第十五話 深川由貴奈
「おはようございます、井上さん」
出勤途中、駅の改札を抜けたところで声をかけられた。
そこにいたのは、小柄ながらスタイルの良い、内巻き髪の完璧メイクの女。同じ会社の受付嬢、深川由貴奈だった。
「……ああ、おはよう」
顔が強張り声が自然と低くなってしまう。我ながら情けない。
「同じ電車だったんですね」
深川は嬉しそうに言った。
そうだったのか。全然気付かなかった。
「いつもこの時間に出勤するんですか?」
「……大抵は」
歩いてる途中、深川の胸が布越しの右肘に軽く当たった。思わずどきりとして、心臓が跳ね上がる。顔はますます強張った。
距離が近すぎる。離れようとしたら、細い腕がするりと滑るように、右腕に絡みついてきた。思わず深川を振り返った。
マスカラとアイライナーに縁取られた黒くて大きな潤んだ瞳が、俺を真っ直ぐに見上げてくる。
「明日、楽しみですね、井上さん」
もしかして。
目をそらせずに、彼女を見つめて、ふと思った。
良く判らないけど、俺は彼女に好意を持たれているのか。それとも単にからかわれているだけだろうか。もしかして彼女は、高杉から俺がもう五年以上女と付き合ってない事を聞いたのだろうか。
腕に、彼女の柔らかな胸が当たっている。歩く度に僅かに揺れて、離れたり触れたりする。こんなの無視はできない。
「深川」
「なんですか?」
「……腕」
胸が当たってる、と言ってもこの場合はセクハラにはならないよな、と思う。
すると、ぎゅうっと深川が俺の腕にしがみついてきた。当然胸も潰されんばかりに押し付けられ、ぴったり密着する。
「嫌ですか?」
きらきらした目つきで、深川が見上げてくる。
「人に見られるよ」
それでも良いのか、と言外に含めて。視線を深川の顔、白い首筋、スーツの隙間の鎖骨、胸元に這わして。白いふくらみが作る見事な谷間から、ゆっくり目をそらして、深川の顔を見ると、妖しげに微笑んでいた。
「いつもこういう事をしているのか?」
「井上さんにだけですよ」
深川が甘い声で囁くように言う。学生時代の俺なら、鵜呑みにして胸を躍らせていたかもしれない。深川は好みではないが美人だ。だけど俺は、無条件に相手の言葉を信じられるほどウブではなかったし、ひねくれていた。
「本当に?」
「嘘なんか言いません」
「からかってるんじゃなくて?」
「違います」
深川は媚びるように拗ねた顔で俺を見上げる。
その顔は可愛いと思う。それなりにそそられる。だけど、のめり込めない。ブレーキがかかってしまう。
「どうして俺なんだ」
本当は俺じゃなくてもかまわないんじゃないか。誰でも良いんじゃないか。
「井上さんは、ちゃんと顔を見て挨拶してくれるじゃないですか。皆に平等に。真面目な人なんだなって、ずっと思ってて」
それってどうでも良いってことだろ。興味ないからだ。薄情な人間だからだ。
「落ち着いてるから、結婚してるのかと思ってましたけど、独身だって聞いたから」
だから?
「ダメですか? 私」
「俺のこと良く知らないだろう?」
「知らないですけど……知りたいです。教えてください」
真っ直ぐな視線が眩しい。何か必死にしがみつこうとしているような瞳で、情欲に揺らめく表情で見つめられれば、心が揺れる。
だけど、色欲と恋情の区別はつくのか?
