1 遭遇
1─1 首府ルアン
「昨日の公演も大盛況だったな」
「僕はづがれだでずぅ〜」
「さ、買い出しに行くぞ!」
セルグとフォートが外に出ると、眼前に開けたセヌ河の河面を滑るように吹き抜けてきた初夏の風が二人の頬を優しく撫でた。
フィロソフィ公国の首府、ルアン。街の西側を分かつセヌ河はゆったりと蛇行しながら西方のルアン湾に注ぎ出る。広大で穏やかに自然蛇行するセヌ河流域内には、大小様々な中洲島が点在する。ランゲジーズ一座が拠点としているラクロワ島は最下流に位置する比較的大きな中洲島で、居住区から商業区、娯楽区までが一通り揃っている。ラクロワ島の北西側の対岸には、世界一の高さを誇るルアン大聖堂の尖塔が天を突き、足元には賑やかな市場が開かれている。
二人はその大尖塔に向かって歩きだした。細長いラクロワ島の背骨のような目抜き通りを抜けて北西端から短い橋を右に渡ると、もう目の前にルアン大聖堂が現れる。首府の中心地だけあって、いつも大勢の人が行き交っている。
「お、あれ、数力者じゃね?」
セルグが目ざとく見つけた一団は、理知的な眼光で周囲から浮いた雰囲気を醸していた。
──「数力者」。このフィロソフィ公国に多く集まる特殊能力者たちだ。数理的な魔法「数力」を操り、数力を練り込んだ「数力石」を精製し、時に「怪物」の狩猟に赴く高度な能力者は、公国民の憧憬の対象である。
「そうだろうな。これから狩りに出る準備をしてるんじゃないかな。」
「いいなー。僕も狩りをしてみたい。」
「俺らの着脱じゃ無理だ。」
「ちぇっ。なんで僕は数力を持てなかったんだ?」
「…相当アタマ良くないと無理みたいだぞ。それに、着脱だって立派な能力だろ。」
「しょせんは大道芸じゃないか。」
大聖堂前の緑地に開かれた市場には、産地直送の新鮮食材が山積みになっている。
「ベイジーの買い出しメモは?」
「えーと、これこれ。にんじん、じゃがいも、トマト、きゅうり、リンゴ、レモン…。」
「やっぱり、ここいらには何でもそろってるなぁ。」
辺りを見回しながらフォートがつぶやいた。
「あ」
「ん?」
「…お金を忘れたかも。」
「おい。」
「取りに戻る?」
少し思案したのち、フォートは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「面倒だな。今日は人出が多いし、ここで一稼ぎ出来そうじゃないか?」
セルグもにやりと返した。
「やってみよっか。」
緑地の中央噴水前に陣取って、おひねり投入用のシルクハットを置いた。パインから借用している絡繰楽器を起動して、軽快なカントリー音楽を流せば準備完了だ。
「ご通行中のみなさーん、こーんにーちはー! これからー! 楽しい大道芸をー! 披露しまーす! 良かったらー、見ていってー、くーださーいねー!!!」
大道芸と言いながらほとんど手ぶらの二人に、行き交う人々が不思議そうに一瞥をくれる。
『着脱!』
道端の砂利がふわりと舞い上がる。噴水の飛沫がぴたりと静止する。絡繰楽器のリズムに乗って規則的な軌道で二人の周囲に集まり、美しい幾何学模様を描き始めた。快晴の陽光が水滴や硝子砂に反射してきらきらと輝き、時折小さな虹を架ける。
「あぁっそんな、お子様の大切なお小遣いなんて恐れ多い! 私たちは、丸くて硬いものよりも、四角くて折れるものが大好きです! そう、親御さんのそれ! 小さく折って、よろしくお願いします!」
感心しながら足を止める人集りが次第に大きくなり、おひねりも集まり始めた。店の中から興味津々でのぞいている青果店の主人をセルグが見逃すはずがない。
「おーじさーん! その野菜と果物を借りてもいーですかー? あとでお返ししまーす!」
「おぉ? かまわんがー…」
