第十四話 盤上のトラウマと愛という名の鳥籠
一時間後。序盤は順調だった部活動という名のボードゲーム。
メルティは持ち前の運動神経を引き継いだかのように『凄腕の冒険者』の職業マスに止まり、高額な給金を稼ぎ、クロエさんは『治癒士』を引き当て、堅実で安定した収入を得ることに成功した。
カルミラさんも『大臣』という権力者への道を歩み始め、それぞれ順風満帆な滑り出しを見せている。
「おーほっほっ! やはり上に立つ素質というのは、盤上でも隠しきれませんわね! さあ、次の私のマスは……『部下の不祥事が発覚し、責任をとって辞職。金貨十枚払う』……」
「あぁ、カルミラさん、早くも無職になったね。銀行に金貨十枚払って」
「な、なんですのこれ!? 私は何も悪くありませんのに、なぜ責任を取らなければならないんですの!? 理不尽ですわ!」
「理不尽だけど、それが人生だからね。連帯責任というやつだよ」
俺がチョコ・ステッキを齧りながら告げると、カルミラさんは渋々と銀行(俺)へと支払う。
しかし、本当の地獄はここからだった。
ボードの中盤には、全プレイヤーが必ず止まらなければならない『結婚マス』が存在するのだ。
「ルーレットの出目は……結婚マスなのです!」
メルティがルールに従い、配偶者を示す水色のピンを馬車に刺す。
「ふっふっふ……これで私も一人前の家庭を築くのです。相棒ではなく、妻としての幸せな第一歩なのです! 次のマスは……『凄腕冒険者パーティから追放され、配偶者が浮気。慰謝料の金貨五枚払って離婚』!?」
メルティの馬車から、今刺したばかりのピンが引き抜かれた。
「ま、またしても泥棒猫にたぶらかされて……許さないのです! 盤上でも裏切るなんて、このピンごと叩き斬ってやります!!」
「……メルティ、落ち着いて。マス目の指示が容赦ないのは分かるけど、これはただのゲームだし、そのピンはレオン君じゃないからね」
木剣を抜こうとするメルティを必死に宥めるが、悲劇の連鎖は止まらない。
「あたしも結婚マスっすよ! えと……『初恋の相手が妹のようにしか見えないと言い始めて婚約破棄。精神的ショックで一回休み』……」
子供向けゲームが、まさかの現実と同じ境遇に、俺は思わず言葉を失う。
「やっぱりゲームであっても、あたしの心は火事なんすよ!」
クロエさんがチョコ・ステッキをヤケ食いしながら号泣し始めた。
そして無職のまま借金を重ねていたカルミラさんの番が回ってくる。
「……わ、私だって結婚くらいできますのよ! ここから大逆転の玉の輿に乗って見せますわ!」
カラカラと回ったルーレットに従い、カルミラさんが震える手で馬車を進める。
「止まったマスは……『結婚式当日、パートナーが別の女を庇って式をボイコット。全財産を失い、開拓地へ左遷』……」
まさかと思い、ボードを覗き込むが、またしてもマス目には絶望的な境遇。
このゲーム、俺が子供の頃にやっていた時とは違い、今では波乱万丈な人生を想定して作られていた。
「私も同じですわ!? 現実でもゲームでも、いつも理不尽に奪われる側ですの! あの泥棒猫の顔がチラついて正気ではいられませんわ!」
完璧な公爵令嬢が、ゲーム盤に突っ伏した。
令嬢たちのトラウマが、一枚の厚紙によって完全再現されてしまったのだ。
「お兄さま! 泥棒猫たちが自滅していく中、ココナはお兄さまと共にゴールマスへ到達しました! 愛の完全勝利です!」
「ココナ、いつの間に俺の馬車にピンを移したんだ? 俺、まだ中盤のはずなんだけど……」
盤上の理不尽さに誰もが頭を抱えた時、書庫の扉がゆっくりと開いた。
「あ、あなたは!?」
カルミラさんの声が鋭く尖る。
無理もない。特待生の制服を纏う彼女こそ、令嬢たちの人生を狂わせた『元凶』――編入生のテレサ・ヴァルクレインだった。
