ぐちゃぐちゃにされることで満たされる感情。癒される呼吸。
地を這う様な低くねっとりとした歌声。
見えない物を見ようとする目、その表情。
巻き舌の響き。
狂う事の無いリズム。
炎に包まれたステージ。
日本に似ている所がある遠い国。口の中を電球で光らせて、暗闇の中で歌う大男。頬に穴を開けて、コードを通し、同時に生命線も通す事に成功している。
光は似ているように見えるが、明らかに脱色されたような色の髪、そしてベルトの上で横になる皮下脂肪と言う名の欲望を弄ぶ背の低い小太りな男。
両者は似ているようで似ていない。
黒猫は、皮下脂肪を蓄えた小太りに別段何の感情も抱いていない。抱いているとすればそれは同情だ。
千代もまた、腐ったヨーグルトと同類の感情を抱いている。
俺もほっぺたに穴開けようかな、などと言う声が聞こえたが、それは脳髄に電気を通すという意味であろうか。それならば歓迎する。後始末なら私が買ってでも出よう。
あわよくばという、下心が裸になっている事にも気付けない小太りは、画面の中の引き締まった筋肉を自在に操る大男に己を重ねている。ベルトの上にのった皮下脂肪は視線に晒されている時だけ引き締まり何処かへ隠れる。
一体何が詰まっていると言うのだろうか。そして、瞬間的に引っ込む脂肪は一体どこへ消えているのだろう・・・。
小太りな男は飲めない酒をあおり、氷が完全に溶けてしまっても飲み干せないロックグラスを眺めている。
黒猫は画面の大男に惹かれ、その鋭い視線に捉えられてしまっている。
千代は、皮下脂肪を吸引してみたいという妄想が止まらない。
「あら、今日は沢山飲むのね。男らしい。」
黒猫のたった一言が、男の皮下脂肪に火をつけた。そしてジャックダニエルがガソリンとなり、明け方まで燃え続けていくことになる。視点の定まらない小太りは、腹の脂肪を指でつまみ、それを千代に向かって投げる真似をした。
「お前はいいよな、いくら食べても太らないんだろ。俺なんかビール一杯でこの腹だぜ」
ビール一杯でそのお腹は変ですねと、トイレの水を流すように千代は言う。
酔いが回った頭と乾いた唇で、ようやく現実を見始めた小太りは、食器棚のガラスに映る自分を五分に一度はチェックしている。必ず前髪を直し、縮毛矯正がとれかかった部分を指で伸ばしている。己の美しさに目が眩んでいるのだろうか、己の勇ましさが黒猫を酔わせているという自負があるらしい。
黒猫のタイプだという男の映像をあれほど見たにも関わらず、小太りは比較をしない。それは、己に打ち勝つ人間様がいないのではなく、己の醜さを露にしたくないだけである。
「黒猫ちゃん、隣おいでよぉ。今日暇でしょ?」
自らの勝手な欲望を押し付け、相手の事など全く思いやる節もない。所詮は自己愛である。小太りは自分が嫌われていると言う事にも気付けない。客観的に見る事もできない。すべては主観に基づいているし、歯を磨いても胃からこみ上げてくる臭いがアルコールによって更に異臭を倍増させている。
「ごめんなさいちょっと待ってね。電話する用を思い出したわ」
それまでサービスと言って、黒猫は氷が完全に溶け切ったグラスにジャックダニエルを注いだ。何を勘違いしたのか、男は気味の悪い笑顔をより一層際立たせた表情で黒猫の胸のあたりを凝視している。
あと二十分もすればこの男は泥酔して寝てしまうだろう。千代はそう勘付いた。黒猫が外看板の電気を消したのもその為だと思った。そして、五月蝿い鼾と二人の女の憎悪ごと外に放り投げて帰ってしまえば良いのだ。
真っ暗になった看板の上で、私はしばらくじっとしていた。暗闇には慣れているし、独りにも慣れている。
「はい、乾杯」
千代は積極的に男を飲ませはじめた。ほぼストレートのジャックダニエルは、酒の弱い小太りにはキツいだろう。すぐに泥酔してしまう小太りを、少しだけ羨ましいと思った。千代は幾ら飲んでも泥酔したり記憶をなくすことが絶対になかったからである。
一定のリズムを狂うことなくただ淡々と演じている、映像の中に佇む男の腕からは、炎が上がっている。まるで炎の中から産まれてきたようだ。炎の熱さと男の熱さが愛し愛されているどこかの二人のように、静かにだが赤々と寄り添っている。
