第十一話 バカ
「この際だから、言ってやる。酒は飲んでも呑まれるな。節度を持って飲め」
「セツドって?」
女はキョトンと首を傾げた。
バカだ。こんなバカは見たことがない。
「……簡単に言うと、度を超えるなという事だ。自分の限界・限度を知り、周りを知り、道徳・礼節・倫理を知り、それを意識して自分の定量を決めて守れ。それがしいては、世のため人のため自分のためになる」
「難しくて良く判らないよ。もっと簡単に言って」
……救い難いバカだ。何故判らないんだ。どうしろというんだ、こんなバカ。
ため息をついた。だが、こんな女を放置したら、いつかその内三面記事で名前を見かける事になりそうだ。
「飲みすぎるな。あと飲む時は場所や状況を考えろ。人の迷惑になるような事をするな」
「だったら最初からそう言えば良いじゃない」
「…………」
だんだん殴りたくなって来た。相手は一応女だ。落ち着いて理性を保て。
「とにかく台所、特に流し台回りを掃除してくれ。ゴミ袋はそこの二段目の引き出し。流し台の下は、たぶんほとんどゴミしか入ってないと思う。ちなみにマスクは置いてない。雑巾は適当なタオルを使ってくれ」
女はパタンパタンと棚の戸を開け閉めしてから
「流し台の下の棚、何か殺人的な異臭がするんだけど」
と、泣きそうな顔で言った。
「携帯ショップに行って来るから、その間に片付けて。それまで鍵と携帯と財布と保険証と各種カードは預かっておく」
「……なんでこんなカオスワールドが展開されてるの、この台所。死体が混じってても判らないよ」
失礼な。そこまでは酷くない。
一応盗まれたら困るような貴重品は持って出かける事にする。
「キッチン回りを掃除するだけで良い。何でもすると言ったのは嘘なのか?」
「……ネズミとか死んでそう。私、子供の頃にネズミに噛まれて超ダメなのに」
俺は無視して背を向けた。とにかく急がないと、今日中に代わりを手に入れておきたい。
駆け込むように店に飛び込んで、適当なのを契約して受け取った。
案の定というかデータは読み込めなかった。別に消えて困るようなものはなかっが、またアドレス帳を登録し直すのは面倒だ。今度は外部メディアに保存できるタイプの機種にした。
前の機種の契約期間が長かったので、思っていたより機種変更を安く済ませる事ができて、少しほっとした。結局全ての作業に二時間近くかかってしまった。
会社関係は明日出勤すれば判るが、高校・大学時代の友人のメアドや番号は、ほぼ全滅だ。元々あまりマメじゃない方だから期待薄だが、向こうから連絡あった時に登録するしかない。
日頃の行いが悪いからな、とため息をついた。
本来ならば警察に突き出してやっても良いところだが、とりあえず掃除だけで許してやることにした。
それにしても、あれで二十三歳だとは信じ難い。いったい親はどう教育したのだろう。俺が親なら、決して一人暮らしなどさせない。あんな性格では、誰に何をされたって文句は言えないと思う。
帰宅すると、女は泣きながらゴミ袋にカビた元ジャガイモや何か――原形を留めていないため不明――を詰めている。
なんで本気で泣いてるんだ? 思わず驚き固まってしまった。
「あ、お帰りなさい、井上さん」
ポロポロと涙を溢しながら、女が言う。
俺は呆然と見つめてしまう。
「井上さん?」
「……なんで」
「え?」
女は手を止めてキョトンとした。
「なんで泣いてるんだ」
「え? あ、目と鼻と喉が痛いからかな」
「だったらきれいなタオルで口と鼻を覆うとか何かしろよ!」
「え、あ、う? 怒ってる?」
驚いた顔で俺を見つめる女に苛々しながら、ティッシュボックスとタオルを渡す。
女はティッシュで鼻を噛み、タオルで顔を拭った。
「あのね、除菌のできる洗剤か何かあると便利なんだけど」
「漂白剤や洗剤じゃ駄目なのか?」
