マドレーヌ
三題噺もどき―よんひゃくなな。
くぅ―と、小さなうめきが聞こえた。
腹の虫というけど、やっぱり犬の鳴き声にしか聞こえない。
「……」
掌に預けていた顔を上げ、時計を見る。
三時……ふむ。
今日はきちんと昼食は摂ったのだけど、腹が鳴るとは。
おやつ時なんて私の中には存在しないはずなんだけれど。
「……」
おかげで集中が切れた。
猫背になっていた上半身をおこし、背もたれに預ける。
背骨がきぢりと、痛んだが、お構いなしだ。
この痛みは数年ほど続いていて、以前病院にも言ったのだが、大した問題はないと言われたので、放置している。
しかし、ここ最近は酷くなっているから、もう一度行った方がいいのだろうか……。
まぁ、筋力がないとか姿勢が悪いとか、それだけなんだろうけど。
「……」
ぐっと、腕を伸ばし、背筋を伸ばし―脱力する。
さて、何かを食べることにしよう。
もう少し時間が遅ければ、そのまま夕食でも食べてもよかったのだけど、さすがにこの時間に夕食を食べては、夜に支障が出そうだ。
「……」
膝の上に置いていた本を閉じ、机の上に置く。
ついでに、空になっていたマグカップを手に取り、キッチンへと向かう。
何かあっただろうか……お菓子の類はあんまり買いもしないから。甘いものは苦手だし、そもそもお菓子を買うと言う意識?があまりない。
「……」
あぁ。
そういえば。
忘れていた。
「……」
随分前に渡された、頂き物があったのだった。
頂き物というか、押し付けられたものというか。
普段はあまり甘いものは食べないので、もらったところでと、困ったので、とりあえず冷蔵庫に入れていたのだ。モノがモノだったから。
倒れて入院して、退院して、数日後くらいに、わざわざ家にまで来た同僚にもらったもの。
「……」
マグカップを置き、電気ケトルのスイッチを押しておく。
―と思ったが、グラスを手に取り麦茶を飲むことにした。
冷蔵庫を開き、作り置きしているボトルを手に取る。
少々重く感じるそれを傾け、グラスに注いでいく。
「……」
ついでに冷蔵庫の中身を確認し、探していたものを見つける。
あぁ、あった。あれだあれ。
軽く一口飲み、グラスをキッチンに置く。
「……」
ほんの少し奥まったところに入り込んでいたそれを手に取る。
―マドレーヌというお菓子だそうだ。
同僚が、ここの人気なんだよと言って持ってきた。
ついでに自分のも買ったんだぁと言っていたので、本命はそっちで私のはついでだろう。
「……」
あまりこういうおしゃれな感じのものは食べない上に、甘いものは好みではない。
だからまぁ、ホントは断ってもよかったのだが……一応ご厚意というものだし、断った方が面倒だと思ったので、受け取ってすぐここに入れていたのだ。
客人が来るような家でもなし、身内は妹がたまに来るが、あれもあまり甘いものは好まない。
だから、こうして忘れられていた。
「……」
個包装されたマドレーヌを手に取り、裏を見る。
賞味期限か消費期限かが記載されているはずだが。
さて……。
まぁ、許容範囲か。
「……」
忘れていたのだから、仕方あるまい。
本来は、もう少し温かみのある、柔らかいモノなのだろうけど。
長時間冷蔵庫にいたせいか、冷え切って、少々武骨な感覚が返ってくる。
「……」
忘れられたものは、思いだされない限り。
こうして知らぬところで冷えていく。
まぁ、なんでもそうだな。
「……」
なんでこういう思考に陥るのかって。
私でも不思議に思うくらいおかしいのだ。
でも、どうしたって勝手に思考は巡る。
「……」
忘れられたものを見ただけで。
何かが内にむく、と生まれる。
「……」
私もきっと、こうして休養をとっている間に。
忘れられ、捨てられていくのだろう。
「……」
生まれたソレは、嵐のように荒れ狂う。
一つ二つと増え続ける、獣のように暴れる。
「……」
いらぬ記憶まで引き摺り出し、回顧の渦に落とす。
ろくな記憶は仕舞い込んでいたのに、それを開けて。
「……」
楽しいものは残らないのに、嫌なものだけが残る。
それでも、どうにかできるらしいが、どうにも。
私には、それがないと。
思いだしたくもない記憶がないと。
「……」
回想。後悔。回顧。恐怖。回想。苦痛。回顧。自省。
回顧。回顧。後悔。自省。自省。自省。
「……」
「……」
「……」
ピーピーピー
「……」
冷蔵庫が早く閉めろと急かしてきた。
忘れるついでに、己の事を忘れるなと。
「……」
ぱたんと、冷蔵庫の扉を閉じる。
手に持っていたマドレーヌの袋を破り、口に運ぶ。
ころりと、口内に落ちたそれは。
酷く冷たく、固く。
お題:マドレーヌ・増え続ける・嵐




