第五話 安寧
宝くじに当たる確率と、変な女に遭遇する確率は、いったいどちらが高いだろうか。
そもそも宝くじは買った事がないから当たりようがない。だが、今なら何か当たる気がする。根拠はないが。
かろうじてギリギリ間に合った通勤電車の中で、吊革につかまり揺られながら、ため息をつく。
どうも妙な事になったものだ、と思う。見知らぬ素性の知れない女から無理矢理押し付けられた弁当なんて、有り難みは半分だ。
そもそもあそこまで言われるほど、健康状態が悪いとも思っていなかった。
しかし、と思う。あんなに変な女には、これまで出会ったことがないな、と思った。唇が弛む。
毎日は困るけど、たまになら良いか。下剤や睡眠薬は入ってないらしいし。自己申告だけど。
そう言えば、自分の体調や健康状態なんか心配されたのは久しぶりだな。
両親には長らく会っていない。大学卒業後、地元に帰らず就職した。兄弟は姉と弟がいる。弟は今、大学生。姉は結婚して実家を改築し、親と同居。
既に実家に俺の部屋はない。帰っても様変わりしていて、自分の家だという気がしなくて落ち着かない。
その上、元気な甥姪がそこら中駆け回っていて、うるさい。可愛くない事はない。むしろ意外と叔父バカな方だと思うが、あのパワーに毎日振り回されたら、ついていけないと思う。
それに最近は、帰ると結婚はまだかだの、見合いがどうのとか言われるから、必要以外には帰らない事にした。どうせ仕事も忙しいし。
高校から大学、卒業後の一ヶ月半ほど付き合っていた恋人の有子は、伝え聞いた噂では、同じ社内の男と結婚して寿退社、一児の母らしい。
詳しい事情は聞かなかった。好きな人ができたと聞いた時から、同じ社内か、でなければ会社関係で知り合った男だろうと思っていた。
俺は別れるまでの一ヶ月半、ほとんど有子に会わなかった。一応最初の二週間は、メールや電話は一日一回は必ずするよう心がけた。だけど、それが限界だった。
慣れない仕事に忙殺されて、自分のことだけで手一杯だった。余裕なんかなかった。
俺は上等な彼氏とは言い難かったし、一時は本気で恋人の事を忘れていた。忙しい時期を乗り越えて、一段落ついたところで、ようやく思い出した。
その時、一ヶ月近く電話をしなかった事に気付いた。受信履歴は数件あった。後でかけようと思って忘れていた。書きかけのメールはあったが、送信されていなかった。きっと怒ってるだろうなと覚悟した。だけど、意を決して会った有子に告げられたのは、別れ話だった。
有子は淡々としていた。話を聞く間、俺は呆然とし、そのため無口になった。
『冷めているのね』
と言われた。冷めていたわけじゃない。動揺して、何も言えなかった。顔も強張って笑えなかったし、指先は僅かに震えていたから、珈琲も飲めずに、膝の上で固く握りしめていた。
好きだと言ったら、まだやり直せたのだろうか。だけど、有子の俺を見る目は冷たかった。俺は何も言えず、うつ向いていた。
『覚の浮気を疑ったわけじゃないの。だけど覚は私のこと、そんなに好きじゃなかったでしょ?』
俺は泣きそうな気分になった。そんなこと言われたくなかった。他の誰に言われたとしても、有子にだけは言われたくなかった。
他の誰が理解してくれなくても、有子だけは俺を判っていてくれると信じていたのに。
俺がどんなに有子を愛しているか、わざわざ口に出して言わなくても伝わっていると信じていたのに。
俺のちょっとした仕草や目線で、有子は驚くほど明確に、俺の意図や考えを見抜いてくれたから。
後から考えると、俺は有子に甘えていたのかも知れない。
愛情の出し惜しみをしたつもりはなかった。俺なりに必死で真剣に愛したつもりだったのに。
俺の独りよがりだったのかと思うと、悲しかった。
俺の独り相撲だったのかと思うと、虚しかった。
有子の前では泣けなかった。俺は一人で泣いた。その後、大学の友人と飲みに行った。友人の前で泣く代わりに、バカ話をした。それから帰宅し、酔いが冷めてからまた少し泣いた。
それから仕事に没頭した。出会いは一度もなかったわけじゃないけど、慎重になっていた。
なんとなく俺は自分が欠陥人間なんじゃないかと思っていた。恋愛には向いていない。女の気持ちや感情の揺れや波は、特に理解できなかった。
俺は平穏を、静寂さを、秩序や安寧を求めた。
理解不能なものは恐かった。