雨はそれほど嫌いじゃない
雨が降る帝都の商店街で、浮かれている少年の姿がそこにある。1人で買い物に来ているその少年の名前はジル。短く切った金髪は所々跳ねており、古着を着ている。どこから見ても典型的な平民のスタイル。
ジルは満面の笑みを浮かべながら商店街を踊るように歩いていた。ジルにとって、毎日が楽しくてたまらなかった。学園に通う間だけとはいえ、その期間は平民のフリをする様にと、厳格な父親から言われていた。
ところが、ジルにしてみればそれは願ったり叶ったりだった。堅苦しい社交は免除され、使用人だらけの巨大な館から出て、自由気ままにボロ屋での生活を楽しんでいる。
唯一同居している老女がいたが、それくらいなら我慢してもお釣りが来るほど、ジルは自由を満喫していた。
そして今も、学園で使うものを買い終えたところ。
音を立てるような激しい雨が降るなか、傘をさしながら、こうして1人で買い物を済ませる。平民なら誰でも当たり前の事だったが、何年経ってもジルには新鮮なままだ。
少ないお金と相談しながら、品物を選ぶのが楽しくて仕方なかった。
「かなり良い買い物をした」
ニヤける顔をしながら、自画自賛でジルが見ていたのは、鉛筆みたいなもの。ペンとインクが高価な為、庶民では馴染みのものだ。わざわざまとめ買いせずに定期的に買い物に行くのは、お小遣いが決まっているからと、ジル自身が頻繁に買い物をするのが楽しいからだった。
そんな風に浮かれているジルの視界に、1人の少女が映る。
少女は雨を避けるために、商店の軒先で雨宿りをしていた。ストレートの綺麗な金髪に、殆んど日射しを避けてきたような白い肌。目鼻立ちははっきりして、全体的に可愛いさと綺麗さがある。でも、その表情はどこか寂しそうで、それがジルにはまるで泣いているように見えた。
(こういう時、どうするべきだろう)
ジルは悩む。その少女は新品の服を着ており、1日で何着も着替えるような貴族にしか見えなかった。
平民が貴族に話しかけるのは良くない事だとジルは学んでいたから、余計に考えてしまう。
ならばこのまま見なかった事にして、立ち去るべきなのだろうか。それが平民のフリをしているジルにとって、最適な答えなのかもしれない。
それでも目の前にいる困っている人を見過ごす事は、その性分からジルには出来なかった。
ジルは少女に小走りに近寄る。
「……」
そして無言で傘をその場に置いていく。
「えっ!?」
少女がそれに驚くも、ジルは雨の中を濡れながら豪快に走り去って行った。
その後ろ姿に少女は呟く。
「この男性用の傘をさしながら帰るの!?」
目の前に置かれた中古の男性用の傘をさしながら帰るのは、貴族の令嬢としてはかなり抵抗のある事だ。
とはいえ、突然の雨に困っていたのは確かで、気乗りしないとはいえ、このあと大事な待ち合わせの約束もあった。
「仕方ないわね」
そう呟きながら令嬢は傘を持つと、雨の中を目的地に向かって歩き始めた。
(さっきの男の子。もしかして私の事が好きなのかしら?)
雨が降りしきるなか、わざわざ傘をくれた少年を思い出しながら、令嬢のセシルは勘違いした。
(どうしたらいいの?私のことを好きになられても、困るのに)
困惑顔のセシルの中では、すでにジルが自分を好きになっている事が確定していた。
「なあ、すげー視線を感じるんだが」
ジルの友人が怪訝そうにいう。
学園の昼食は基本的に自前。天気が晴れの場合、生徒たちは大抵が庭で食事をする。ジルも友人たちと芝生の上で昼食を食べていた。友人から恵んで貰った干し肉を嚙りながら、「そうか?」とジルは首を傾げた。
「あれってやっぱこっちを見てるよな!もしかして俺に気があるのか?」
照れ笑いしながら別の友人がいう。その言葉を聞いて、ジルはその視線の先を探してみた。
そこには制服姿の令嬢がいた。令嬢はジルたちの方を木の陰からチラチラと見ている。
(どっかで見たような……)
社交の訓練で顔を覚える特訓をしていたジルは、少し考えてその令嬢が雨の日に困っていた少女だと思い出す。
(こっちをやたらと気にして見ているが、まさか傘一本で俺に惚れたのか?)
