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アジサイの研究

作者: 灰撒しずる

 ええ、なんですかお嬢さん、僕にご用ですか。

 ――ああ、あのオジサンは何してるの? ですか。あの人はですねぇ、ほら、真っ白な服着てるでしょう。……お医者様ではないですね、残念。おしい。あの人はアルケミストなんですよ、あうけみすとじゃないです、アルケミスト。え、アルケミスト知らない? アルケミストはですねー、ええと、博士です。金とか宝石を作っちゃう偉い学者の先生さんです。

 あの人が豪いのは頭の中身ですけどね。


「ユーイ君、幼女に逆ナンされてないで作業を手伝ったらどうだい。助手だろう、君」

「先生ぇ、僕は年上趣味です。あんな年端もいかないよちよち歩きは法的にも無理です。……というか、先生が怪しいから毎度お子様からナゼナニ攻撃受けるんですよ。もう少し普通っぽく採集やってくれませんか」

 九華中央公園のアジサイ畑に頭を突っ込んで白衣で白い尻を揺らしながら、鋏を取ってくれと催促する。その人こそ僕の先生、謂わばお師匠。国から研究所まで貰っている偉いアルケミストさん。

 〝至高の物質を練成する〟のが仕事のアルケミストは、国にとって重要な人材だけれど、変わり者が多い。その変わり者の中でも権威なんて呼ばれちゃっている人が常識人なわけはない。

 先生は練成の達人だけれどとびきりの変わり者で、学生時代からアジサイの研究をしている。

 アジサイは『シチヘンゲ』という物質を練成する材料で、シチヘンゲは他の物質練成の補助材料にもなるから、育てて作っているところは多い。けれど、シチヘンゲ自体にそれ以外の特別な力はないとされている。だから、学校の課題でちらっと出されることはあれど、十年単位で研究対象にしている人はこの変わり者ぐらいなのだ。

「どうにもねぇ、この奥によさげなのがあってねぇ、採集鋏とって」

 再度催促されて、僕は仕方なく布手袋を嵌めて重い箱形の黒革鞄を開け、縦長のポケットから赤銅色の鋏を取り出した。早く早くとばたばた動いている先生の手を左手で掴んで停止させ、握らせる。鋏を掴んだ手をするするアジサイの木の中に入れてようやく大人しくなった先生は数秒後にはまた騒がしくなった。

 また別の子供がこっちを見ているけど、気付かないふり気にしないふり。ほらお母さんお子さんには不審者には近寄るなってちゃんと言っておかないと。

「ほら、ユーイ君見てよ」

 がさっと音がしたかと思うと、葉の緑に隠れて見えなかった先生がこっちに戻ってきていた。若白髪交じりの茶髪に翠の瞳、楕円形の金縁眼鏡と右目の下にある泣きぼくろがトレードマークのオジサンだ。幼女から見てオジサンなんじゃなくて、三十を過ぎた本当のオジサンだ。

 実験用の防護眼鏡(ゴーグル)と、僕と同じ形の、青や紫で斑に染まった布手袋をしている。白衣も端にいろんな色がついているけれど、これは先月出したばかりの薄手の夏物だからまだまだマシ。襟には金に光る鳳凰紋のアルケミストバッジが――あ、曲がってる。

「いい色してるだろう? 昨日の朝の空がこんな感じだったなあ」

 自慢げに切り取った花の一房を揺らして言う。薄い水色の花の塊は、さっき話をした幼女の手より一回り大きいぐらいの小振りなものだ。

 横目でそれを見ながら先生の襟元を正して、僕は隠さずに溜息を吐き出す。

「そんなちっさいの採りにわざわざ此処までこなくても、うちの裏で採ればいいじゃないですか」

 襟を叩いて睨み上げると、先生は翠色の目を瞬かせたあとに僕より盛大な溜息を吐いた。

 手にした薄水色をくるくるとやりながら

「君ねぇ、俺のとこ来て二年目なのにまだ見分けもつかないのかい。ときどきこういう、キラリと光る花があるから侮れないんだよ!」

 河原で熱心に石を選ぶ子供のように言う。

 太陽に照らされたアジサイの花は露に濡れていて確かに輝いていたけれど、それは他の花も同じ。きらきらとする光の粒を花に葉に乗せて、ムシムシする実際の気温とは違って涼しげだ。

