ワルツ伯爵の亡霊
それは、雪の降るはずのない季節に届いた。
「貴殿を、ワルツ伯爵邸の晩餐会へ招待する」
黒い封筒には、踊るように絡み合った《W》の紋章。
紙は古く、しかしインクだけが異様に新しい。
宛名は、私の名前だった。
差出人の住所はない。
ただ一行だけ――
山の上の旧ワルツ伯爵邸にて、満月の夜に。
私はその名前を知っていた。
ワルツ伯爵。
二十年前に失踪した貴族。
いや、正確には「死んだとされている男」だ。
屋敷ごと霧の山中に消え、使用人全員が行方不明。
事件は未解決のまま封印された。
その屋敷に、今さら招待状が届く理由はない。
にもかかわらず私は、封筒を捨てられなかった。
理由はただひとつ。
十年前、あの屋敷の事件を追っていた私の師が、同じ紋章を見た直後に狂死したからだ。
――山道は、地図にない。
タクシー運転手は途中で顔色を変えた。
「この先は、行けませんよ」
「なぜ?」
「戻ってこないんです。行った人が」
それ以上は何も言わなかった。
私は料金を置き、徒歩で進んだ。
霧は異様だった。
白ではない。
灰色でもない。
まるで古い楽譜の紙のような、黄ばんだ音の色。
やがて、森の切れ間に屋敷が現れた。
ワルツ伯爵邸。
二十年放置されたとは思えないほど、完全な姿だった。
窓には明かりが灯り、遠くからピアノの音が聞こえる。
ワルツだ。
私は息を呑んだ。
その瞬間、門が勝手に開いた。
――屋敷の中には、すでに人がいた。
黒服の紳士、仮面をつけた女性、軍服の老人、修道服の少年。
誰もが同じものを着ていた――現代の混線。
私は尋ねた。
「あなた方も招待されたのか?」
誰も答えない。
ただ一人、テーブルの奥でワインを注ぐ執事だけが、私を見た。
「ようこそ。これで全員お揃いです」
声が低すぎて、人間のものとは思えなかった。
「ワルツ伯爵は?」
その瞬間、部屋の全員が一斉に動きを止めた。
カトラリーの音が消えた。
ピアノも止まった。
執事が微笑んだ。
「伯爵は、すでに踊っております」
――晩餐の後、音楽が始まった。
ワルツ。
しかしそれは優雅なものではなかった。
不規則で、逆回転するような旋律。
聴いているだけで、心臓が遅れて動くような不快なリズム。
そして、誰かが踊り出した。
仮面の女だった。
次に軍服の老人。
その次に修道服の少年。
彼らは笑っていない。
ただ涙を流している。
踊りながら。
私は執事に詰め寄った。
「これは何だ!」
執事が静かに言った。
「伯爵は、音楽で人を保存する研究をしておりました」
「保存……?」
「肉体ではなく、動作そのものを。踊りとして」
そのとき気づいた。
彼らの動きは全員、同じ周期を描いている。
同じ一小節を、永遠に繰り返している。
――私は図書室に逃げ込んだ。
そこには古い記録があった。
ワルツ伯爵の研究ノート。
そこには、こう書かれていた。
「人間は死ぬのではない。動作が終わるだけだ。
ならば動作を固定すれば、存在は永遠になる。」
さらにページをめくると、名簿があった。
すべての招待客の名前。
そして最後の行に、空白がひとつ。
そこに、インクが滲むように新しい文字が浮かび上がった。
私の名前。
背後でピアノが鳴った。
さっきまでは止まっていたはずなのに。
――屋敷の最上階。
そこだけ扉がない部屋があった。
しかし近づくと、壁が割れるように開いた。
中には誰もいない。
ただ、巨大なオルゴールのような装置があった。
その中心に、黒い影。
人の形をしているが、輪郭が常に揺れている。
それが振り返った。
「遅かったな」
声ではない。音楽そのものが言葉になっている。
「ワルツ伯爵……」
影はゆっくりと回転した。
「私はまだ死んでいない。私は終わらない一拍目だ」
装置が動き出した。
屋敷全体が震える。
床が、壁が、天井が、すべての拍子を刻み始める。
1・2・3―― 1・2・3――
――逃げようとした瞬間、私は気づいた。
自分の足が勝手に動いている。
踊っている。
意志とは無関係に。
執事の声が背後から響く。
「あなたは観客として招かれました。そして今、参加者になりました」
「やめろ!」
しかし声は、ワルツに変わっていく。
言葉がリズムに溶ける。
私は理解した。
この屋敷は建物ではない。
楽曲だ。
そして私たちは、その楽譜に書かれた音符なのだ。
――どれほど踊ったのか分からない。
時間は消えた。
疲労も消えた。
ただ、回転だけが残る。
やがて私は、伯爵を見た。
影は増えていた。
一つではない。
踊る人間すべての中に、同じ影が重なっている。
伯爵は言った。
「これで完成する」
その瞬間、私の意識は切り離された。
体は踊り続ける。
私は見るだけの私になる。
そして理解する。
この晩餐会に終わりはない。
招待状は毎回、新しい誰かに届く。
ワルツは、止まらない。
――山の麓。
また一通の封筒が投函された。
黒い封筒。
踊る《W》
差出人なし。
宛名は、まだ知らない誰かの名前。
そして、かすかに音楽は聞こえる。
ワルツが始まる。
終わらないまま。




