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多少残酷な表現があります。

 どうしてこんな事になったのか?

 吐息が触れる程麗しい顔が目の前にある。日本人には珍しい美しい水色の瞳には顔色を蒼白にして怯えきった自身が映し出されている。心臓が激しく鼓動を刻む。手足の感覚が薄れて行く。この壊れた足では私を囲む堅牢な腕からは逃れられない。

「ねえ、千種?僕から逃げるなと言ったよね?」

 咄嗟に顔を背けた。頬に柔らかな感触がしてねっとり肌を這い耳を甘噛みされて身が竦む。より一層震えた手から握りしめていた杖が滑り落ちて虚しい音をたてた。足が身体を支えられず崩れ落ちそうになったがそのまま身体を軽々と抱え上げられた。仄暗い熱を宿す瞳が満足そうに私を見下ろす。

「っや、降ろしてっ、一人で歩けるからっ」

 腕を伸ばして肩を押し逃れようともがく。だがあっさりと力強い腕に身体を引き寄せられて相手により一層身体を密着させられる。

「暴れないで。それに無理に歩く事はないよ。こんな雨の日は足が酷く痛むのだろう?僕がいつでも千種の足になってあげると言った筈だ。あんまり聞きわけがないと、また酷くするよ?」

 嫣然と微笑む男を前に完全に血の気が失せる。くらくらと眩暈がする。一か月前の凶行が脳裏を掠めて呼吸を奪う。息を止めた唇に男の手が優しく触れる。感触を確かめるように何度も往復する。

 囚われた視線が外せない。うっとりと私を堪能する指先は少しも容赦がない。

「………い、や」

 ようやく絞り出した拒絶は自分の耳にも弱弱しく響いた。彼の瞳が暗く深みを増して行く。

「今度は最後までするよ?大人しくこの腕にいないなら」

「ごめっ、逃げないからっ」

「口先だけなら誰でも言えるよ」

「本当にっ」

「じゃあ、千種からキスをして」

「!!」

 本気だった。冗談など欠片も宿さない瞳に射抜かれて言葉を失う。ゆらゆらと炎が揺れている。私を飲み込もうと狂気が徐々に強まるのが恐ろしく、これ以上見るに耐えなくて彼の肩にのろのろと腕を伸ばした。

「もちろん口に、だよ?」

 楽しそうに彼が笑う。どうして笑えるのだろう。私からキスなどした事がない、それ以前に自分から彼に触れたりしない。

 彼は私のどんな些細な反応も見逃すまいと見つめている。私の中に恐怖以外は存在しないのに何を期待するのだろう。触れる寸前に彼の視線から逃れるためにぎゅっと固く目をつむる。微かに触れ合う感触がして直ぐに離れようとした。

「んっ」

 強く押し付けられた唇は強引に唇を割って舌を絡め嬲る。生々しい感覚に全身鳥肌が立つ。蘇りそうになる記憶にパニックを起こして私は逃げに出た。すなわち意識を手放したのである。




 どうしてこんな事になったのか、今もさっぱり分からなかった。一番その可能性のない者が私に異常な執着を見せる。これが因果と言う物なら、前世のしがらみはなんて残酷で無慈悲なのか。

 私を殺した男。私を誰よりも憎んだあの人。

 それ程まで私の背負った業は罪深いのだろう。 

 椎名千種、それが今の私の名前だ。裕福な資産家の家に生まれた一人娘。遅くに出来た子供である私は両親の愛情を一身に受けて何不自由なく育つ筈だった。人生を変えた悲劇は5歳になったばかりの私を襲った交通事故。その時の記憶は私の中にあまり残されていないが、1年間昏睡状態に陥った。

 目覚めるまでの間、残酷な夢を見ていた。




 私は地方領主の一人娘だった。世間から隔絶され高級なものに囲まれて蝶よ花よと育てられた愚かな娘。領地には希少な鉱山があり恵まれた土地だった。領民にその恩恵を正しく分け与えられていたならば、私―――ララエの運命も変わっていただろう。

