第一話 婚約破棄された公爵令嬢は、ハンバーガーに泣く
「――よって、カルミラ・フォン・ローゼンクロイツ! 君との婚約は破棄させてもらう! ……ですのよ!? ねえ、ノアってば聞いてますの!?」
「……う、うん。聞いてるよ、カルミラさん」
王立学園の校舎。最奥に位置する地下特別書庫。
普段は完璧な令嬢の皮を被っている常連客の、取り乱した怒声が響き渡った。
迫真の一人芝居で婚約破棄の場面を、かれこれ三十分以上かけて再現した、公爵令嬢のカルミラさん。
そんな彼女に対し、ここでバイトしている俺、ノア・リードは手元の恋愛小説から視線を上げずに相槌を打った。
「絶対に適当に聞いてましたわよね!? だいたい、その地味な青髪といい、人相の悪い目つきといい、背景に溶け込むしか取り柄のない平民の分際で、私にタメ口なんて、本来なら不敬罪ですわよ!?」
「……いつもは澄ました顔で小難しい本を読みに来るくせに。一時間前にわあわあ泣き叫びながら駆け込んできて、俺に散々愚痴をこぼした挙句、いつのまにかタメ口になってたのはそっちなんだけど……今さら敬語がいいんですか?」
「むぐっ……!」
痛いところを突かれ、深紅のドレスを纏うカルミラさんは悔しそうに肩を震わせた。
彼女の特徴である金髪のツインドリルは、豪雨に晒された犬の耳のように力なく垂れ下がり、最高級の扇子は規格外の膂力でミシミシと湾曲している。
扇面には『愛とは忍耐』と綴られているが、今の彼女に、その忍耐はないらしい。
「と、とにかく! そもそも私は、あの編入生と話したことすらありませんのよ! 身に覚えのない罪状で悪役扱いなんて、笑えないですわ!」
「……とりあえず、そこに座ろうか。少し休んだ方がいいと思うよ」
俺の言葉にカルミラさんは小さく頷くと、ふらふらとソファに腰を下ろした。
俺は机に本を置き、改めて彼女と向き合う。
背筋はピンと伸びているが、顔色は悪く、扇子は力強く握り締められたままだ。
「そうだ。気晴らしに何か食べる?」
「食べ物……? そうですわね、ズタズタに引き裂かれた私の心を修復するには、最高級の白トリュフを惜しげもなく削りかけた黄金のコンソメスープか、焼きたてのオマール海老のパイ包みくらいしか効果がないでしょうけれど」
「あいにく、ここはしがない平民のバイト先だからね。さっき昼飯用に買ってきた『特大ダブルチーズバーガー』ならあるけど、食べる?」
「な、なんですの、その響きだけで胃もたれしそうな下品な食べ物は。私にそのような平民が路上で貪るような、得体の知れないものを食べろと言いますの?」
カルミラさんは眉を吊り上げ、心底侮蔑したような視線を俺に向けてきた。
だが、その直後「ぐうぅぅっ……」と、彼女の腹の虫が鳴り響いた。
「うっ……」
「……ほ、ほら、包み紙を開いて両手で持って食べるんだよ。ソースが垂れるから気をつけて」
顔を真っ赤にして俯くカルミラさんの前に、温かい紙包みを差し出す。
彼女は震える手で受け取ると、まるで親の仇でも見るかのような目で、バンズに挟まれた分厚い肉と、滴るチーズをにらみつけた。
「こ、こんなお粗末なもの、我が公爵家の犬だって食べませんわ。……で、ですが、あなたがどうしても食べてほしいと懇願するから、仕方なく一口だけ食べて差しあげますわ! あくまで仕方なくですのよ!」
カルミラさんは文句を言いながらも『特大ダブルチーズバーガー』にかぶりつく。
その瞬間、彼女の燃えるような赤い瞳が限界まで見開かれた。
王侯貴族が口にする繊細で上品な料理とは対極にある味付け。粗挽き肉から溢れ出す肉汁。濃厚なチーズの塩気。それらをまとめ上げるスパイスの効いた甘辛いソース。
暴力的なジャンクフードの旨味に、完璧な公爵令嬢様は一瞬で敗北したようだ。
「な、なんて美味しいの!? あっ……ふ、ふん! まあ、平民の餌にしては悪くないですわね」
口の周りにソースをべったりつけながら強がる彼女の瞳から、突然ポロポロと涙が溢れ出した。
その涙は、婚約破棄の悲しみか、悪役扱いの悔しさか、はたまた未知の美味への感動か。