「本丸が乗り込んできたのです!」
「泥棒猫っすね……!」
メルティが木剣の柄を握り込み、クロエさんが身を強張らせる。
一触即発の空気が書庫を満たす。
だが、当のテレサは放たれる殺気など気にも留めない様子で、虚ろな瞳のままふらふらと近付いてきた。
よく見れば、彼女は透けるほど顔色が悪く、呼吸も浅い。
「すっごく体に悪そうな甘い匂いがしたから……」
掠れた声で呟いたテレサ。
彼女の視線は、俺の手元にあるチョコ・ステッキへと縫い付けられていた。
「き、君も食べる?」
「なっ!? ノア、敵に塩を送るなんて正気ですの!?」
「その通りなのです! 不用意に餌付けするなんて危険なのです!」
「そうっすよ! 泥棒猫にあげる必要なんてないすよ!?」
みんなの制止をよそに、俺が差し出したチョコ・ステッキを、テレサは震える指先で受け取った。
そして、一口。
安っぽいカカオの風味と、暴力的な甘さが口の中に広がったのだろう。
彼女の瞳から、スッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「美味しい……」
静寂に包まれた書庫に、小さな咀嚼音だけが響く。
それは無邪気な食い意地などではない。
限界まで飢餓状態に置かれた者が、泥水をすするようにして命を繋ぐ、痛々しい姿そのものだった。
「あなた、殿下たちに毎日最高級のスイーツをご馳走になっているのではなくて……?」
毒気を抜かれたカルミラさんが、戸惑いがちに問いかける。
テレサは力なく首を振った。
「毎日、私の胃腸を気遣った味気ない食事。塩気も香辛料もない温野菜と魚だけよ……」
「え……?」
「走ろうとすれば『危ないから』。魔法の練習をすれば『俺が守るから』。ジュースを飲もうとすれば、健康に悪いと水に変えられる……」
チョコを握りしめるテレサの手が、小刻みに震える。
そこにあるのは魔性の悪女などではない。
過剰な庇護という名の鎖に繋がれ、息絶え絶えになった小鳥の姿だった。
「あの人たちは、私なんか見ていないわ。自分たちが優越感に浸るために、押し付けているだけ。少しでも一人で何かをしようとすると、ひどく不機嫌な顔をするの」
絞り出すような告白。
彼女に向けられた感情は『愛』ではなく、男たちの『自尊心の処理』でしかなかった。
「……なるほど。私たちが有能すぎたから不要だったように、あなたは無能であり続けなければ不要になる、ということですのね」
カルミラさんがパチンと扇子を広げる。
扇面には『愛という名の檻』と記されていた。
「……なんだか、急に怒る気も失せたのです」
「あたしたちより、よっぽど息苦しい生活してるっすね……」
メルティが木剣から手を離し、クロエさんが憐れむような視線を向ける。
真逆の境遇でありながら、男の理想の被害者という一点で、彼女たちの間に奇妙な共鳴が生まれていた。
「……まったく男という生き物は、いつの時代も自分の理想を女に押し付けるのが好きだな」
静寂を破り、レティア先生がゆっくりと歩み寄ってくる。
「ほら、甘いチョコの後には、これを流し込むといい」
先生がコーラの入った紙コップをテレサの前に置いた。
恐る恐るコーラを口に含んだテレサが驚いたように目を見開いた。
「……っ!? これ、すごく喉が焼けるみたいで美味しい」
「綺麗に飾られた鳥籠より、刺激の強い泥水の方がマシな時もある」
「……先生、あの男たちより、ずっといい女ですね」
微かに笑みをこぼす泥棒猫。
対して、俺の右腕に張り付くココナだけは「また新たな厄介者が!」とハンカチを噛んで警戒を強めている。
盤上に転がる理不尽なトラウマと、守られすぎて不幸になったヒロイン。
平民部の面倒事は、まだまだ尽きないようだ。