 ララエの父は残虐で強欲な男だった。領民に課せられる税はどこよりも高く、支払えなければ鉱山で強制労働を強いた。ただ同然の労働力で手に入る鉱山の利益は全て父の元に。

 その潤沢な資金で中央の権力者に取り入り後ろ盾を得て、領民達の訴えは全て握り潰し独裁政治を行っていた。潤うのは父のみで領民達は搾取され続けていた。私たち一家が恨まれるのは道理だった。

 そんな父でも何故か娘のララエだけは可愛がっていた。世間の汚濁すべてから隠すように育てられた。

 ララエに叶えられない願いはなかった。いつも望むだけのものが与えられ王女のように育てられた。口を開けば皆ララエを褒めたたえる言葉だけを口にする。

『ララエ様はとても可愛らしく美しくいらっしゃいます』

『ララエ様はとても賢くていらっしゃいます』

『ララエ様はとても優しくていらっしゃいます』

『ララエ様はとても素晴らしいお方でございます』

 その言葉の裏に潜む思いを知らず、額面通りに受け取って浮かれていたララエ。

 ある時ララエは一人の少年と出会う。

 ララエが見た事もない程ぼろぼろの服を纏って、服に隠されていない手足は薄汚れてところどころ泥と血で汚れていた。

 暫くララエは呆けていた。だって見たことがなかったのだ。こんなに美しい生き物を。

 薄汚れていても緩く波打つ淡い金髪は光のようだった。こちらを強く睨む瞳は今までで一番美しい空の色。白く滑らか頬は高級な陶器。絵画に描かれる天使のようだと。

『ねえ、とうさま。わたし、アレが欲しい』

 無邪気で残酷な願い。少年はララエのものになったのだ。

 それ以降ララエは片時も少年を傍から放さなかった。少年はロウと名乗った。

 ロウはララエの傍を離れはしなかったが少しも思い通りにならなかった。

 彼は少しも表情を変えない。喋りかけても口を開かない。ララエに対して関心を示さない。最初はそれでも構わなかった。彼が美しい事に違いはなかったからだ。けれども、自分以外の相手になら表情を変え喋りもするのだと知った時ララエは強い怒りを感じた。

 何事も思い通りになったララエには強い怒りを感じるは初めてで、怒りの鎮め方がわからない。父が馬を調教していた姿を思い出して父の革のベルトを持ち出した。

『言うことを聞かないならムチで打ってもいいのよ、とうさまがおしえてくれた』

 幼い手に革のベルトを持ってロウの前に立つ。彼は顔色一つ変えない。ララエは感情のままにベルトを振り上げたが、ロウに当たる瞬間には目を閉じてしまった。身体を打つ音がして目を開ける。ロウの手がベルトを捉えていた。それでも避けきれなかった先端がロウの綺麗な顔を打ったのか頬が赤くなっていた。初めて人を傷つけた事実に青褪め震えてベルトから手を離した。

『ああ、ごめっ』

 目に一杯の涙を浮かべて震えながら伸ばした手がロウによって振り払われる。

『さわるな』

 初めてかけられた声は拒絶で、ララエの胸を抉り傷つけられた心は直ぐに憤りに変わった。

『わたしはわたしのすきな時にふれるの!ロウはわたしのものだもの!さからうならまたムチよ!!』

 ララエが触れる度にロウの無表情が崩れて嫌悪を顔に浮かべた。それが腹立たしく憎らしく悲しくて、でもそれしかロウの感情を動かす術を知らないララエはロウに執拗に触れるようになった。美しい顔に、髪に。腕や足やその胸に。ロウが嫌がれば嫌がる程ララエの行動もエスカレートしていったのだ。

 そうやって2年も過ぎた頃ララエは偶然侍女達の会話を盗み聞いた。

『アレはホントおぞましい光景だわ』

『ロウ一人なら眼福だけど、お嬢様がべったり傍に張り付いていちゃねぇ』

『憐れを通り越して醜悪よ』

『お嬢様はご自分の容姿に頓着なさらないからねぇ』

『私がロウなら同じ空気を吸うのも耐えられないわ』

『わたしがロウの傍にいる方がまだマシだわ』

『何を言っているのよ?ロウはまだ子供じゃないの』

『アレだけの美形よ?将来いい男になるのは目に見えているわ』

『あんたじゃ相手にされないわ』

『お嬢様よりマシでしょう?』

『それはそうだけど』

 侍女達がくすくすと嗤うのを背にララエはどうやって自室に帰ったのか覚えていない。


 私は醜いの?