男なら仕方ないのかもしれないが、ジルもまた勘違いした。そして互いにチラチラと見てしまう。
2人の視線がぶつかるのに、さして時間はかからなかった。
その瞬間、思わず2人とも視線をそらす。
(参ったな。完全に俺に気がある)
ジルは悩む。
しかして、セシルの方もまた悩んでいた。
自分を好きになられては困る。
告白して来てくれたら、すぐにフルことも出来るのに、相手は何故か告白して来ない。
いつまでも自分に片思いさせる訳にもいかないしと、セシルは本気で悩んでいた。
(仕方ないわね。こうなったら私から嫌われるようにしてあげないと)
セシルの中では、いつまでも自分に片思いさせる事が不憫だと思った。
では、告白して来ない相手に嫌われる為には、一体なにをすればいいのだろう。真面目な性格のセシルは、自分が相手にされて嫌な事をしようと結論を出した。
セシルはジルたちの方へ歩き、ジルの目の前に立つ。少しだけ偉そうに両手を腰に当て、胸を張り、座っているジルたちを見下ろすようにしながら。
「ちょっといいかしら?」
ジルに向かって声を掛ける。傍にいたジルの友人たちは、空気を読んでその場から苦笑いを浮かべながら立ち去っていった。
「……なんですか?」
いまいち平民が貴族に話し掛けられた時の対応が分からないジル。
とはいえ、そもそも学園内において貴賎の区別なく共に学ぶ、という理念が掲げられており、余程の事がない限りは、話し方については大目に見てもらえたりする。
その理念がある為、学生は同じ制服を着ている訳だが、大抵は誰が貴族かなど見れば分かるもので、平民は貴族を避けていたし、貴族も貴族で連んでいる事が多かったりするのは自然な事なのだろう。
「ふん。先日の傘のお礼を言うわ。ありがとう」
セシルの中では、これが精一杯の尊大で高圧的な話し方だった。そしてこれで嫌われるはずだとセシルは確信する。
ところがジルにしてみれば、たかが傘一本でわざわざ相手を探し、そして礼を言ってくる時点で、かなりいい奴に分類される。
「たいした事じゃない。気にしないでくれ」
苦笑いしながらジルは答える。
(え!?どういう事かしら。こんなに高圧的な態度なのに、気にならないというの?)
驚いたセシルは、すぐに嫌われるプランを次へと移行した。
「ダメよ。気にするわ。だから次の休みに傘を買いに行くわよ。待ち合わせ場所は噴水前。時間は10時。いいわね」
(これならどう?相手の都合も考えず、一方的に予定を立てられれば、きっと嫌いになるはず)
ところが、ジルにとってそれは非常に都合が良かった。なにせ本来ならその休みの日は、あの老女による朝から晩までみっちりと、訓練という名の地獄のシゴキがジルには待っていた。
それを朝の10時から予定があるなら、堂々と抜け出せる。しかも貴族様からの誘い。断る理由など、どこにもありはしなかった。
「分かった」
そう返事をするジルは、心底嬉しそうに顔がほころぶ。
(なんで嬉しそうなの!?)
怪訝そうな表情を浮かべるセシルは、ただ混乱するばかりだった。
休みの日、ボロ家の地下でジルは倒れていた。
「クソッ。ババア、ちったぁ手加減しろ!」
悪態を吐きながら、ジルは起き上がる。早朝から叩き起こされた挙句、ずっと地下で老女にシゴかれていた。
床に倒れるのもこれで何度目か分からない。
「おやおや。これ以上の手加減ですか?もしかしてジルはゴミですか?」
呆れ顔の老女はジルを呼び捨てにしながら、両手で持った箒で床を掃く素ぶりをする。
普段はジルの事を「若様」と呼ぶ老女だが、ジルが平民のフリをしている間は、それに合わせて呼び捨てにしていた。
「ははは。ぶちのめす!」
乾いた笑いをしながらジルは剣を強く握り、一瞬で笑みとともに姿を消し老女の真横にいく。まるで瞬間移動だ。あたりの空気がビリビリと震える。
