第二十一話 朝(二)
幸せな事を考えよう。嬉しかった事、楽しかった事を考えよう。じゃなきゃ俺は奈落の底まで落ちてしまいそうだ。
温かなシャワーを浴びながら、考える。
深川由貴奈。俺は彼女の事をほとんど知らない。何を考えているのか判らない。
彼女のゆるくカールする美しくつややかで滑らかな髪の感触、柔らかで気持ちの良い甘い唇、柔らかで弾力のある胸のふくらみを思う。
もっと触って確かめるべきだったかな、とふと思う。
そんなに焦る必要はない。だけど俺は無性に恐かった。
早く彼女を俺のものにしてしまわないと、彼女と深い仲になっておかないと、奪われてしまうのではないだろうか。
奪われるって誰にだ。高杉にか? だけど高杉が薦めてきたんだぞ。だけど、高杉は怪しい。
駄目だ。かえって混乱している。落ち着かない。
彼女の声が聞きたい。彼女に触れて確かめたい。
『好きじゃなかったでしょ』
もう嫌だ。やめてくれ。
忘れたいのに。忘れて楽になりたいのに。疵は塞がるどころか広がるばかりな気がする。
あたたかさが欲しい。慰めが、優しさが、安らぎが欲しい。
致命的に何かが足りない。足りなくて苦しい。切ない。
俺はたぶん病んでいる。だけど何をどうしたら良いか判らない。
何も考えたくない。考えれば考えるほど、どつぼにハマる気がする。
結局あまりすっきりしなかった。だけど、血色の悪さは少し改善されて、少しはマシな顔になった。
そのことにホッとして、肩の力を抜いた。
ドライヤーで髪を乾かし、セットする。
それから寝室へ移動する。
ノリのきいた白いシャツに腕を通す。商談のある日は、クリーニング屋に出した、いつもより上質なシャツとスーツを着る事にしている。ネクタイは絹のブランド製。
華美ではないシンプルなデザインのネクタイピンを付ける。
だんだんと、気分が落ち着いてきた。
落ち着いたら、無性に煙草が吸いたくなって、サイドテーブルに手を伸ばした。
くわえてから、ジッポーを目で探す。そういえば、居間に置きっぱなしだった。
取りに行くのは少し面倒だった。代わりに百円ライターを手に取った。
息を吸い込みながら、火を付ける。
目を閉じてゆっくりと、紫煙を味わう。
それは舌で、味覚で味わっているわけではない。
だけど、それでも嗅ぐというよりは、味わうという表現の方がしっくりくる。
その香りを、口内で、嗅覚で、肺で、全身で味わう。
臓腑に、神経に、染み渡る気がする。
何かが音もなく開いていくような、覚醒するような、心の澱みを底に沈めて、上澄みがきれいに静かに、透明になって鋭くなるような。
錯覚だ。たぶんニコチンが見せる、短い夢。
何も解決していない。何も変化していない。
それでも何か救われたような気がするから。……もしかしなくてもニコチン中毒だ。また、カフェイン中毒でもある。やめるくらいなら、人間やめた方がずっとマシだ。
三分の二まできっちり吸いきると、灰皿に押し付けて揉み消し、キッチンへ向かう。
それから湯を沸かして、インスタントコーヒーを入れる。
コーヒーメーカーもエスプレッソマシンも買ったくせにほとんど使っていない。押し入れのどこかにある筈だ。
一人暮らしだと、入れるのが手間で面倒だ。入れたくても豆を買ってない。インスタントで十分だ。負け惜しみではなく。
「ぅ、おはよう」
高杉が明らかに二日酔いの顔で、こちらを見た。
「何か飲むか? インスタントコーヒーか、水か、烏龍茶」
「目の覚めるヤツ」
コーヒーを入れてやる。梶木もモソモソと起き上がる。
「あー、もうすっかり支度してやがる。そんな暇があるなら起こせよ。カッコつけやがって」
梶木が恨めしげに言う。
「そういうんじゃない」
ため息をつきながら言った。別に格好つけとかそういうわけじゃない。
「井上は、修学旅行や慰安旅行でも、一番最初に起きて、まず身支度するやつだよな」
「お前と修学旅行に行った事はないだろう」
「スーツに皺つけてやる」
そう言って身構える梶木に、
「頼むからやめてくれ」
と懇願する。
「じゃあ、俺は先に行く。鍵は玄関の棚の上にあるから」
「メシは?」
「食べたかったら何か外で食べてくれ」
「井上、お前何を食って生きてんの? 冷蔵庫はいつ来ても空だし」
梶木が不思議そうに言う。
また言われてる。
「適当」
「身体壊すぞ?」
梶木だけでなく、高杉も顔をしかめて、俺を見た。
「こう見えて昔から頑丈なんだ。風邪なんかほとんど引いた事がない」
「でも食は細い方だろ?」
「食べる時は食べるよ。昼は会食だし。問題ない」
「問題ない、ねぇ?」
高杉が首を傾げた。
「食ったり食わなかったりする方が、身体に悪いと思うぞ」
自分でも判ってる事を、あえて人に指摘されて、諭すように言われると、何故こんなに気まずく居心地悪く感じてしまうのだろう。
「気をつけるよ」
そうとしか言いようがない。
玄関を出たところで水着を忘れた事を思い出したが、顔をまた合わせると、先ほどの続きになるような気がした。
それに深川との約束もある。
とりあえずコンビニでゼリー飲料を買って、駅に向かった。
その途中でメールを打つ。
『おはよう。これから駅に行くところ。今、何してる?』
なれなれしすぎないか、あるいはそっけなさすぎたりしないか。
暫く自分の書いたメッセージを読み返してから、送信した。
あまり気分が高揚していない自分に気付いていた。
昨日の午後はそうじゃなかった。
日によって気分が変わるのか。
そんなものか?
会えば変わるのだろうか。
変わらなかったらどうしよう、と少し不安に思った。
テンションが低いのは、寝不足のせいだろうか。それとも貧しい食生活のせい?
俺はため息をついて、携帯端末を見た。
メールの返信は、まだ来ない。
諸事情で更新速度遅くなります。
申し訳ありません。