第二話 無敗の剣聖は、ドーナツに屈服する
「先輩、聞いてください! 私、幼馴染の剣術科のレオン君に告白する前に振られちゃいましたっ……! 俺は、お前を生涯のライバルとしか見られないって!」
悲痛な大声を上げたのは、赤髪のショートヘアを乱し、大きな木剣を握りしめた少女――学園の剣術大会で優勝候補と謳われる、騎士爵家のメルティ・フォン・アシュクロフトだ。
いつもは太陽のように明るい彼女だが、今はペタンと床に崩れ落ち、「うわあぁぁん!」と大声で泣き始めた。
「……ねえ、ノア。彼女、あの『ばーがー』とやらを、いくつ食べられるタイプかしら?」
「ど、どうだろうね。でも、幼馴染でライバル扱いでの敗北なら、肉より甘くてカロリーの高いドーナツあたりを、限界まで胃袋に詰め込んであげた方がいいかもしれないよ」
「本当に男のちっぽけな自尊心には呆れますわね……」
カルミラさんは痛いほど気持ちが分かるのか、同情の入り混じった苦笑いを浮かべた。
俺は買い置きの安物のドーナツの箱を取りに立ち上がる。
どうやら俺の平穏なバイト時間は、当分戻ってこなさそうだ。
◇
カルミラさんの『ジャンクフードやけ食い号泣事件』から、息つく暇もなく雪崩れ込んできたのは、剣術科一年のメルティだ。
身の丈ほどの大剣を軽々と振るう『次代の剣聖』。
赤髪のショートヘアに運動着という凛々しい姿で女子生徒の憧れを一身に集める彼女。
だが、今は床にへたり込み、両手で顔を覆って泣きじゃくる哀れな少女でしかない。
俺の妹の親友であり、小学部からの付き合いになる彼女は、俺にとってもう一人の妹のような存在でもある。
彼女が想いを寄せる幼馴染のレオン君のことも、近所で一緒に泥だらけになって木剣を振り回していた悪ガキの頃からよく知っている。
だからこそ、俺に話を聞いてほしいのだろう。
「メルティ、ひとまずソファに座ろうか。泣きすぎて水分が足りてないだろうし、お茶でも淹れるよ」
「うぅっ……ノア先輩。私、今日こそは想いを伝えようと、昨日から準備して、お弁当を作ってきたんです。なのに……」
俺は『特製ハニーグレーズド・ドーナツ』の紙箱を机に置くと、メルティはふらふらと立ち上がり、カルミラさんの隣に腰を下ろした。
彼女の膝の上には、可愛らしいピンクの布で包まれた、歪な形のお弁当箱が乗せられている。
日頃、剣の素振りでマメだらけになった手で、必死に不器用な裁縫と料理をしたのだろう。
「お弁当を渡す前に先制攻撃を食らったってわけだね? 相手は幼馴染のレオン君かな?」
「はい……。放課後、彼を中庭に呼び出そうとしたら、あいつの方から『お前に大事な話がある』って言ってきたんです。だから私、ついに両想いになれたのかと思って、心臓が口から飛び出そうなくらいドキドキして……」
メルティはお弁当箱をきつく抱きしめた。
「そしたら、あいつ……照れくさそうに頭を掻きながら、『俺、特待生クラスの編入生の子と付き合うことになったんだ。お前には一番に報告したくてさ』って……」
「特待生クラスの子ね」
俺とカルミラさんは、同時に顔を見合わせた。
特待生クラスの編入生といえば、数時間前、カルミラさんの婚約者である王太子を『ポンコツな手際の悪さ』で陥落させた、テレサ・ヴァルクレインしかいない。
「……なるほどですわ。殿下の庇護欲を刺激する一方で、剣術科のエースにまで手を出していたとは。なかなかのやり手ですわね、あの泥棒猫」
「いや、まだ相手がカルミラさんの時と同じとは限らないよ」
「同じに決まってますわ。あの女が歩いた後には、無自覚に魅了された愚かな男たちと、理不尽に敗北した令嬢たちの死屍累々が築かれていますもの」
カルミラさんはすっかり『被害者の会・代表』のような顔つきで断言した。
俺は苦笑しつつ、箱からドーナツをメルティに差し出す。
「まあ、詳しい話は食べてからにしようか。脳の糖分が足りてないから、嫌なことばかり考えるんだよ」
「……ドーナツですか。お気遣いはありがたいですけど遠慮しておきます。私は剣士ですから、こんな砂糖の塊を摂取すれば筋肉が鈍り、剣のキレが落ちてしまいます」
メルティは赤く腫らした目でドーナツを睨みつけ、顔を背けた。
ストイックな剣士としての矜持が、ジャンクな甘味を拒絶しているらしい。
だが、その直後「きゅるるぅぅ……」と地下書庫に悲しき敗北者の腹の虫が鳴り響いた。
カルミラさんがピクリと肩を揺らし、気まずそうに扇子で口元を隠す。鏡写しのように、先ほどの自分を見ている気分なのだろう。
「うっ……」
「き、昨日の夜から仕込みをして、今日のお昼もお弁当を渡すタイミングを見計らっていて、結局お昼ご飯食べられなかったんだよね?」
「は、はい……」
図星だったのか、メルティの顔が一瞬にして赤く染まった。
「いいから食べなよ。甘いものは裏切らないからさ」
俺は彼女の手を取り、半ば強引にドーナツを握らせた。
「……す、少しだけですよ。こんなもの一口食べれば十分ですから」
メルティは渋々といった様子で、ドーナツを口に運ぶ。
油で揚げた生地の小気味良い食感と共に、表面を分厚くコーティングした蜂蜜入りの砂糖衣が、口の中で甘さを爆発させる。
直後、メルティの金色の瞳が限界まで見開かれた。