 ああ、きらきらと言えばアジサイ寒天食べたいなぁ。あっちの方が涼しいよなぁ。

「色とか形ぐらいなら僕だって分かりますけど。そんなの分かるのは先生ぐらいです」

 受け取った鋏を鞄に戻し、別のところを開いてずらりと並んだ円筒形ガラス瓶の中から一番小さい物を選んで先生に手渡す。

 蓋を開ける音と同時にポンと小気味のいい音がして、瓶の中に水が満ちた。中の仕掛けが作動して、純水を精製したのだ。

「カー君も分かってくれてるよ」

「あの人が分かってるんじゃないでしょ、あれは」

 水を溢れさせながら花を瓶に入れて朗らかに笑う先生。

 僕は真逆に顰めっ面を見せてから、乱暴に音を立てて鞄を閉じ、持ち上げる。

 先生が慌てて蓋を閉めるのを待たずに白い石畳を大股で踏んで歩いたけれど、荷物が重い所為ですぐに追いつかれてしまった。

 助手は先生の三歩後ろを歩くものなんだよ、って……それは違うよ、先生。


 鬱蒼と生い茂る森を進むと、ちらりと白い家が見える。その周囲にはまた、森のミニチュアのようにこんもりした花畑――アジサイ畑があった。薄い青、濃い青、薄い紫、濃い紫、赤い紫、桃色、白、黄色。色とりどりの丸い束が僕たちを出迎える。

 ギイと鳴き声を上げて軋む、腰の高さの木製扉を押し開けようとしたところ、花を眺めてぼうっとしていた僕の手にひやりとしたものが触れた。

「うっわ、びっくりした! 誰だ、でっかいから三号?」

 驚いて飛び退くと、鞄の角が何かに当たる。重い音と同時に悲鳴が聞こえたので先生の脛だと思うけれど。

 それよりも、と見遣った先、手を置いた場所、覗きこんだ裏側に灰色の渦巻き貝を見つける。さっき先生が採ってきた花と同じぐらいの大きさで、少しずつ動いている。

 中には半透明の体を収納しているカタツムリだ。カタツムリたちも一応僕たちの研究所のスタッフで、今年現在は一号から十号までいる。失礼して持ち上げて反対側を見れば……アタリ。橙色の防水インクで「参」と書かれていた。

「三号、カー先輩いる? ……あ、答えなくていいよ、ごめん。中入るから」

 のんびり、に見えるけれど彼なりの急ぎで這って返答してくれようとしているカタツムリの角を小突いて、今度こそ扉を開ける。まだ蹲っている先生は置いていく。

 枯れている木がないか確認しながら歩いていくと、途中で枝とは見間違えようのない白い腕がぬっと出てきた。こっちには慣れたもので、もう大して驚かない。

「いる。おかえり」

「声を先に出してくださいって何回言わせるんですか。踏んじゃいますよ。――ただいま戻りました、今日はどうですか」

 白い腕の次に出てきたのは、それより更に白いぼさぼさの頭――実際には銀髪なんだけど、アジサイの影になっているので光らない――続いて土と草の切れ端で汚れている白い研究用つなぎ。匍匐前進で木の下から出てきた真っ白な僕の先輩は、袖を捲った右腕に二匹、黒い殻に黄色のインク、茶色の殻に青いインクの、三号に比べればちょっと小柄なカタツムリを乗せていた。数字が全部見えないので記憶頼りになるが、記憶違いでなければ六号と二号だ。

「奥の……ミヨコちゃんが、ちょっと厳しいそうだ……」

 暫し思案顔で青い目をゆっくり瞬いていた先輩は、低めの美声で言う。

 耳元で囁かれればくらりとくるかも知れない声なのに、こんな状況ではムードゼロどころかマイナスだ。内容も。

「先輩、名前で呼ばなくていいです。三四五の木ですね。栄養剤があればいいかな?」

「……七号は、それで良いって」

 間違った。黒と黄色のカタツムリは七号だった。

 腕に乗せたやつがひこひこ角を動かすのを見つめていた先輩が答えたのに頷いて、僕はまた鞄を開けた。

「あと、こいつらに、もう少し苔が欲しい……最近よくサボる……」

 うん、とそっちにも素直に頷いておいたけど、本当は憂鬱だ。カタツムリの餌を探しに森に出かけるのはこの暑い中では面倒臭くてしかたない。でも重要な仕事だから、やらないわけにはいかない。僕は一番の下っ端なんだから!

