第九話 香り
結局スパは、高杉が「折角行くのに、男女別々じゃつまらないし意味がない」と言って水着で入れるところに行く事になり、どうせだからゆっくり出来る週末、明後日にしようという事になった。
こうなると、どう考えても高杉に相談した自分が悪かったとしか思えない。
今日の帰りは、昨日より幾分早めの電車に乗れた。椅子に腰掛け、ぼんやり考える。
弁当箱。やはり洗って返すのが筋だろうか。だとしたら、今日はコンビニにはよらずに、明日にした方が良いのか。
だけどあの中島という女は色々煩そうだ。弁当は旨かったし、弁当分の礼を言いたい気分ではあったが、なんとなく顔を合わせたくなかった。
家から一番近いところだし、わりと気に入っていたのだが、煩く絡まれるのは面倒だし、どうしたものかと考える。
「……別に深く考える事でもないか」
どうせ通りすがりだ。弁当箱を返したら、それで終わる関係だ。気にする事なんか何もない。
やはり洗わずに今日の内に返してしまおう。誰か他人に言付ければ良いだろう。あと、あの店にはもう行かない。それで良い。
「…………」
問題ない筈だ。だけど、ふと、昼休みのことを思い出し、反芻した。
考えてみれば、ここ最近あまり笑っていなかった。今思い返すと、何故あんなに笑ったのか、判らない。
厚焼き玉子は、カツオダシ、シソ、ノリ、ジャコ、醤油の香りが程良く絡み合い、口の中で広がった。
匂いは、鼻孔からのみ感知できるのだと思っていた。口の中から、咀嚼する毎に広がる香りは、新鮮だった。
ただ、弁当箱に詰められていたそれは、幾分匂いが薄まり、互いに僅かずつ混じり合っていた。
だが、咀嚼によって、それ自身の匂いが強まり、味や食感だけでなく香りも味わう事ができた。
どの料理にも共通して使われていたのは醤油だ。ご飯の上のおかかですら、同じ香りがした。という事はオカカも手作りだという事だ。
野菜を、イワシをあんなに味わって食べたのは久しぶりだ。
おいしかったせいもある。だけど、咀嚼も楽しかった。味以上に、食感と香りが良かったから、それを楽しんだ。
自炊をしようか、と考える。食事を作るのは面倒だったし、後片付けは更に面倒だった。
一応料理を全くしないわけではない。一人暮らしを始めた頃は、ちゃんと作って食べていた。自炊すると、外食するより安く済ませられるからだったが。
電車を降りて、改札を抜ける。意識しなくても、身体は毎日の習慣を記憶していて、自動的に動く。
帰りにスーパーで買い物をして、コンビニ経由で帰ろう。
おそらく数年間、ほとんど使っていない調味料の大半はダメになっているだろう。ここ最近開けてみた事もない。
考えたら憂鬱になった。やはり今度にしよう。休みの日で良い。
自炊と言っても然程上手くはないが、味噌汁と玉子焼きくらいなら作れる。
出来合いのもので済ます生活は、既に数年続いていた。
手作りの料理を食べたのは、幾度か、実家に帰った時だけだ。
人の優しさに飢えていたのかも知れない。あるいは、他人の温度、接触に。
拾った猫と同じようなものだ。エサを与えられると反応する。だけど、だからといってなついているわけじゃない。
コンビニ店に入った。中にいる店員は大学生風の男だった。
適当に、食欲を満たすための食べ物を選ぶ。なんとなく野菜の煮物が食べたくなって、おでんを少し注文する事にした。
どの弁当も、あまり食欲をそそられなかった。ほとんどどれも一度は食べた事があるようなものばかりで、目新しさがなかったからかも知れない。
おにぎりと、惣菜を選び、おでんをいくつか注文した。
それから弁当袋を取り出した。
「あの、すみません。こちらのバイトの中島さんに、返したいんですが」
「中島? あ、中島理子ですか」
そう言って店員は弁当袋に視線を落とす。
「彼女の弁当、本当旨いですよね」
店員が笑顔を浮かべて言った。ドキリとした。
「けど、なかなか頼んでも作ってくれないんスよね」
え?
「作って欲しいなら報酬払えって。さすがに金払ってまで作って貰おうとは思いませんし」
「…………」
「ところでお客さん、もしかして彼氏ですか?」
「……いや、通りすがりの赤の他人だ」
そう答えると、店員は妙な顔つきになった。
「……無駄口過ぎでしたね。すみません」
頭を下げられた。
「会計は?」
「あ、す、すみません!」
店員は手早くレジを打ち、
「九百二十五円になります」
千円札で支払い、釣りを受け取った。
商品を受け取り、店を出た。
足早に自宅へ向かう。その途中で、思わず足を止めた。
……嘘だろう?
路上に座り込む女と、それを取り囲むように立つ二人の男の姿が見えた。