主人の返事が終わらないうちに、トマトやブドウ、レモンといった色鮮やかな野菜や果物がぽんぽんと行儀良くリズミカルに跳ねてジャグリングに加わった。一段と華やかになった大道芸に、見物客たちから歓声があがった。
「見事なものですね。」
「あぁ。我々の数力とは本質的に違った才能だ。」
「見ていると何だか惹き込まれます。」
「そぉだな。良いものを見せてもらった。…じゃぁ、我々は狩りに向かうとしようか。」
1─2 アルデーシュ峡谷
「いーね〜。この川原でバーベキューでもしたらサイッコ〜。今度カノジョ連れて来よ〜。」
「…どの娘だよ。おまえ、いま四股してるだろ。」
「言いかた〜。みんな良い娘だよ〜。なんなら、みんな連れてきちゃおっかな〜?」
「…許されないぞ。いろいろと。」
ライヒ王国の南部に位置するアルデーシュの森。原生の広葉樹で深く包み込こまれた丘陵地を、細いアルデーシュ川が穿入蛇行しながら削り取り、複雑で急斜な峡谷を形成している。アルデーシュ川は季節によって水位が大きく変動する荒々しさでも知られる。夏に差し掛かった今は川底が広く露出し、深い森の中で白い川石が太陽光を反射して一際輝いて見える。
フィロソフィ公国の域外にあるため、狩猟目的で立ち入るにはシャルル国王の許可が必要だ。この手続きを大抵の数力者は面倒がるため、これまでここを探索した数力者は皆無だった。
「ピクニックに来たんじゃないんだぞ」
軽口を叩き合うガスリー兄弟を、統率するモルガンがぴしゃりと制した。
モルガンが練り込みを続けている数力石「命題論理。」これが完成すれば、多くの怪物を退治することが可能な強力な武器になると期待される。しかし、完成に近づきつつも、モルガンは何か不足するものを感じ、その手がかりを探そうと未踏の地の探索を申し出た。シャルル国王もその要求を認め、ようやくこの機会を得ることができたのだ。手ぶらで帰るわけにないかない。何かしらの成果を持ち帰る必要がある。
視界がひらけた。アルデーシュ川の大蛇行で形成された広い川原が白く眩しい。
「ここでテントを張ることにしようか。」
「そうですね、師匠。お手伝いします。」
ガスリー兄弟も素直に従った。長丁場に及びそうな探索作業の拠点としてはうってつけの場所に見えた。いまここでバーベキューしたい、とでも言いたげな弟を兄は睨んで黙らせた。
「君たちは枯れ木を集めてきてくれ。」
『承知しました。』
アルデーシュ川から森に入るには、整備もされていない急斜面を登る必要がある。
「ふぅ〜。けっこう疲れるねコレ〜。」
「仕方ないだろ。それに、このルートはまだ緩い方だ。」
「あ〜 師匠はズルい〜。」
「うるさいぞ。とっとと登れ。 …ん? あれは…?」
ガスリー兄が木陰に灰色の獣を見つけた。猪のような外見、顔面に菱形の毛柄、そして何より、複雑な鱗模様が目を引いた。
「たぶん動物じゃなくて怪物だね〜。しかし見たことがない種類だな〜。」
ガスリー弟も目を細めて確認した。
「とりあえず倒せるか試してみるから、お前は師匠に知らせてくれ。」
「了解〜。」
のそのそと斜面を降りていく弟を、むしろ降りられることをラッキーと思ってるんじゃないかと訝りながら、兄は怪物と対峙した。じりじりと近づき、数力の届く間合いに捉えた。
「問え」
ぽぅっと怪物が仄めき、討伐方法が浮かび上がった。
【四色以内で塗り分けるべし】
「は? それだけ?」
拍子抜けした兄の存在を認識した怪物が、威嚇しながら突進してきた。
「おっとっと。いやこれ、易問だろ。─射影。」
初歩的な数力「射影」によって鱗の配置を整数空間に抽象化し、0〜3の整数だけを割り振って色に変換し、再び鱗に射影し直す。パンッ、と風船が割れるような音がして怪物が消滅した。
「準備運動にもならんな。この辺りには、易問しかいないのか? 師匠は残念がるかな…。」
