第二話 非常識
学生時代、三十歳になるまでには、建築士として自分の理想の家を立てられる程の経験と知識を蓄え、理想の家を建てて、将来に備えたいと思っていた。
当時付き合っていた恋人とは高校時代から五年の付き合いで、おそらく彼女と結婚することになるだろうと思っていた。
予定通りに行かないのが人生だとは言うものの、俺は何一つ夢を叶えられていない気がする。
まだまだ結婚したいとは思わない。できるとも思えない。
理想の家を建てるのなどは、夢の夢。俺はしがないサラリーマンだ。普通より多少は給料が多いかもしれないが、俺より多い人間はいくらでもいる。
成功も失敗もしていない。中途半端で、上司、クライアントに逆らうことなく、強く自己主張することなく、無難に柔軟に人と争うことなく生きてきた。
腐ってはいない。だけど疲れていた。
土日祝日もないような、毎日さして代わり映えしない日常。
昼食はコンビニ弁当か宅配、ファーストフード。
夕食はそれに加えてファミレス、深夜営業のラーメン屋だ。
後悔はない。仕事はそれなりに充実していて楽しい。時折嫌な事もあるが、それは仕方ない。そんなものだ。
平穏な平凡な日常は愛すべきものだ。波乱に満ちた災難よりは、ずっと良い。
いつも通りの朝にはならなかった。
何故なら、女の悲鳴で目が醒めたからだ。
「……何だ?」
昨夜の記憶は飛んではいなかった。だから、それがあの変な女のものだということは判っていた。
何やら騒ぎ立てている様子に不穏なものを感じながら居間へ向かうと、女の悲鳴に迎えられた。
朝からうるさい。
「な、な、な、何なのよ、あんた! あんた誰なのよ!!」
それはこちらの台詞だ。俺は未だに女の名前も知らない。知りたいとも思っていなかったが。
正直、得体の知れない女に名乗りたくなかった。
「昨夜のことは覚えているか?」
「お、覚えてないわよっ! あんた、何をしたのよ!!」
俺は肩をすくめた。何もしていない。したのはむしろ女の方だ。
「泥酔して人に絡んだ記憶は?」
「え? 何よ、それ」
女は真顔で問い返す。
「部屋が水浸しで寝られないから一晩泊めろと言われて泊めた。判ったら、出て行ってくれ」
俺が言うと、女はマジマジと見つめた。
「したんじゃないの?」
きょとんとした顔で聞かれる。
「好みじゃない。それに疲れていて早く寝たかった」
「……だから見ず知らずの女を家に連れ帰ったの?」
女は奇妙なものを見る目つきで俺を見た。
「出来ることなら関わり合いになりたくなかった」
そう言うと、女はますます不思議そうな顔をする。
「って事は私、迷惑かけたの?」
「そうだ」
判ったらさっさと出て行って欲しい。
「じゃあ、お礼に朝食作ってあげる」
「……は?」
一瞬、何を言われたか判らなかった。
女はスタスタとキッチンにある冷蔵庫に近付いた。
「余分なお金持ってないから、働いて返す。それで良いでしょ」
「待て。何を……っ」
女は冷蔵庫の扉を開けた。そして中をじっと見つめてから、無言で閉めて、振り向いた。
「使わない冷蔵庫の電源コードは抜いておく。常識でしょ?」
非常識なのはお前の方だ。