おそらく、その全てが入り混じり、カルミラさんは「ヒックヒク」と嗚咽を漏らしながら貪り食らいついている。
その姿は、彼女自身が例えた公爵家の犬……いや、飢えた野犬そのものだ。
俺は淹れたての安物の紅茶を啜りながら、嵐が過ぎ去るのを静かに待つ。
今、俺にできることは、彼女の暴走を受け止め、適当に相槌を入れて胃袋を満たしてあげることくらいだ。
あとは早くこの面倒事を終わらせて業務に戻らないと、司書長にサボりがバレて大目玉を食らうハメになる。
それだけは、何としても避けたい。
バイトして食いつないでいる身としては、そこが一番重要なのだ。
親からの仕送りもないし。
やがて包み紙だけになったところで、俺は壁掛け時計をチラリと見てから本題を切り出した。
「少しは落ち着いたかな? 確か、いじめの冤罪で断罪されたんだっけ?」
「断罪、なんて響きの悪い言葉はやめてくださる? 一時的な戦略的撤退、あるいは、私の価値を理解できない愚鈍な男を、私から切り捨ててやりましたの」
「撤退なのか、捨てたのか。どっちにしても、どんな状況だったのかな?」
「……生徒会室ですわ。ユリウス殿下に来月の建国祭の予算案の確認をお願いしようとしたら……突然、あの女が、『カルミラ様に教科書を隠されてしまいましたぁ』って、泣きつきましたの。話しかけたことすらありませんのに!」
なるほど、典型的な冤罪か。
最近流行りの恋愛小説の展開に、俺は内心でため息をつくと、カルミラさんは怒りのままに身を乗り出し、早口でまくしたてる。
「だから私、その時間は王妃教育中だったアリバイに加えて、そもそも彼女の教室の場所すら知らないという事実を突きつけて、完膚なきまでに理詰めで論破してやりましたの! そしたらあの泥棒猫ったら、急にパニックを起こして『ひいっ……! カルミラ様が怖い顔で責めるからぁ……! あっ、手が滑って……きゃあ!?』なんて騒ぎ出して! あろうことか、『魔道湯沸かし器』の使い方が分からずにお湯を暴発させましたのよ!?」
カルミラさんは包み紙を恨めしそうに見つめながら言葉を紡ぐ。
「殿下は彼女を庇って熱湯を浴びて『大丈夫か? 私の庇護が必要な小鳥ちゃん』ですのよ? ただの湯沸かし器ですわよ!? 魔力弁を開いて魔石を押し込むだけの五歳児でもできる操作ですわよ!? どこが庇護の必要な小鳥ですの!? あれは明らかに知能に問題がありますわ!」
「なるほど。正当な反論よりも、男の庇護欲を満たす手際の悪さに負けたわけだね」
俺の相槌に、カルミラさんは扇子を力強く握りしめた。
「負けてませんわ! ただ……私であれば、あの旧式の湯沸かし器程度、目隠ししたまま一分で分解して組み立てができますのよ?」
「……それは熟練の魔道具師レベルに匹敵すると思うけど、殿下は妃候補に、そんなスキルは求めてなかったんじゃないかな?」
「と、とにかく、殿下は『カルミラ、君は有能すぎる。だが、その有能さを弱者を虐げるために使うような冷酷な女に国母は任せられない。それに一人で完璧に生きていける君には、私の支えなど必要ないだろう。だが、彼女は私が守ってやらなければ、君のような強者からのいじめにも対抗できないのだ』って!」
「なるほど。ただの心変わりを、いじめの冤罪と弱者を守る正義という大義名分で正当化して、婚約破棄を叩きつけたわけだね」
カルミラさんの声が、再び震え始める。
「私がどれだけ努力してきたと思っていますの……? 三歳の頃から、いつか彼の隣に立つためにと、王妃教育という名の地獄を経験してきましたのよ? 政治、経済、歴史、他国の言語、そして彼が好む紅茶の温度に至るまで……全てを犠牲にしてきましたのに!」
カルミラさんの叫びは、書庫の静寂に虚しく吸い込まれていった。
容姿端麗、頭脳明晰、家柄も申し分なし。
十三年間、ただ一人の男のためだけに己を磨き上げ、一切の隙もない完璧な令嬢になった。
だが、その完璧さが最大の敗因だったのかもしれない。
とはいえ、これ以上喚かれると、俺の平穏なサボり時間が削られてしまう。
(面倒だけど、ここは少しだけ頭を回して、この完璧すぎるご令嬢を論理的に納得させてあげようかな)
俺はため息をつきつつ口を開く。