普段から鶏の胸肉と温野菜ばかり食べているであろうストイックな剣士の舌に、平民の安くて甘いドーナツは、劇薬にも等しい破壊力を持っていたらしい。
彼女の顔には、脳に直接甘さが叩き込まれたような衝撃が浮かんでいる。
「お、美味しいぃ……!」
驚愕の声を漏らした後、メルティは無言になり、怒涛の勢いでドーナツを咀嚼し始めた。
一口、また一口と、まるで獲物を貪るような勢いで甘味を摂取していく。指先についた砂糖まで丁寧に舐めると、彼女はハッとして我に返って俯いた。
「……口に合ったみたいでよかったよ」
「こ、こんなもの甘すぎるし、油っこいし、カ、カロリーの暴力ですっ! でも、悔しいけど少しだけ落ち着きました……」
ポロポロと涙を流しながら、メルティは二つ目のドーナツに手を伸ばす。
「ふふっ。私の時の下品な『ばーがー』に比べれば、少しは上品な食べ物みたいですわね。お茶もどうぞ」
カルミラさんは優雅な手つきでドーナツをつまみ上げつつ、もう片方の手でメルティにティーカップを差し出した。
いつのまにか、この地下書庫の傷心令嬢の先輩面をしている。
「さて、お腹も膨れたようだから、話の続きを聞こうか。レオン君は、君のことを『生涯のライバル』と言ったんだよね?」
「はい。私、レオン君……いえ、あいつとは小さい頃からずっと一緒に剣を振ってきたんです。あいつがチンピラに絡まれた時も、私が木剣で叩きのめして助けてあげました。あいつがスランプで悩んでいた時も、私が夜通しで手合わせをして目を覚まさせてやりました」
メルティはドーナツをモグモグと頬張りながら、恨みがましく言葉を紡ぐ。
「なのに、あいつは……あの女を選んだんです。『お前は、俺の背中を任せられる最高の相棒だ。でも、あいつは……俺が守ってやらなきゃ、一人じゃ何もできないんだ!』って!」
「また、それですの!? 本当に男という生き物はどうして揃いも揃って『自分が守らなきゃ』という病に罹っているんですの!?」
カルミラさんがバンッとテーブルを叩き、扇子をパチンと広げた。
扇面にはいつのまにか『愛とは寛容』と美しい墨字で記されているが、今の彼女から放たれるのは寛容さの欠片もない激しい怒気だ。
「私、あいつより剣術の成績は上なんですよ!? あいつがピンチの時は、いつも私が背中を守ってやってたのに!」
「それがダメだったんじゃないかな?」
俺は冷めたお茶を啜りながら、静かに事実を口にした。
「レオン君は剣術科のエースだよね。当然、男としてのプライドや『自分が守りたい』という自尊心がある。でも、メルティの前では常に『守られる側』か『互角』でしかないと思うよ。そこへ圧倒的にか弱くて、すぐに転んで、自分がいなければ生きていけなさそうな少女が現れた」
「うっ……」
「レオン君は彼女を守ることで、初めて男としての優位性を証明できたんだと思う。君と一緒に泥まみれになって戦ってきた年月は、彼女の『助けて』という一点突破の前に、呆気なく崩れ去ったというわけだね」
メルティはドーナツを取り落としそうになるほど絶句した。彼女の脳内で、これまでのレオン君との思い出が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが分かる。
だが、取り落としそうになったのは、隣で話を聞いているカルミラさんも同じだった。
十三年分の努力を完全否定されたトラウマが、見事にフラッシュバックしたらしい。
「そんな……私、あいつのために強くなったのに……。あいつの隣で一緒に戦いたくて、血の滲むような努力をしてきたのにっ!」
「理不尽だよね。でも、君は何も間違ってないよ。ただ、レオン君にとって都合の良い相手じゃなかった。ただ、それだけのことなんだよ」
俺の言葉に、メルティは再びボロボロと涙を溢れさせた。
すると、隣に座っていたカルミラさんが無言のままメルティの肩を抱き寄せた。
「お泣きなさい、メルティ。あなたの気持ちは痛いほど分かりますわ。私たちは完璧すぎました。愚鈍な男共には、私たちの輝きを正しく評価するだけの知性がなかった。それだけのことですわ」
「カルミラ先輩っ……う、うわぁぁぁんっ!」
完璧な公爵令嬢と、無敗の天才剣士。
学園の頂点に立つ二人の美少女が、地下書庫の安っぽいソファで抱き合い、ドーナツの粉を撒き散らしながら号泣している。
なんとも痛々しくて、それでいて少しだけ笑える光景でもある。
「さてと、二人とも泣くのは自由だけど、そろそろ今後の身の振り方を考えた方がいいんじゃないかな? いつまでもここで泣いているわけにもいかないだろうし」
俺がそう言うと、二人は同時にピタリと泣き止み、顔を上げた。
「……そうでしたわ。公爵家の誇りにかけて、このまま泣き寝入りなんてあり得ないですわ! あのバカ殿下に、私という存在を失ったことの愚かさを理解させてやらないといけませんわ!」
「私もですっ! あのバカに、ただの相棒じゃ終わらないってことを見せつけてやるのです!」
二人は互いの顔を見合わせ、まるで長年の戦友のように力強く頷き合った。
どうやら、この地下特別書庫を拠点として、理不尽な運命に抗う謎の同盟が結成されようとしているらしい。
俺にはただの傷の舐め合いにしか見えないが、嫌な予感しかしない。
どう考えても面倒事の巣窟になりつつある。
俺はため息をつきながら、空になったドーナツの箱を片付けた。




