第三話 お礼
「他人の家の冷蔵庫を勝手に開ける人間に、常識について語られたくない」
「だけどどうせ空だったじゃない。プライバシーの侵害にはならないわよ」
十分過ぎる。
現在時刻は五時四十分。出社までにはまだ余裕があるが、朝っぱらから、問答したくない。
「何もしなくて良いから出て行ってくれ」
「でも迷惑かけたんでしょ?」
「君に長居される方が迷惑だ」
近隣の住人に見られたくもない。
「でも、絶対ろくなもの食べてないでしょ」
「君には関係ない」
「関係ないって、そういう言い方……」
女はふと、目線を下ろし、何かを見つけて固まった。
「何だ?」
「……パンツ」
女が呟いた。
「は?」
「パンツ一枚。しかも裸だ」
おもむろに女が歩み寄り、ぺたりと手の平で腹をそっと撫でた。
「な、何をして……」
「う〜ん、どうしようかな」
ぺたぺたと何かを確かめるように触りながら、女は呟く。
「何をしてるんだ?」
「うん」
そう言って女は頷き、にっこり笑って俺を見上げた。不覚にも、可愛いと思ってしまった。
「やっぱり栄養状態あまり良くなさそうだから、何か作るよ。ね?」
下手な勧誘より質が悪かった。落ち着かない気分になって、慌てて女を引き剥がした。
「とにかくすぐに帰ってくれ」
「……実は」
女がポツリと言った。
「あと二日程泊めて貰えると、有り難いんだけど」
「はぁ!?」
何を言ってるんだ、この女。非常識も良いところだ。
「ダメかな?」
首を傾げて言う。
「他へ行け」
「一緒に寝ても良いって言っても?」
一瞬、喉の奥まで干上がった。
「……駄目だ」
「そっか」
女は呟き、にっこり笑った。
「お兄さん、良い人だね」
そう言われて、ため息をついた。
「別に。それよりも仕事に行かなくちゃならないんだ。君には構ってられない」
「じゃ、名刺か何か連絡先教えてよ」
「何故だ?」
「お礼するから」
「必要ない」
そう言うと、女は困ったような顔になった。
「私もそろそろバイト行かなくちゃならないし」
「じゃあ、行け」
「だけど何かすっきりしないな」
「なら礼でも言ったらどうだ?」
「あっ、そうか!」
女は今気付いたという顔をする。
「有り難う、ごめんなさい。一晩泊めてくれて有り難う」
女はそう言って、深々と頭を下げた。
「ところでここって何処ですか」
住所を告げると女は微笑んだ。
「じゃあ、すみませんでした」
女はそう言って、バッグを拾って出て行った。
急に静かになって、部屋の温度が僅かに低くなった気がした。
「……嵐みたいだったな」
呟いた声が、やけに響いた気がした。
それは台風の後の静けさだ。
俺はため息をつき、出勤の準備を始めた。