ドイツ語の響きというのはなんてカッコいいのだろう。少し巻き舌の男は、今まで聴いてきた音の中でも最もカッコいい音を奏でる。その口は未だに光り続けている。
鼾をかきはじめた男は、口の端から光る液体を垂らしている。腹の肉が出たり引っ込んだりを規則正しく繰り返し、皮下脂肪は息苦しい皮膚の下で悶えカウンターを三席陣取っている。はち切れそうな脂肪は見ているだけで不快感を露にさせる。千代はデブが嫌いだ。それは黒猫も一緒で、デブの身体に蓄積された脂肪と欲望が襲い掛かってきそうな威圧感を与える、それが屈辱でしかないのだ。力では適わない、そんなコンプレックスが憎悪の大半なのかもしれない。
生温い風がドアからゆっくりと流れてきて、店内の汚れた空気をさらって遥か彼方へと旅立つ。空へ届く頃には、それはもう汚れのない無色透明な空気へと変わっている事だろう。
黒猫が外へ出てきて、私は更に暗闇に溶け込むよう努力した。
男は、夢をのせた生温い風に気付き、黒猫が外で待っていると気付くとふらつく足取りで歩き出した。それは夢遊病者のように黒猫を追いかけ、人気の無い裏道までくると、黒猫は指一本触れずに男を地面に沈めた。
美しい踊りのように男を操り、同時に意識までも沈めた黒猫は闇に溶け込み、私の目にハッキリと映る事は無かった。
何処からか声がして、いつもこうやってここに置いていくのと黒猫はそう言った。そこはコンクリートが割れて窪んでいて、落とし穴とは言わずとも夜道であれば躓いてしまいそうな窪みだった。足の短い男はいつもここに引っかかるのよと、残酷な笑いを夜空に投げ捨てた。
私はその笑い声に気付き目を覚ましたが、朝食がすぐ真下にころがっていようなどとは明け方まで気付かずに、ゆったりとした時間に身を任せていた。
薄暗く冷たい風が私に触れて、暗闇が徐々に明るくなってゆくのをぼんやりと見ていた。世界の平和は、明け方という一瞬の間に訪れる気がする。時間が止まった感覚を味わう事が出来る、早朝は全てが真新しく見えるし、全てが生まれ変わったようにも感じる。
この私の黒い羽も、つやつやと美しく輝き始めている。暗闇に陽の光が差そうとも、私の暗闇が光る事はない。
地面にうっすらと影が広がってゆき、人間様が置き去りにした空き缶や瓶や嘔吐物や孤独が転がっている。
嘔吐物のすぐ隣に、嘔吐物によく似た人間様が倒れている。昨夜黒猫に置いていかれた小太りの男である。頭から血を流し、ズボンを濡らしている。あぁ何とした事だ!これは神からの差し出しものに違いない。神は私たちの日頃の行いをきちんと見ていて下さった。そしてこのご褒美をくれたのだ。
最近仲間はずれにされ、お迎えの気配すらくる気配のない老カラスが私の周りをぐるぐると周り、出せるだけの声を天に向かって思いっきり吐き出した
だが仲間のカラス達は、老カラスの鈍くて頓珍漢な騒ぎ立てにうんざりしていた。老眼ゆえ見間違いが多く、今までに何度も人間様が倒れていると、まだ夜明けの大空を飛び回り叫び散らしたのだ。そう簡単に人間様が、はいどうぞ私を食べて下さいと言わんばかりに倒れているものか、と老カラスを白い目で見る黒いカラス達が大半だった。子カラス達だけが老カラスの後ろをついてまわり、その奇行を面白がっていた。
先が短い事は理解している老カラスは、少しでもカラスの進化を望んでいた。人間様の臓器や摩訶不思議な脂肪を食らえば、カラスの寿命が伸びるのではないか。寿命だけではなく、こうして老カラスのように夢を見始めているカラスが少しずつ増えている。人間様が描く未来への希望や渇望、そしてファンタジー思考や夢物語は、あの臓器に秘密があるに違いない。我々カラス達のように、日々生きる事だけに生きている種族とは違った、特別な能力はきっとあの固い甲羅のような骨に守られている。そしてその甲羅を割ると、嘴で挟む事すらままならない程の、軟らかくて濃厚な脂肪が中から飛び出してくる。この白っぽい脂肪が、人間様の秘密の全てに違いない。心という、人間様特有の部分も、きっとこの脂肪に詰まっているのだろう。
