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ワルツ伯爵の亡霊

掲載日:2026/04/11

 それは、雪の降るはずのない季節に届いた。

「貴殿を、ワルツ伯爵邸の晩餐会へ招待する」

 黒い封筒には、踊るように絡み合った《W》の紋章。

 紙は古く、しかしインクだけが異様に新しい。

 宛名は、私の名前だった。

 差出人の住所はない。

 ただ一行だけ――

 山の上の旧ワルツ伯爵邸にて、満月の夜に。

 私はその名前を知っていた。

 ワルツ伯爵。

 二十年前に失踪した貴族。

 いや、正確には「死んだとされている男」だ。

 屋敷ごと霧の山中に消え、使用人全員が行方不明。

 事件は未解決のまま封印された。

 その屋敷に、今さら招待状が届く理由はない。

 にもかかわらず私は、封筒を捨てられなかった。

 理由はただひとつ。

 十年前、あの屋敷の事件を追っていた私の師が、同じ紋章を見た直後に狂死したからだ。


 ――山道は、地図にない。

 タクシー運転手は途中で顔色を変えた。

「この先は、行けませんよ」

「なぜ?」

「戻ってこないんです。行った人が」

 それ以上は何も言わなかった。

 私は料金を置き、徒歩で進んだ。

 霧は異様だった。

 白ではない。

 灰色でもない。

 まるで古い楽譜の紙のような、黄ばんだ音の色。

 やがて、森の切れ間に屋敷が現れた。

 ワルツ伯爵邸。

 二十年放置されたとは思えないほど、完全な姿だった。

 窓には明かりが灯り、遠くからピアノの音が聞こえる。

 ワルツだ。

 私は息を呑んだ。

 その瞬間、門が勝手に開いた。


 ――屋敷の中には、すでに人がいた。

 黒服の紳士、仮面をつけた女性、軍服の老人、修道服の少年。

 誰もが同じものを着ていた――現代の混線。

 私は尋ねた。

「あなた方も招待されたのか?」

 誰も答えない。

 ただ一人、テーブルの奥でワインを注ぐ執事だけが、私を見た。

「ようこそ。これで全員お揃いです」

 声が低すぎて、人間のものとは思えなかった。

「ワルツ伯爵は?」

 その瞬間、部屋の全員が一斉に動きを止めた。

 カトラリーの音が消えた。

 ピアノも止まった。

 執事が微笑んだ。

「伯爵は、すでに踊っております」


 ――晩餐の後、音楽が始まった。

 ワルツ。

 しかしそれは優雅なものではなかった。

 不規則で、逆回転するような旋律。

 聴いているだけで、心臓が遅れて動くような不快なリズム。

 そして、誰かが踊り出した。

 仮面の女だった。

 次に軍服の老人。

 その次に修道服の少年。

 彼らは笑っていない。

 ただ涙を流している。

 踊りながら。

 私は執事に詰め寄った。

「これは何だ!」

 執事が静かに言った。

「伯爵は、音楽で人を保存する研究をしておりました」

「保存……?」

「肉体ではなく、動作そのものを。踊りとして」

 そのとき気づいた。

 彼らの動きは全員、同じ周期を描いている。

 同じ一小節を、永遠に繰り返している。


 ――私は図書室に逃げ込んだ。

 そこには古い記録があった。

 ワルツ伯爵の研究ノート。

 そこには、こう書かれていた。

「人間は死ぬのではない。動作が終わるだけだ。

 ならば動作を固定すれば、存在は永遠になる。」

 さらにページをめくると、名簿があった。

 すべての招待客の名前。

 そして最後の行に、空白がひとつ。

 そこに、インクが滲むように新しい文字が浮かび上がった。

 私の名前。

 背後でピアノが鳴った。

 さっきまでは止まっていたはずなのに。


 ――屋敷の最上階。

 そこだけ扉がない部屋があった。

 しかし近づくと、壁が割れるように開いた。

 中には誰もいない。

 ただ、巨大なオルゴールのような装置があった。

 その中心に、黒い影。

 人の形をしているが、輪郭が常に揺れている。

 それが振り返った。

「遅かったな」

 声ではない。音楽そのものが言葉になっている。

「ワルツ伯爵……」

 影はゆっくりと回転した。

「私はまだ死んでいない。私は終わらない一拍目だ」

 装置が動き出した。

 屋敷全体が震える。

 床が、壁が、天井が、すべての拍子を刻み始める。

 1・2・3―― 1・2・3――


 ――逃げようとした瞬間、私は気づいた。

 自分の足が勝手に動いている。

 踊っている。

 意志とは無関係に。

 執事の声が背後から響く。

「あなたは観客として招かれました。そして今、参加者になりました」

「やめろ!」

 しかし声は、ワルツに変わっていく。

 言葉がリズムに溶ける。

 私は理解した。

 この屋敷は建物ではない。

 楽曲だ。

 そして私たちは、その楽譜に書かれた音符なのだ。


 ――どれほど踊ったのか分からない。

 時間は消えた。

 疲労も消えた。

 ただ、回転だけが残る。

 やがて私は、伯爵を見た。

 影は増えていた。

 一つではない。

 踊る人間すべての中に、同じ影が重なっている。

 伯爵は言った。

「これで完成する」

 その瞬間、私の意識は切り離された。

 体は踊り続ける。

 私は見るだけの私になる。

 そして理解する。

 この晩餐会に終わりはない。

 招待状は毎回、新しい誰かに届く。

 ワルツは、止まらない。


 ――山の麓。

 また一通の封筒が投函された。

 黒い封筒。

 踊る《W》

 差出人なし。

 宛名は、まだ知らない誰かの名前。

 そして、かすかに音楽は聞こえる。

 ワルツが始まる。

 終わらないまま。

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