『ララエ様はとても可愛らしく美しくいらっしゃいます』

『ララエ様はとても賢くいらっしゃいます』

『ララエ様はとても優しくていらっしゃいます』

『ララエ様はとても素晴らしいお方でございます』

 いつも聞かされていた言葉は全て嘘だったの?ロウの隣に相応しくない程醜いの?

 自室の普段は布を被せられている鏡の前に立った。震える手で布を取り去った。そこには顔色を青白くさせた少女が立っている。侍女達が毎日繰り返し褒めたたえてくれた姿のまま。

 艶のない灰色の髪はサイドを結われ背の半ばまである。丸く太った身体にはレースをたっぷりとあしらったピンク色のワンピースが。丸い顔には目立ち過ぎる口と低い鼻と円らな小さな瞳が絶望の光を湛えていた。ロウとは似ても似つかない容姿。

 恐る恐る自分の顔に触れる。鏡の中の少女が歪みぼやけて行く。

 私はなんて醜いの。

 ララエは初めて死にたい程の恥辱と屈辱を知った。

 それからララエはロウをすぐさま捨てた。

『お前はもう要らないわ。飽きたの』

 ララエの非情な言葉にもロウはやはり表情を変えなかった。そしてそれは正しい選択だった。もし嬉しそうな素振りを一つでも見せられていたら自分が何をしでかすかわからなかった。けれども完全に遠くにやる事は出来なかった。庭師の弟子として雇うように父にお願いをしていた。ララエ付きの侍女達は全員を解雇させた。新たに雇い入れた侍女達は年配か醜い者達ばかりだった。

 ララエは時折訪れるロウを遠くから見ていた。ロウの手足がすんなりと伸び、誰よりも美しい青年になるのを見つめていた。



 その年の冬の寒波はとても厳しかった。領民は何人も飢えていたがララエはその現実を知らなかった。何故ならララエの食卓は変わらず豪華であったからだ。とても食べきれない量の食事。好きな物を好きなだけ食べていた。午後のお茶には色とりどりのお菓子が並ぶ。満足して皿を下げさせた時、侍女が余ったお菓子をポケットに忍ばすのを見た。その侍女は珍しくララエと同じ年頃の娘だった。そして同じように醜い。彼女の顔は長い前髪と布で覆われていた。幼い頃に火傷を負って爛れていると聞いた。

 きっと私よりも醜い。

 憐憫の情がその行為を咎めるのを止めた。卑しいとは感じたが、たかだか菓子一つではないか。侍女の行為は時折行われるようになったが、それはお菓子に限ってのことであったので見て見ぬ振りをした。

 ある時庭にあの侍女の姿を見つけた。傍にはロウが立っていた。不快感に眉が寄る。侍女はロウに何かを手渡している。ララエは良く見ようと目を凝らした。ロウはあろう事かそれを口に入れた。

 あっと思った。あれは侍女が掠め取ったお菓子だった。それから同じような場面を何度も目撃した。侍女はロウにお菓子を渡している。

 ロウの傍に立つ侍女には腹立たしさを感じたがそれだけだった。何故なら彼女は自分よりも醜いからだ。ロウには相応しくない。ロウが相手をする筈がないと思い込んでいた。

 それよりもララエのお菓子がロウの口に入るのが嬉しかった。

 そうやって二人を見ていたら、ある時ロウが侍女の手を取ってララエが隠れている方へとやって来てしまった。ララエは見つからないように慌てて身を翻し、さらに奥に逃げ込んで二人の様子を伺う。

『………ロウ』

 侍女が甘ったるい声で囁く。ララエの心臓は嫌な予感に激しく高鳴った。ロウは後ろ姿しか見えない。侍女の顔が少しだけ見えるだけだった。ロウの手が侍女の顔を覆う布に手を掛けた。顕れたのは火傷の跡などない滑らかな頬、前髪をかき分けて顕われたのは美しい翡翠の瞳だった。

