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第二十話 朝(一)

 金曜日の朝。あまり快適とは言い難い目覚めで迎えた。

 俺はため息をつきながら、立ち上がり、床に転がっている二体の障害物を避けて洗面所に向かい、顔を洗う。

 素面で酔っ払いに付き合うのは、二時間が限度だ。それ以上は飲食の量を加減しないと胃腸がもたない。

 最初から徹夜(オール)が判っていれば、それなりにセーブするなど対処できるが、そうでなければ胃腸薬の世話になる羽目になりかねない。

 とりあえず、生ゴミのように居間の床に転がるマグロもとい二人の男は、この際ギリギリまで放置する事にしよう。

 根に持っているかと問われれば、それほどではないと答えるが、だからといって無条件で許せるわけでもない。悪意はないだろうとは思うが、あの写メについてはちょっと腹を立てている。

 俺はあの後、隙を狙ってトイレの中から彼女にメールを送った。

『今日はごめん。今、仕事終わって、高杉と梶木と飲んでるところ。ところで高杉からのメールだけど、見ないで捨てて良いから』

 ところが返信は

『お疲れさま。楽しそうですね。写メはさっき見ました。初めての井上さんの写真だから、笑っちゃったけど保存してあります。できれば井上さんの写真もっと欲しいな』

 見た瞬間、思わず悲鳴上げそうになった。

『あんな写真捨てて良いから。写真欲しかったらいくらでも送るし』

 そのメールには、一応データフォルダにあったとりあえず一番マシそうな写真を付けて送った。

『嬉しい、井上さんの写真。早速待受に登録です。私の写メも送ります』

 深川の写真はとても可愛かった。下から上を見上げるような構図で、はにかむような微笑みが魅力的で。

「…………」

 会いたい、と思った。今すぐにでも会いたい、と。だけど俺は深川の住所も知らない。

 だいたい女の子の家に訪ねて行ける時間でもない。

 代わりに電話しようとした時、トイレのドアがガンガンと叩かれた。

「おーい、井上〜ッ。何閉じ籠ってんだ。大きい方か? 後がつかえてんだから、さっさと出ろ〜! じゃなきゃドア越しにひっかけるぞ、コラ」

 梶木の声だ。というかそれは俺だけじゃなく店にとっても迷惑だからやめろ。最低だ。

「…………」

 悪意の有無は関係ない。本気でも冗談でも質が悪い。

 諦めて外に出た。

「おーし、出た出た。アリガトサンガツ」

 ……笑えないだろ、それ。ため息をつきながら戻る。

「そろそろ帰りたいんだけど」

 高杉にそう言うと、

「は? まだ十一時前だろ」

 顔をしかめられた。

「だから、明日は大事なミーティングが」

「とか言って本当はラブコールしたいだけだったりしてな、このムッツリが」

 いきなり図星。だが平静を取り繕って、

「明日は少し早めに行きたいからな。だいたい俺は素面なんだ。お前らに付き合える筈ないだろ。平日なのに飲みすぎだ。それで明日大丈夫なのか?」

「仕方ないだろ。飲みたい気分なんだから。自分の限度は良く判ってる。酒を飲むくらい良いだろ。説教すんなよ」

「別に説教してるわけじゃない。忠告してるんだよ」

「お前、うるさいし、理屈っぽいよ。なんでユキナちゃんはお前が良いんだろうな」

「……そんなの、俺が知りたい。何か勘違いしてるんじゃないかと思うけど」

「は? 何言ってんだよ。じゃあ、お前はどうして彼女と付き合う事にしたんだよ」

「……いや、それは」

 高杉の剣幕に気圧される。

「……彼女を泣かせたら、承知しないぞ」

 ギラギラした目つきで睨まれた。

「お前に言われる筋合いはないだろ」

 なんだかムッときた。

「それはそうだろうけど、俺は相談聞いてきた立場だからな。口出しする権利はあると思うぞ。お前がどう思おうと、彼女はお前を真剣に好きなんだ。軽い気持ちじゃない。ふざけた真似をしたら、殴り飛ばすぞ」

「……高杉」

 嫌な感じがした。

「お前、何故そんなに肩入れしてるんだ?」

 まさか、と思った。

「まさかお前、本気で……」

「バカ野郎、俺は保護者なんだよ。悔しいから教えたくなかったけど、俺はここ一ヶ月、彼女の話を聞いてたんだ。お前の話ばかり聞かされたし、うんざりするほどお前の話ばかりさせられたよ。少しは肩入れしたくなるだろうが」