「カビがすごいの。カビは除菌しないと無理だから」
「買って来ないと無い」
「じゃあ、買って来る」
女が立ち上がる。
「財布もないのにどうやって?」
「あ、そうだ。お金ください、洗剤代」
呆れてしまった。
「別に良い」
「え、でも掃除出来ないし」
「今、何時だと思ってるんだ。今日はもう良い。明日はバイト?」
「そうだけど」
「じゃあ、もう寝ろ」
「何処で?」
ハッと硬直した。
「……まさかまだ自宅で眠れない状態なのか?」
「今日、天井と床と壁を剥がし終えて中身が剥き出しになったところ」
「家財はどうしてる?」
「貸し倉庫に預けてある。服は数日分だけバイト先のロッカーに置いてある」
「……風呂は?」
「入ってない」
頭が痛くなった。
「……どうしてそういう事を人に相談しないんだ」
「え? 相談?」
「友達とか。バイト先とか。説明してあるのか、そういうこと」
「だって迷惑かけられないし」
見知らぬ赤の他人にはかけても良いのか。どういう感覚なんだ、この女は。
「言えば良いだろう。困ってるなら」
「別に困ってないけど?」
嘘をつくな。
「昨夜、俺に泊めてくれと泣き付いてきたくせに。見知らぬ赤の他人の俺に言うくらいなら、親しい信頼できる人間に言った方がマシだろう?」
「え。でも、迷惑かけて嫌がられたくないし」
「……待てよ。俺に迷惑かけるのは問題ないのか?」
「え? だって、記憶ないし」
「…………」
かなり本気で腹が立ってきた。
「現在進行形で、迷惑かけているという自覚はないらしいな」
「……え?」
俺はキョトンとしている女の腕を引いて、フローリングの床に押し倒した。
「え、何、痛いよ。どうしたの?」
本気で判ってない目だ。嗜虐心が煽られる。
「……例えば、見知らぬ男の部屋で、二人きりになったとしたら、どうなるかとか考えないのか?」
「え? だって、井上さん、私のこと好みじゃないって……」
本当にバカだ。
「だから、それを信じるのか? 相手がどういう人間か知りもしないで?」
無防備すぎる。
「それでよく今まで無事だったな。それとも、何度同じ目に遭っても懲りなかったのか?」
そう言って、頬をやんわり撫でてやると、初めて怯えの色が表れた。
「えっ……やっ……!」
乱暴に両腕を掴んで、頭の上で床に押し付ける。
それから乱れて顔にかかった茶色の柔らかな髪を払って床に落とし、人差し指と中指の腹でゆっくり額から目尻、頬、顎を這わせ、それから更にゆっくり円を描くように唇の回りを撫で回してから、怯える女の唇に触れた。
「……どうして欲しい?」
意地悪な口調で尋ねてやる。どうせ返事はないか『やめてください』辺りだろうと思っていたが、
「……井上さんって実はドS? かなりヤバイ人?」
という素っ頓狂な答えが返ってきて、かなり萎えた。……計算なしの天然だったら、恐ろしい才能だが、わざとならばもっと恐い。
「…………」
俺は無言で女を見つめた。
「やっぱりドSなんだ、そのムシケラを見るような冷たい目つき。人は見かけによらないっていうけど、本当だね。初めて見たよ、生ドS」
「…………」
首を絞めてやりたい気分だが、それじゃ本当に犯罪だ。しかし、何故そんな台詞を明るくあっけらかんと言えるんだ、この女。頭の中の構造がどうなっているか、かなり本気で知りたい。
「キチクなんですか、井上さん」
「……本当に鬼畜でサディストな男にそういう事言ったら、殺されても文句は言えないぞ」
感情を押し殺してそう言ってやる。
「え? 冗談ですか?」
「…………」
冗談でこんな危ないことする男がいるなら、見てみたい。そう思ったが、無言で女を解放してやる。
「……あ〜、びっくりした。冗談キツイよ、井上さん」
冗談きついのは、お前の方だ。どういう性格・神経してるんだ。
期待した方すみません。