ジルはそのまま勢いを殺さず、老女の胴を目掛けて、渾身の力を込め剣を振った。
が、その瞬間にジルは壁に激突した。
「ぐはっ」
壁と正面衝突し、ズルズルと落ちる。
ジルは背中の痛みから、老女に背後から叩かれたのだと察した。
もっともその姿を認識する事が、ジルには出来なかったが。
老女は箒をクルクルと指先だけで回し、ニコニコした顔でジルを見ている。
「ジル。スピードもパワーもとても良かったですよ。ですが、武器の使い方がダメです。武器とは獣の爪であり、牙なのです。いいですか?強い獣ほど爪と牙はギリギリまで隠しています」
そう言うなり老女は一瞬でジルの側に行き、ジルの首にそっと手で触れた。
そして、軽く爪をジルの首に突き立てる。
ジルはその時、老女から殺されるような殺気をまったく感じられなかった。
どこまでも自然で、抗うべき本能すら働かない。
「このように、本当に怖い獣はギリギリまで隠した爪や牙を、獲物に優しく突き立てます。その時にはもう手遅れなのですよ」
老女はジルに諭す。
自分の置かれた状況とその老女の言葉で、ジルは冷や汗をかいた。
恐怖と言い換えてもいい。草食動物が肉食動物に取り押さえられ、生きる事を諦めてしまうかのように首を差し出す。
それとまったく同じ事を老女にされていた。
「さて、そろそろ待ち合わせの時間に間に合わなくなりますね。女性を待たせるものではありませんよ。続きは帰ってからにしましょう」
老女はそうジルに優しく話すと、のんびりと階段を上っていった。
ジルはその姿を、己の未熟さを噛み締めながら、ただ黙って見つめていた。
噴水広場は帝都に幾つかある。だが学園の生徒が言う噴水広場は、ここだけだった。東西南北に大通りがあり、西大通りは飲食店が軒を連ね、北大通りには服飾店が、東には武器や防具、そして南には雑貨店がある。
そして、それぞれの大通りが交わる場所に、噴水広場があった。
近くに学園があることもあって、その噴水広場は学生たちの待ち合わせ場所として、よく使われていた。
巨大な噴水のふちをベンチのように腰掛けながら、待ち合わせの為に何人も座っている。
ジルはそこを目指して南大通りを歩いていた。
そして雑貨店が軒を連ねるそこの建物の陰に、制服姿のセシルが隠れているのを見つける。
(何やってんだ?)
ジルは疑問に思いながらも、見て見ぬフリをした。
ジルにしてみれば、隠れているとは思えないほどあからさまだったが、だからこそ余計に意味が分からなかった。
とりあえず、よく分からんがソッとしておこう。という判断だ。
待ち合わせの噴水まで行くと、ジルも腰掛けて待つ事にした。
待ち人が途中に居たことがとても気になるが、まだ約束の時間までかなりあった。老女に早めに行けと追い出され、仕方なくのんびりと歩いて来たが、それでも30分は早いはずだった。
時計は平民でも豪商クラスしか持てないものだが、この噴水広場は1時間ごとに音が鳴る。
噴水の仕掛けに連動したそれは、待ち合わせ場所として、学生たちにとって最適なものだった。
そして10時を知られせる音が、噴水から鳴りだす。
ジルはその音を聞きながら、ジッと南大通りを眺めていた。
大通りを何台も積荷を載せた馬車が行き交っている。そしてその合間を縫うように、歩行者が走って渡っていた。
噴水の音が鳴り止み、少ししたらセシルが噴水に向かって走ってきた。
そして、ジルの前に踏ん反りかえるように立つ。
「はぁ……。ど、どうかしら?散々待たされた気分は?」
若干息を切られせながらも、頑張って尊大な態度でセシルは言う。
しかしてジルは思う。
約束の時間にほんの少し遅れるのは、果たしてそれほど悪い事なのか?と。
しかも自分より先にこの場所に来ていたし。
まして、わざわざ走ってここまで来ている。
「別にたいして待っていない」
ジルはそう結論を出した。
(な、なんでよー!?)