草を踏締める音が背後から耳に入り、兄はさっと振り返った。弟が師匠を連れてきたようだ。
「新しい怪物を見掛けたと聞いたが。」
「すみません、もう倒してしまい、消えました。」
「難問ではなかったのか?」
「残念ながら…。」
「まあ、仕方ない。難問はそんな簡単に見つからないからな。」
「ん〜? あれは〜?」
弟が木陰にまた似たような怪物を見つけた。
「同類の怪物ですね。師匠、見てて下さい。─射影。」
パンッ。あっけなく二匹目も弾けた。
「確かに易問だな。」
「師匠、兄貴、油断禁物かもよ〜。」
珍しく真剣な表情で弟が辺りを見渡した。山際から途切れがちに届く落日間際の夕光の中を近づいてくる怪物の群集が切れ切れにモルガンの目に入ってきた。
「師匠…。」
「まずいな。囲まれた。」
それぞれの怪物が攻撃体制に入った。球形に丸まり、一斉に突進してくる。
「一度に倒すのは難しそうだな。個別討伐で突破口を開いて撤退するぞ!」
『了解!』
1─3 副府カン
「ハミルトン伯爵がお見えです。」
伏して控えていたモルガンが身を硬くした。
フィロソフィ公国の副府、カン。首府ルアンの西方に位置し、カン城を中心とする歴史ある城下町である。歴代の首長が設立・維持してきた数力者の修練場が数多く存在し、特にカン城の側にある男子修練場と女子修練場からは有数の数力者を輩出してきた。モルガンもこの地で育ち、数力者として認められるに至った。新しい怪物の発見を府長ハミルトン伯爵に報告するため、カン城の巨大な堀に掛けられた跳ね橋を渡り、重厚な城門をくぐって今は謁見室で伏している。
「報告書はざっと読ませてもらった。新しい怪物を発見したと?」
「はい。四色問題と名付けました。」
モルガンは伏したまま答えた。
「難問なのか?」
「個体は易問です。しかし、束になって襲われると厄介で、難問に見えます。」
「ふむ。」
「奴らを完全討伐するには、効率的に討伐するための特別な数力が必要でしょう。」
「…で?」
モルガンは顔を上げた。
「恐れながら、伯爵が練り込まれた四元数が使えるかもしれないと。」
──「四元数」。数力石の原石である「1」を1つ、「i」を3つ組み合わせた美しい数力石。三次元物体を四次元空間に射影して自在に変形・回転してしまう、非常に強力な数力だ。
「四元数だから四色問題にも使えるかと?」
「はい。」
「四元数は連続問題に使うものだ。四色問題は離散問題だろう。」
「お言葉ですが、その四元を離散化すれば…」
「四元数の複製石は持っていけ。使えるかどうかは自分で判断しろ。話は以上だ。」
「師匠、いかがでしたか?」
うなだれて跳ね橋を渡り戻ってきたモルガンを心配そうにガスリー兄が迎えた。
「残念だが、伯爵は全く興味がないようだった。」
「やっぱ、四つながりなんて安直すぎ〜…ング」
弟の口を兄が塞いだが、間に合わなかったようだ。
「よい。その通りだからな。あわよくば伯爵にも討伐に加わって戴ければと期待したのだが。」
「その、お持ちの数力石は四元数ですか?」
「そうだ。四元数を使いたければ自分で勝手にやれ、と。」
「僕たちに使いこなせるかな〜? それ、けっこう複雑な数力だよね〜?」
「師匠に失礼だろ!」
「ガスリー弟は相変わらず容赦ないな。だが、その通りだ。我々だけではこれを使ってもなお討伐は難しいだろう。」
「どうしましょう?」
「知り合いの数力者たちにも討伐協力要請の書簡を送ろう。公爵や国王にも報告書を送ってあるから、もしかしたらそちらの方面からも反応があるかもしれない。」
1─4 ルアン大聖堂
「このあたりは、いつ来ても賑わっているな。」
モルガンとガスリー兄弟はルアン大聖堂前に立っていた。オイラー公爵から直々に呼び出しの書簡が届いたのだ。どうやら四色問題に興味を持って戴けたらしい。