老カラスはそう信じて疑わなかった。若いカラス達にもカラスの進歩を夢見て欲しい。そして、人間様に道を譲ったりしなくてもすむような生き様を奪い取るのだ。
老カラスは子カラスに、大人達を連れてくるように命じた。小カラスは手柄を取り合うように大人達の元へ戻った。
朝食の調達にひとっ飛びしようか、と大人カラスは羽を振るわせている所だった。そこへ小カラスが興奮した面持ちで争うように巣へと帰ってゆく。その翼には早朝の新鮮な空気と老カラスの夢が乗せられていた。大人カラスは、人間様が我々に食べられるように、道端に寝転がっていると聞いた瞬間、目の色を変えて飛び立った。
道端には、確かに横長の人間様がうつぶせになっていた。
「神からの差し入れであろう。我々に夢という食料を与えて下さった。夢とはまさに、人間様のことじゃ。」
不老不死の夢を我々カラスたちは持ちはじめていた。この目でこの世を最後まで見届けたい、自分が死ぬときはこの世も終わるときだと、夢と言う名の朝食を目の前にして、大人カラス達に説いていた。
周囲を警戒しながら、朝日に反射している刃物を人間様の透明な肌に当てる。するとその透明な肌からは、真っ赤な鮮血が流れてくる。少しドロドロとしているな、と老カラスは言った。私はその血に吐き気を催した。早朝の新鮮な空気が汚され、私の羽までも臭いに犯されている。許し難い事だ。
朝日のような人間様の肌に、鮮血が滴る。花が咲いたように美しい光景であった。薄い膜で覆われただけの、儚く優しい肉体の持ち主である人間様。鮮血は開放感のあまりに止めどなく流れてゆく。何という涙であろう。人間様の眼球から流れる透明な液体とはまた違った、朽ちてゆく涙である。溢れ出した鮮血に言葉をなくしたカラス達は、しばし茫然自失に陥ったが、止めどなく溢れる赤い涙はカラス達の興奮を思う存分引き出し、そして私を好きにしろと言った。
いつもより賑やかに、そして派手に朝食をとる、空を真っ黒に埋めるほどのカラスの数。聞いた事もない不気味な鳴き声、それらが人間様から影を奪い去った。
漆黒の翼は人間様の血液に濡れ、上空からポタポタと赤い雨を降らす。すきまからさすお日様がその赤を引き立たせ、地上にいる人間様は血の雨が降ったと錯覚する。この世ももう終わりだと、天辺の毛根が死にかけている腐敗臭をまき散らす男が未練がましくそう嘆く。お前などとっくの昔に生きながら死んでいる屍じゃないか。
乳児の時はあっという間に骨に成り果ててしまったが、この人間様は我々がどれだけ突こうとも骨が見えない。肉は鮮度が落ち脂肪が付きすぎている。引き締まった肉とは嘘でも言えない。
希少価値のある脳は、甲羅が固くとてもじゃないが割ることができない。クルミを割る時、我々は車の進行方向へクルミを落としタイヤに割ってもらうのだが、今回はそうもいかない。
拍子抜けした仲間たちは、少し味わうと何処かへ飛んでいってしまった。私は既に血液に濡れてしまった羽をどうにかしようと、主に訴えているのだが、主はあらぬ方向を見たままじっと動かない。
視線の先には黒猫がいた。部屋の窓から外の様子を伺っている。我々の方をじっと見つめているかと思うと、いきなり窓を閉めた。黒猫は一体何をしようとしているのだろうか。彼女の声がある時からピタリと止んだ。それは、彼女との会話が全く出来なくなってしまった事を意味している。
いや、人間様など見ていれば言葉など聞こえなくても理解出来るのだ。私が聞いていたのは黒猫の言葉ではなく黒猫の感情だ。
どういった訳か、黒猫は感情をどこかで遮断している。さなえの時に通じ合っていたあの道が、先の見えない道となって私の前に広がっている。
カラスが死体を漁る、この事件は全国的に広まった。金髪の小太りはうつ伏せに倒れていた為、背中から臓器を引き出されていた。真っ赤な池の中に浮かんだ死体からは、白く輝く骨が覗き、しばらくの間心臓は微かな寝息を立てていたが、出血多量による自分の血液と嘔吐物に窒息死した、哀れな最後となった。
黒猫は店内で開店準備を始める。さなえはそこにいない。どこにも見当たらないのだ。