「……高杉」

 高杉の顔は、アルコールのせいか、苛立ちのせいか、あるいは羞恥のせいか、少し赤かった。

「一応誇張せずにありのまま話しておいたぜ。お前がバカでボケでムッツリな事とか、字が汚くて読めない事とか、入社したばかりの頃に、誤ってネットワークの共有フォルダを削除した事とか」

「は!? そんな話をしたのか!?」

 思わず血の気が上った。

「一応前の彼女の話はしなかったぞ」

 高杉は言った。

「ただ、引きずってるかも知れないとは言ったけど」

 ……余計な事を。

「別に引きずってるわけじゃない」

「そうか?」

「違う。そういうわけじゃない」

「……だけど気にはしてるだろう」

 気にしてるのは、有子じゃない。有子が言った言葉だ。

 胸に深く刺さって忘れられない。

『だけど覚は私のこと、そんなに好きじゃなかったでしょ?』

 何故、思い出す度に心が痛くなるんだろう。有子の顔は忘れたくせに、あの時の言葉を、あの時の声を、あの時の冷たく突き放すような、どこか諦めるような、冷めた口調を忘れる事ができないのだろう。

 それは、きっと彼女の本音で、自分にも心当たりがあったからじゃないのか。

「…………」

「井上」

 高杉が頭を下げた。

「すまない」

 謝る必要はない。謝られたくなんかない。

「謝るなよ」

 言うと、高杉は神妙な顔つきで俺を見た。

「井上、今の……できたら忘れてくれ。ごめん」

 忘れろ? それは無理だな。俺は素面だ。だけど俺は頷いた。

「判った」



 だが、まさか自宅までこいつらが押し掛けて来るとは予想外だった。

 例のコンビニ――変な女のバイト先――に酒を買い出しに行って二時過ぎくらいまで騒いでいた。付き合いきれないから、俺は早々に眠ろうとしたが、絡まれた。最後の方の記憶はほとんどない。

 気付いたら、居間でゴミに混じって雑魚寝していた。

 フローリングに直接敷いた薄い絨毯の上で背中を丸めて寝ていたから、身体中が痛い。

 最低の気分だ。朝食なんか食べる気にもなれない。

 昨日反省したところなのに、駄目だなと思う。

 だけどやっぱり無理そうだ。

 一朝一夕には変われない。

 俺は意思薄弱で、根性がない。

 それでも彼女は、深川は俺を好きだと言ってくれるんだろうか。

 正直、あまり自信はない。

 俺は彼女に少しずつ惹かれていた。

『そんなに好きじゃなかったでしょ?』

 有子の声が、脳裏でこだまする。

 頼むから、何も言わないでくれ。

 気付いても指摘しないでくれ。

 お前は冷酷な人間だと責められるような、欠陥人間だと糾弾されているような気がするから。

 好きかどうかが、そんなに大事か?

 それは罪なのか?

 大切だと思うだけじゃいけないのか。

 そばにいたいと願うだけじゃ駄目なのか。

 その身体を、声を、優しさを、愛情を望むだけじゃ駄目なのか。

 好きってどういう感情だよ。

 俺が思ってるものは、感じているものは、何か人とは違うのか?

 好きじゃないって、だったら、俺は何なんだ?

 俺は何を、どう思ってるって言うんだよ。

 俺の気持ちを、感情を否定するなら、答えもくれよ。

 じゃなきゃ、俺は理解できない。

 拒絶するなら、それでも良い。

 だけど、俺はどうしたら良い?

 いったい何をどうしろっていうんだよ。

 俺が間違ってるっていうなら、何をどう間違えているのか教えてくれ。

 完璧な人間になりたいとは思わない。

 だけど、俺は異端だと、異常者だと、欠陥人間だとは言われたくない。

 それが、ただの事実だったとしても。

 自分がそんな人間だとは、思いたくない。

 俺は、自分を好きになれなくても、嫌いにはなりたくないし、憎悪したくない。

 平凡で良い。普通でいたいだけなんだ。

 平穏で、普通で、当たり前の人生を、心穏やかに過ごしたい。

 大それたことなど望まない。

 だけど俺は、間違っているのか?

 鏡の中の自分に問いかける。

 血色の悪い陰欝な顔つきの、死んだ魚のような目をした男が、物問いたげにこちらを見返している。

 ……酷い顔だ。こんな顔を人に見られたら、それだけで通報されそうだ。

 苦笑は引きつり強張った、不自然な顔になった。

 温かいシャワーを浴びよう。少しはマシになるかもしれない。


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