「討伐に協力して戴けるのでしょうか?」
「いや、今の公爵の眼では無理だろう。とにかくお会いして、お考えを伺ってみよう。」
「では、僕たちはここらへんでお待ちしております〜。」
ガスリー弟はそう言いながらキョロキョロと市場を見回している。
「お前、買い物する気、満々だな。」
「よい。適当に時間を潰していてくれ。」
モルガンはルアン大聖堂の正面装飾をしみじみと眺めた。実に見事な建築だ。
遠くからでもよく目立つ、世界一の高さを誇る中央の尖塔。この近さで見上げると、これをモチーフとした大小様々な尖塔装飾が施されていることが分かる。さらに、数力者の始祖である哲力者たちの彫像が、正面壁面いっぱいに並んで訪問者を出迎えている。太陽の位置によって正面装飾の表情が変わるため、時間帯を変えてスケッチに通ってくる画家もいるらしい。
「完成までに四百年もかかったのもうなずける…。」
巨大な薔薇窓をしつらえた正門をくぐり内部に入ると、今度は荘厳なステンドグラス群に描かれた哲力者たちが色鮮やかに出迎えてくれた。深く反響して戻ってくる自分の足音を心地よく噛み締めながら、奥にある謁見室に向かう。謁見室の扉の前に立つと、中から大聖堂の現在の主の声が響いてきた。
「よっしゃー! また新しい数力石ができたで! 一筆書きと名付けたろ!」
扉番がモルガンを謁見室に引き入れてくれた。謁見室とは名ばかりで、実質的には公爵の作業部屋になっている。
「モルガン卿がいらっしゃいました。」
「おぉ〜! 待っとったで! よぅ来たな!」
「公爵をお待たせしたとは恐縮です。この度は謁見の機会を頂き…」
「そんなカタいことはえぇから! 早よ新しい怪物のこと聞かせて!」
オイラー公爵は、伝説の数力者の一人に数えられる。その並外れた数力により、このフィロソフィ地方の自治権をシャルル国王に認められ、公国を創設した。「多弁の隻眼」の異名でも知られる公爵は視力を失いつつも数力石を精力的に精製し続けており、その数は数百とも数万とも言われる。中でも数力石の原石である「0」「1」「i」「π」「e」を散りばめた「オイラーの等式」は世界で最も美しい奇跡の石との呼び声が高い。ただ、公爵自身はその視力のために怪物討伐に向かうことはできない。眼帯で覆われた右目は既に失明し、左目の視力も失われつつある。
「アルデーシュの森で…」
「知ってる! 報告書に書いとったやん!」
「個体は易問ですが、まとまると難問に…」
「だからそれも知ってるって! もっとこう、何かほかに無いの?!」
「その…、ものすごく数が多いです。」
「ものすごくって、何やそれ! お前それでも数力者か?! 無限とかNP困難とか決定不能とか言えや!」
どうも公爵と話すと調子が狂ってしまう。
謁見室の隅では、公爵の愛狐のガウスと、その番いのヨハンナが大人しくうたた寝している。ガウスもまた、狐でありながら高度な数力者だ。公爵の数力石の精製を手伝うこともあれば、自ら数力石を精製することもあるらしい。
「そーかそーか! ほな、そこの多面体公式を持っていき! あと、似たような隣国は5つ以内と計上公式も! 怪物を倒すまではでけへんやろけど、縛り上げるくらいには役立つはずやから! おい、ガウス!」
ガウスがのそりと立ち上がった。公爵の工具箱に無造作に放り込まれている数力石の中からガラガラと三つの石を咥え出し、尻尾を床に擦り付けながらモルガンに歩み寄ってきた。彼には足跡を尻尾で消しながら歩くという妙な癖がある。
「こんなオモロい怪物を君らだけで独占するつもりとちゃうやろな? 公国内に大々的に宣伝するで? ええな?」
公爵の勢いに終始押されてしまい、モルガンはようやく「はい」と答えるのが精一杯だった。