 カタツムリは、所属期間は僕より短くても重要度は僕の倍の研究スタッフだ。何をするスタッフかというと、アジサイのデータ収集。

 五百年前からある伝統的な調査方法だが、カタツムリの情報伝達はのろくて仕方がないので、今では他のアジサイ畑では機械を使っている。が、先生が「アジサイのことを何よりも素早くかつ正確に察知できるのは彼らだ!」と主張するので、未だに僕らはこんなアナログ手法に頼っている。

 カー先輩は、現代には貴重なカタツムリ使い一族の跡取りだ。天気予報でもカタツムリ制を完全廃止してから早九年、その技術で就職先が見つかったのは奇跡だと思う。

 就職先が変人アルケミストの研究所なのはまあ不幸だけれど、この人も見て分かるとおりなかなか変わり者なので、結構上手く仲良くやっている。優秀なので先生からの信頼もあつい。

「……そういえば、あっちの、フミちゃん」

「二三ですね。なんですか」

 ビーカーに色々と液体をつっこんで栄養剤の準備をする僕ににじり寄って、先輩が口を開く。しつこくも人名で木を呼ぶので遮って、首を傾げた。

 合わせて首を傾げる先輩は、僕より五つも上なのに子供のようだ。

「見事なのが、咲いているぞ」

 ようやく痛みから回復して追いかけてきた先生が、明るい顔ですっ飛んでいった。


「ぉおー、わあー。これは綺麗だ……」

 栄養剤を先輩に押し付けて慌てて後を追った僕は、拡大鏡(ルーペ)で花の一つひとつを確かめている先生の後ろで思わず歓声を上げた。

 二三番木、通称フミちゃんは古参の木だ。咲いている大振りな花束は薄い桃色。――カタツムリ情報は、悔しいけれど先生の言うとおりやっぱり正確だった。他のアジサイとは一線を駕している美しさ。露で着飾った様は、中央舞踏会場で見る若い貴婦人の如し、だ。

 なんとも生き生きとしていて、弾けんばかりの力を感じる。

 先生やカタツムリが見分けている〝違い〟って、これだろうか。

「採るのは些か惜しいが、理想的に過ぎるな。ユーイ君、鋏と、瓶の用意を」

 魅入られるようだった先生が、ぽつりと呟いた。真剣な声に目を瞬いていた僕は反応が遅れて、先生が振り向くまでぼけっと其処に立っていた。

「鋏! 瓶! 用意! カー君も練成室支度しておいて!」

「っはい!」

 真剣な色をした翠の瞳と、鋭ささえ持ち合わせて指示を繰り返す声。慌てて姿勢を正して返事を返した僕は、鞄の方まで走って引き返す。

 はぁい、と気の抜ける返事も、三四五番木の方から聞こえた。

「お、またっ、せ、しました!」

 直線距離はそうでもないが、アジサイが植わっている所為でくねくね曲がって進まなければいけない庭は、走るには難儀だ。二度ほど転びそうになりながら重い鞄を引きずって、先生の背中に謝罪。

 息を切らせて採集鋏を差し出す僕には眼もくれず、先生は恭しい手つきで花の房を持ち上げて赤銅の切っ先を滑り込ませる。

 ぷつっと軽い音。枝が断たれ、蓄えていた水分をぷくりと滲ませる。次の瞬間にはその濡れた傷口は塞がれている。一見ただの鋏に見えるあれも、アルケミストの道具なのだ。アジサイの枝が腐れないように処置を施す、魔法のような採集鋏。

 作業に見惚れていた僕は、また慌てて動くハメになる。

 先生が手にした花の塊に合うサイズの瓶を三秒で選んで、蓋を開け、水を零しながら押し込まれる花を受け取り、瓶を閉める。その頃には既に、先生は次の花を切り取っていた。

 繰り返し。

 ただの剪定か花屋のような、けれどとても洗練された一連の動き。繰り返しは四度目で終る。

 ぐっしょり濡れた僕の手袋には、薄く薄桃色が移っている。最初の方にアジサイを封じた瓶は水に色を溶かしていた。

「さあ、急がないと色が落ちてしまう。すぐに練成室に運んでくれ。俺は着替えてくるよ」

 採集鋏をくるりと回し、白衣のポケットにつっこんだ先生は言う。

 その横顔が大層カッコよくて、僕はさっきとは別の意味でドキリとした。


 僕も先輩もあの人の助手だけど、シチヘンゲの練成時にはけしてあの中には入れてもらえない。金銀、紅鋼玉(ルビー)緑玉(エメラルド)の練成は見せてもらったことは何度もあるのに、やっぱり先生にとってあれは別格らしい。