血に飢えた客達がぞろぞろと入ってくる。話の内容はもちろん今朝の事件の事だった
「ロバート出たまま死んだって本当なの?」
「っていうかぁ、カラスに大の大人が食われて死ぬなんてねぇきゃはは」
「らしい死に方なんじゃない?あいつはいつもそうだ」
「黒猫ちゃん、色々大変だったけど、良かったね。」
「本当だな、居なくなってくれてせいせいしたぜ」
「そんな事言うもんじゃないよ。あの血溜まりが恐ろしくってさ、あの道以外通る所がないから仕方なく通るけど、もうやんなっちゃう。死ぬならもっと山奥とかで死ねって感じ」
「お前だって同じような事言ってるじゃねえか」
「あらやだ本当!きゃはは」
「これで敵が一人減ったなぁ」
「お前、敵だと思ってたのか?あんな奴の事」
「黒猫ちゃんがデブ嫌いなの知ってるだろ?」
「知ってるけどさ、俺にはあんな押せ押せな感じ無理だもん。ちょっと羨ましかったんだよなぁ」
「っていうかぁ、あいつマジ臭かったじゃん。ありゃ加齢臭じゃなくって腐敗臭っしょ!」
「それに髪の毛と歯の色が一緒なんだよねぇ〜」
「腹出過ぎだし!」
「耳から超毛が生えてんだよ!知ってる?」
「見た見た!超至近距離で見た時はぞっとしたし〜」
「耳だけじゃなくって鼻毛もすげぇし」
「あはは言えてる〜」
「っていうかぁ、乾杯しよう。」
「死んでくれて有り難う!乾杯!」
「うわぁ超ひでぇ!!乾杯!」
「きゃはは!乾杯!」
私は人間様の祭りを遠くから聞いていた。笑顔を見せなかったのは、黒猫たった一人だけだった。
カラスたちは、公園で乳児の脳味噌を食らった時のように上手くは行かなかった事を反省しているようだ。さすがは人間様の脳だ、乳児のように軟らかくは出来ていない。私の主はしばし考えていたが、私がまた血液によって身動きの取れない状態に陥った事につては、反省などせずむしろ勲章のように思っていた。良い迷惑である。
あまりにも固いその甲羅は、カラスの嘴では割る事が出来なかった。老カラスは嘴の先が欠けてしまい、しばらくはヒナのように食事を調達してもらわなくてはならなかった。カラスにとって、嘴が使えないという事は生命の危機に関わる。掴む事が出来ないという事は、食べる事も出来ないという事だ。小カラスに食事を食べさせてもらった時は、身の程を知った、という顔をしていた。若い時のような事をしてはいけないのだ。年寄りは年寄りらしく働かねばならない。
甲羅を割る事に失敗した老カラスと大人カラスたちは、次の獲物の為に思考を巡らせていた。
春の暖かい風が、漆黒の羽にこびりついた血液の匂いを運んでくる。ピンク色をした美しい桜の花びらが、赤く濡れていくのではないかと、子カラスは震えていた。
頭上高くに見覚えのあるカラスがいた。今朝人間様を食らった時にいた奴らだった。彼らは同じ縄張りの中で生活しているカラスではなかったが、都会のカラスの中では一位二位を争うくらい美しい羽を持っている。だからいつも我々より頭上を飛び、そして情報交換をしたりするのだ。
我々の元に近づくにつれて、様子がオカシイ事に気付いた。その美しい羽が台無しになっていたのだ。
彼らは、人間様の血液がこのように羽を固まらせてしまう事を知らなかった。血液はしばらく取れない事と、臭いもキツくなる事を知らされ、参っている様子であった。
得るものがあれば失うものもあるのだな、とそのカラスは言ったが、しばらくすれば羽は元通りになる、何も失った訳ではない、ただ時間が少しの間死んでいくだけだ、と老カラスは激励の言葉を述べた。老カラスには時間の観念があるが、その美しい羽のカラスには時間の観念などなく、首を傾げていた。
羽が汚れているのは、あの場所に居たカラスたち皆そうであった。血のにおいを前にすると、桜の匂いも油の匂いもたちまちどこか遠くへ消えてしまう。人間様が、私を忘れるなとでも言っているかのように纏わりついている。だが、その血液のにおいに挑発されて、次の人間様の夢を食らう時を待ち望んでいる事も確かだ。
ついにこの血液と共存していかねばならぬ時がきたのか、と私は腹を括る準備をした。