「カルミラさん、君は自分がなぜ選ばれなかったのか、本当の意味で分かっていないみたいだね」
「……どういう意味ですの? 私が可愛げのない女だったから? それとも、あの泥棒猫が幻惑の魔道具でも使っているとでも言うのかしら?」
「魔道具なんて大層なものじゃないよ。男は権力を持てば持つほど、自分の存在価値を『無力な女の子を助けること』に見出そうとする単純な生き物だからね」
「偉そうに、知った口ですわね」
俺は手元の裏紙を引き寄せ、羽ペンで殿下とカルミラさんに見立てた二つの丸を並べて描いた。
「君は完璧すぎた。誰の力も借りず、自立し、有能で隙がない。君が殿下と並び立つことは『優秀な右腕』を得ることにはなる。でも、俺がいなければ駄目だという優越感――つまり、男の自尊心を満たすことができないんだ」
「なんですの、それ! では、今までの血の滲むような努力は、すべて彼を遠ざけるための逆効果だったとでも言いますの!?」
「身も蓋もない言い方をすれば、そういうことになるね」
俺は並んだ二つの丸の横に、不格好な小さな丸を書き足す。
「そんな自尊心を持て余していた殿下の前に、彼女が現れた。特技は平坦な床での転倒と魔道具の誤作動。きっと書類仕事をやらせればインクをぶちまけ、お茶を淹れさせれば火傷する。圧倒的なまでのポンコツだね」
「……そうですわね。信じられないほど手がかかりますし、見ていて苛立ちますわ」
「だけど、そこがいいんだ。彼女の圧倒的な無能さは、殿下に『俺が教え、導き、守ってやらなければ』という強烈な存在意義を与えるんだよ。君が十三年の歳月をかけて築き上げた有能なる城は、彼女の無能による庇護欲の刺激という一点突破の前に、呆気なく崩れ去ったというわけだ」
残酷な真理を突きつけられたカルミラさんは絶句した。
彼女の聡明な頭脳は、平民である俺の分析が完璧に的を射ていることを理解してしまったのだろう。
「理不尽ですわ! そんなの、あんまりですわ……」
「うん、理不尽だね。でも君は綺麗で、努力家で、圧倒的な魅力を持っている。ただ、殿下にとって都合の良い相手じゃなかった。それだけのことだと思うよ。君の努力は、何も間違っていなかったと思う」
カルミラさんの肩が、ビクンと跳ねた。
張り詰めていた糸が切れたように、表情から険しさが抜け落ちる。
ギュッと握りしめられていた扇子も、力なく膝の上へと滑り落ちた。
(十三年分の否定を、この数分で飲み込めるわけがないよね……)
俺は言葉をかけずに静かに見守っていると、やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、赤く潤んだ瞳で俺を見つめた。
「ノア、あなたは平民で目つきも悪いし冴えないし、趣味は地下に引きこもることという最悪の条件が揃っていますけれど、たまには良いこと言いますのね」
「それ、褒めてないよね……?」
「あら? 最上級の褒め言葉ですわ。完璧なこの私が平民の分析を認めてあげたのですから、光栄に思いなさいな」
「それはそれは光栄の至りだね。それで、これからどうするの? 王妃になるという目標を失った今、カルミラさんのその無駄に高いスペックを持て余すことになるよね?」
「む、無駄ではないですわ! ですが、とりあえず……」
カルミラさんはゆっくりと立ち上がり、ドレスの皺を優雅な手つきで払い落とす。
先ほどまでのやけ食い号泣が嘘のように、不敵な笑みを浮かべた。
「あのバカ殿下と泥棒猫が、生徒会の仕事を回せずに泣きついてくる日を、この特等席から高みの見物と洒落込もうかしら」
「性格が悪いね……」
「失礼ですわね! 私はただ、無能な者たちが自滅するのを観察して、今後の人生の教訓にして差し上げようというだけですわ!」
カルミラさんは、ふいっと顔を背けて強がるが、その横顔はどこか晴れやかだった。
すっかり機嫌を直した様子に、俺もホッと胸を撫で下ろす。
これで一件落着か。
そう思い、俺は再び小説に手を伸ばそうとした、その時だ。
バンッ! 本日二度目となる扉の悲鳴が上がり、見慣れた少女が部屋に飛び込んできた。