 ロウが彼女の顔に被さる様に屈んだ。

『ん』

 小さなリップ音がララエの鼓膜を打つ。爪が肌に食い込む程に手を握る。瞳からは止めどなく涙が溢れていた。この時ララエの中で何かが確実に死んでいった。



 この年になるとララエも自分の父親がどういった男であるのかを理解するようになっていた。父親の非情な行いが領民に恨まれている事もなんとなくわかっていた。父は美しい女が好きだった。時折何処からか美しい女を連れ込んでは一時楽しんでいる。それが既婚者でも娘と同じ年頃の娘でも美しければ父の目に留まる。

 ララエは父に美しい娘の話をした。どうやって娘が自分の美しさを隠していたのかを面白可笑しく語って聞かせた。それだけで良かった。

 ある夜に若い女の悲鳴が聞こえたような気がした。ララエは笑いが止まらなかった。笑いながら泣いていた。翌日から顔を布で隠した侍女の姿を見る事はなかった。



 あの運命の日を私はよく覚えている。春にはまだ遠い日だった。晴れ渡った空とは真逆に空気は冷えていた。

 争う気配、押し寄せる怒号と悲鳴。乱暴に開けはなたれた扉の向こうには剣を握ったロウの姿。咄嗟に動いたララエを逃げるのだと勘違いしたのだろうロウの剣がララエの右足を粉砕した。顔色一つ変えずに。

 屋敷が領民によって襲われたのだ。捕らえられたのは領主親子。自室から引きずり出されたララエを多くの領民が憎しみの目で見ていた。父は両腕を切断されて血だまりの中虫の息だった。砕かれた脚の痛みでララエの思考は霞んでいたが、頭から水を掛けられ無数の石の粒がララエを襲った。領民達の行いを止めたのはロウだった。

 ロウが蹲ったララエの顔を上げさせる。ララエは恐怖で震え上がった。これ程までに憎しみの籠った凍えた目を知らない。ロウの美しい顔は悪魔のようだった。

『己の父親が何をしてきたか知っているか?お前が何をしてきたかを?』

 ララエは震えあがるばかりだった。

『お前の父は俺達から様々なものを奪い去っていった。物や金だけじゃない。父や母、妹や―――恋人を。俺達の怒りが理解できるか?お前達の薄汚い命だけでは足りない』

 ロウの剣が父親の脇腹に刺さった。呻きをあげる父を無感動に見て剣を抜く。血糊がロウを穢してもロウは壮絶に美しかった。

『お前にも俺達の苦しみを教えてやろうとしたが………』

 そう言ってロウが再びララエを見た。

『こんな醜い娘ではいくら金をつまれても誰も犯す気にはならないな。豚の娘にはお似合いだが』

 ララエの心は魂はこの時砕かれて完全に死んだのだ。

『奪われる気持ちくらいは教えてやろう。こんな醜い娘でもお前が本当に愛していたのなら』

 ロウの剣が自分の心臓を貫くのをララエは見詰めていた。ララエが一番好きだった空色の瞳は憎しみに濁り見る影もなく、最後までロウの美しい顔は感情を表わさず、ララエの死は彼の心には何も残さなかった。





 昏睡から目覚めた時、私は自分が誰か分からなかった。錯乱状態だったと言う。身体が回復に向かうのに合わせて徐々に「千種」を取り戻していった。それでも夢を夢だと割り切る事は出来なかった。あまりにも生々し過ぎた。

 私の左胸には生まれた時から痣があった。丁度心臓の上、ロウに貫かれた位置だ。そしてロウに粉砕された右足を、切断までは免れたが、今世でも失ってしまった。

 鏡を覗けば「千種」ではなく灰色の髪の醜い少女が見える。

 それからの私はただ静かに暮らす事だけを願った。そんな娘を両親は酷く心配してくれた。やがて中学も卒業する頃に両親の熱心な勧めで脚の手術を受ける事になった。私はどうでも良かったが私の為に心を砕く両親が憐れだった。アメリカで治療とリハビリに費やして2年遅れて高校に進学した。

 私はここで前世の業を深く知る事になる。



少し修正しました。誤字脱字見つけるのって大変ですね。

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