 居間――として使っている広い部屋には、でっかい黒板がある。

 〝完全な美〟〝調和〟なんていう、顔と性格に似合わない先生の綺麗な文字と、アジサイの解剖図、シチヘンゲの練成式が白墨(チョーク)で記されている。――最初にこの筆跡を見たのは、第三学校の特別講義会場だった。権威あるアルケミスト、という肩書きと、講義内容にうっかり興味を持って覗きに行ったのが、僕のこの、もしかしたらちょっとした壮大な間違いかもしれない道の始まりだ。

 何処を見渡しても、アジサイ畑、アジサイの鉢。壁に留められたメモや写真も全部アジサイに関係する物ばかり。

 アジサイ馬鹿って、言うまでもなく先生のことだ。

「今日は長い、な……」

 四時間経過、だ。毎度そうだけど、練成室に引篭った先生は出てこない。さっきまでは庶務で時間を潰していた僕たちももうティータイムしかやることがなくなって、昨日封を切ったばかりの上質の銀峰玉露と何処かからの頂き物の黄粉餅でお腹を満たしていた。これしかなかったので、これが夕食だ。

 苔の鉢に乗った三号六号九号の一号を除く奇数組(多分)を眺めながら、先輩が言う。この結構美形は口に黄粉がついていても、一号が背を這っていても気にしないらしい。それよりカタツムリが大事だ。カタツムリ使いの鑑と言える。

 冷やした玉露の最後の一杯を白磁に注いで、僕は溜息を吐いた。

『今日は君たちに、アジサイおよびシチヘンゲの素晴らしさを教えるために、久方ぶりに学校に来た!』

『練成で重視されるのは〝調和〟であるというのは、君たちも当然知っていることと思うが……アジサイにはそれがある。アジサイは基礎の状態からして調和している。(中略)そして煌めきがあり、気品があり! 光と水のエレメントを湛えている!』

『輝く未来を持つ子供たち――そうだ、君たちのようだな。それであり長生きで酸いも辛いも知りくたびれた老人のような面があり……(略)』

『アジサイは虹を閉じ込めているかのようなのだよ! 分かるかね! 色の集合体、即ち光の結束、結実だ! (中略)だから〝シチヘンゲ〟はどのような宝石よりも美しい!』

 先生は、アジサイのことになると時間なんてどうでもよくなる。あのときの講義も八時間に及んだ。当然、最初から最後まで聴いている人はいなかった。……僕以外は。

 お察しのとおり、僕も物凄く熱心に聞いていたわけではないけれど。

「まあ、終ったら出てくるでしょう。としか、言いようが」

「まあ、そのとおりだな」

 先輩は心配しているのではない。ただ話の種がないので言ってみただけだ。その証拠に黄粉餅は着々と減っている。

 青い月明かりとリンとなる風鈴の音は涼しげでも、実際の気温はまだ下がりきらずに蒸し暑い。僕はやる気を失って、体もテンションもぐったりしていた。

 手にしたカップを覗けば、眼鏡をかけた乱れた黒髪の若者がうっすら見える。うわあ、と言いたくなる感じで、もう今日は鏡を見たくなかった。先輩も同じような仕事をしていて疲れているだろうに、全然変わらずすっきりした顔をしているその差がまた嫌だ。

 そうして僕が更にテンションを下げたところで、扉が開く音がした。スキップの調子で廊下を歩く音も続いて聞こえてきて、今度は居間の扉が開け放たれる。

 採集中とは違う、スリムに見える白衣を着た先生がいた。

「あげるよ、ユーイ君」

 歌うような声で開口一番。先生は、僕に向けて右手を突き出す。

「へっ?」

 反射的に手を差し出してしまった僕に、先生はいい笑顔で手中の物を握らせた。ずしっとする。そして冷やっこい。三号に触れてしまったときのように、一瞬身が竦んだ。

 ゆっくりと顔を下げると、両手の上に大きな宝石があった。窓から差し込む青白い月光に照らされてきらりと光る綺麗な薄紫の石。水晶と同じような剣型の結晶を幾つもくっつけた形のシチヘンゲ。