人の心や感情に、色も形もない。それは確かにあると感じられるのに、きちんと認識して比較する事ができない。
若さは羨ましい。目の前にあるものを、疑うことなく信じる事ができる。
失敗の不安に怯えて二の足を踏み続けるのは正直情けない。酒の力を借りて理性を失えば、簡単にその場の雰囲気・状況に流され、差し出された手を躊躇いなく取る事ができる。
だけど、素面の俺は、生身の俺は、自信がない。
「俺は君を好きじゃないけど良いの?」
普通は断るよな。
「……私のこと、知ってください」
深川は言った。
「私が井上さんを知らないのと同じくらい、井上さんも私を知らないでしょう? だから、私をもっと知ってください」
「付き合うとか、そういうの無しで?」
「はい。お願いします」
ゾクリときた。
「俺を好きなの?」
調子に乗ってるかもしれない。
「……はい」
例え嘘だとしても嬉しい。告白なんてされたのは、たぶん生まれて初めてだ。
「どこが良いの」
それは純粋な興味。
「真面目でストイックそうなところとか、清潔そうで、落ち着いていて、クールで頭が良さそうなところとか、誠実そうなところ」
物は言い様、という言葉を思い出す。
「根暗で怖そうとか思わないんだ?」
「思いません。……ただ、話してみて思ったんですけど、井上さん、思ったより気さくで色気があって素敵です」
気さく? 色気? 素敵? 単に、欲情しているだけかもしれないとは、思ってもみないのか。
「俺のことなんか知ってもがっかりするだけだよ。時間の無駄かもしれない」
「そんなこと言わないでください!」
深川は真っ直ぐな瞳で、激しい口調で言った。
「井上さんは素敵な人です。私にはそう見えます」
何故そう思えるんだろう。
そんなふうに思い込めるんだ?
俺は、恋愛できる自信なんて、人を許容する余裕なんてない。
「金曜日の晩、楽しみにしていますから。あの……」
声が震えている。
「ごめん」
「え?」
驚いたように深川が俺を見る。
「怖がらせた?」
そう尋ねると、深川は一瞬目をみはり、フルフルと首を振った。
「違います。あの、緊張して」
照れた顔で言う。それが可愛く見えて、動揺した。
「一緒に、歩いて良いですか、会社まで」
もうとっくにそうしてるじゃないかと思いつつ、
「うん」
と言った。何だか気恥ずかしかった。青春時代が戻ってきたみたいで。
なんなんだ、と思う。やっぱり飢えてて淋しかったのか?
誰でも良いのは、俺の方だ。簡単で単純で、どうしようもなく、無節操だ。
俺は誰にも恋していない。また言われてしまうかも知れない。
『本当は好きじゃないのよ』
だけど好きだと思うよりも、好きだと思われる方が嬉しい。からかわれてるだけだとしても。
理屈で考えない方が良いな、と思う。たぶん俺は疲れている。心のどこか、何かが病んでいる。
流されてしまった方が楽だ。
こんな俺に、真面目とか誠実なんて言葉は似合わない。申し訳ないとすら思っていない。
たぶん、俺はまた振られる。愛想を尽かされる。それでも良いと、少し投げ遣りな気分で思う。
少々長く、引きずり過ぎた。
もっと早く諦めてしまえば良かったのに。
「深川」
「はい」
「付き合っても良いよ」
「会社までですか?」
「そうじゃなくて」
「え?」
深川の顔が、真っ赤になる。
「それって、もしかして」
「うん」
俺は頷く。
「その方が良く判るだろう? 嫌だったら別れれば良い」
「……どうしてそういう事を言うんですか」
「嫌?」
「嫌じゃないです。ただ、付き合う前から別れるなんて言わないでください」
「ごめん」
赤い顔で深川は俺を見つめる。確かに可愛い。悪い気はしない。
そっと髪を撫でた。さらりとした、ツヤのあるアッシュブラウンの髪。香水か何かの香りが漂ってきて、不意に身体の奥が痺れるように震えた。
「井上さん?」
グロスの塗られた小さな赤い唇が、小さく囁く。
抱きしめたい衝動に駆られて、視線を僅かにそらす。すると、彼女の方からしがみついて来た。
「……深川」
「好き」
彼女の背中に両腕を回した。小さな身体をぎゅっと抱きしめて、深呼吸した。
誘うように、彼女が顔を上げて俺を見つめた。
「通行する人の邪魔になるから」
俺は言った。
「歩こう」
そう言うと、彼女は無言で頷いた。
こんな展開ですみません(一応謝罪)。
というか、ついまた続きを書いてしまいました。
勢いづいてると筆が進む(というか頭の中がそれ中心)という気がします。
この手のウジウジしたキャラは、実際に目の前にいるといじり倒したくなりますが(大抵は思うだけです)小説で書くのは好きです。
逆に女性キャラでウジウジ悩んでる主人公をあまり書かないのは、たぶん私の周囲にいる女性の半数以上がポジティブで活動的でちょっぴり強引(でも可愛い)人達だからだと思います。
最近、サイトをまとめて縮小した方が良いだろうかと悩み中。
家族がもうすぐ手術するので、定期的にコンスタントに更新するのはたぶん無理だと思います。