 それ自体がアジサイのようにも見え、昼に見た花々のようにきらきらと輝いていた。これは露に光っているんじゃなくて、これ自体がきらきらしているんだ。

「綺麗だろう素敵だろう素晴らしいだろう。なかなか理想に近い出来だ。しかし保管しておくだけでは美しさは評価されないからね! 人と同じで、見られる意識がないとシチヘンゲも輝かない! サンプルは別に作ったし、今回のシチヘンゲは丁度君の目の色と同じだから、あげるよ。大切にしてくれ」

 先生の目もきらきらしていた。興奮冷めやらぬ風で、やっぱりコレクションに熱くなる子供のようで。

 その熱視線と言葉に僕の顔もぱっと紅くなる。室温で感じていた以上に暑くなって――先輩の視線も感じて、もっと暑くなった。

「あっあり、ありがとうございます……!」

 慌て上擦った声で、とりあえず何より先にと感謝を伝えると先生は「うん」と機嫌よく頷いて、くるりとその場で体を反転させた。もう興味が失せた。

「カー君、シーツは整えてあるかい。もう眠いよ俺は。練成って体力使うよねぇ」

「……はい。お休みですか」

「うん」

 二言三言言葉を交わして、じゃあね、と手を振って立ち去ってしまう。アジサイのことが終われば忘れていた疲労感が戻ってきて、全てにおいて無気力になる人だ。

 それでも明日になればまた元気よく起きだしてアジサイの採集に出かけるのだろうから、元気な人でもある。


 手に乗せたシチヘンゲの大きな塊を眺めて惚けていたら、呆れた先輩が口を開いた。

「何かアクセサリにでも、すればいいんじゃないか……」

「だめ、カットしたら勿体無いことになると思う」

 つるりとする表面を撫でて、光の増え方を確かめる。何処から見てもきらきらで、でも、ときどき色が変わる。万華鏡みたいだ。削ってしまうと何かが失われてしまう気がしてならない。

 先輩は呆れを色濃くして、恐らくわざと聞こえるように、息を吸って、溜息として吐き出した。

「……年中白衣か研究用ツナギで、汗と土と草の汁にまみれ、指先も花に染めて……貰い物は、それきり。好いた男があの人では、不憫、だな」

 言いながら、彼は鏡を取り出した。

 シチヘンゲから目を引き剥がして白い人を見ていたところには、今は黒髪に紫の目、防護眼鏡代わりの大きめの丸眼鏡をかけた、さっきまでは疲れていたくせに都合よく血色よくなっている顔がある。

 所謂恋する乙女なその顔にまた血が上った僕は、先輩が持つ手鏡に割れんばかりのチョップを浴びせて喚く。

「僕だって不毛だと解ってますよ! でも理解と恋は別なんですよ!」

 我ながら不憫だ。そして不毛だ。アジサイとシチヘンゲばかり見ている人に恋をするなど狂気の沙汰だ! 頭では分かっている。

 だけど仕方がないではないか、アジサイを見る先生の眼差し、シチヘンゲについて説明する先生の言葉、練成に赴く横顔ときたら、超絶にカッコいいんだから!

 理解など得られなくても構わない。僕だって先生の情熱を理解しているわけではないから。

 繰り返すが、理解と恋は別なのだ。

「先輩こそどうなんですか、好きな人とかいないんですか!」

「俺には彼女が、いる……」

「えっマジで。カタツムリ?」

「お前が俺をどう思っているのかはよく分かった……」


 あっつい。今日もあっつい。僕らの仕事の最盛期はこんな季節だから嫌になる。

 一年中アジサイが栽培できるようにと温室も作ってあるのだが、やっぱりこの季節が一番だとかなんとかで、先生はこの時期一番元気だ。

「ねえー、お姉ちゃんなにやってるの?」

 こんにちは、お嬢さん。今日もナゼナニ攻撃ですね。興味を持つのはいいことですが、ちょっとは自分で考えないと、頭の中身の無駄ですよ。

「えーとですね、魔法の粉を撒いてるんです。この白い粉を撒くとですね、花の色が変わるんですよ、不思議でしょう――あーッちょっと先生! 花に見惚れてないで下さいよっ、袋破けてますよ!」

 律儀に答えちゃう僕も僕だけど。今日も今日とて、僕は先生についてアジサイの前にいる。僕も変わり者なのは、間違いがない。

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