その答えに、セシルは愕然とする。
生真面目なセシルにとって時間に遅れるのは、あり得ない事だった。
だからこそ、嫌われる為にわざわざ遅れたのだ。
因みに嫌われる為とはいえ、そもそも約束をすっぽかす事など、セシルには出来なかった。セシルの良識が許す範囲の中で、最大限の努力がこれなのだ。
当然、走って来たのも、真面目過ぎるセシルにとっては自然な事だった。
「そう。……ところで、それ。大丈夫なの?」
セシルはジルの顔にある痣を見ながら心配そうに言う。
ジルは老女との特訓を思い出しながら、バツの悪そうな顔をした。
「大した事じゃない……」
「もしかして、喧嘩かしら?」
セシルの言葉に、老女に一方的にぶちのめされたとは言えなかったジルは、渋々と答える。
「違う。ただの掃除だ」
それは掃除する側ではなく、掃除される側だったが。
(煙突掃除かしら?大変だし、それで怪我をしたのかも)
セシルの中でジルは苦学生になる。
その勘違いを正す前に、ジルのお腹は盛大に鳴り響いた。
「悪い。買い物の前に、少し飯に付き合ってくれないか?そう言えば、朝から碌に食べてなかった」
自分の腹に手を当て、恥ずかしそうにジルは言う。
「えぇ。構わないわ」
(ご飯も食べずに、朝から働いていたのね)
勘違いしたセシルの好感度が上がる。
そして2人はジルのオススメの食事処に行く。
路地裏にあるその店は、安さと量を売りにする店。味はまあ、普通といったところだ。
平民の学生や、近所の職人などがよく利用する場所だった。
その店でセシルの目は輝く。初めてこういう店に入ったのだ。何もかもが新鮮で、つい色々と目移りしていた。
「よう!おっちゃん。プル3個な!」
「なんだ兄ちゃん。今日は随分とべっぴんさんを連れてんじゃねーか」
「うるせーよ」
「はっ。生意気なガキだ。だがそっちのお嬢ちゃんに免じて、一個サービスしてやる」
「さんきゅー!おっちゃんのそういうところ、好きだぜ」
「笑わせるな!ガキが……ほらよ」
厳つい顔をした店主は、プルを4個茎を編んだ袋に入れると、それをジルに渡す。
ジルは嬉しそうに受け取ると、少し呆然としているセシルに声を掛けた。
「行こうぜ!」
セシルはなんて言えばいいのかも分からず、とにかく慌てて店主にお辞儀してジルの後を追った。
その後ろ姿を、店主はにこやかな笑顔で見送っていた。
「やったな!儲けた」
歩きながらジルは、袋からプルを取り出すと、セシルに渡す。
プルと呼ばれるそれは、例えるならソーセージが入ってる惣菜パンだ。
ジルからプルを受け取るも、セシルは食べたことがなく、戸惑っている。
ジルはその様子に、こうして食べるんだと言わんばかりに、大きな口を開けてプルに齧り付く。
それを見てセシルも真似して食べる
「……美味しい」
カリっと揚げた衣はサクサクなのに、中は肉汁が染み込んだ柔らかなパンとソーセージみたいなものがある。
プルを初めて食べたセシルは、その素朴な味がとても美味しく感じた。
「そうか。そりゃあ良かった」
セシルが余りにも美味しそうに食べているのを、ジルは嬉しそうに見ていた。
「私はセシル。あなたは……」
無邪気な笑顔のジルを見て、セシルは思い出したように自己紹介をした。
「ジル」
口の中のものを慌てて飲み込むと、ジルは端的に答える。
「なんていうか、その……覚えやすい名前ね」
セシルのフォローにジルは笑う。
「ははは。気にしなくていい。ありきたりな名前だって知ってる。セシルは……って呼び捨てはまずいか」
「別に今だけならいいわよ。その……他じゃ誤解されるから……」
セシルは気まずい感じに言う。
「ははは。セシルはいい奴だな」
そのジルの言葉に、セシルは目をパチパチさせながら驚く。
セシルには何故そうなったのか、まったく心当たりが無かった。というか、むしろ嫌われる事をしてきたはずなのにと。
その後、2人で傘を買いに行くも、セシルは嫌われる為にと、店にある1番安い傘を買うつもりだった。
「これなんてどうかしら?安くてお似合いだと思うわ」
(ちゃんと嫌われないと……)
「いや、流石にそれはまずいだろ」
嫌そうな顔をジルが浮かべた。
「ダメよ。これにするわ!」
(よし!嫌われたわ)
「いやいや。勿体無いから。こっちだ」
そう言うと、ジルはセシルの手を握り店の外に出る。そして、セシルを連れて裏道を歩く。
辿り着いた場所は、中古ばかりを扱う店だ。そこにある傘はどれもボロい。
ジルは真剣に一本一本を確かめながら選ぶ。
「よし!これだな」
そう言ってセシルに渡した傘は、開けば穴が開いていた。
「え!?あ、穴が開いているわよ?」
「そう、そこがポイントだ!この穴が開いてる場所がこの傘だけ、偏っているだろ。で、こういう風に向きを変え使えば、ほら!まったく問題ない」
ジルは中古のボロい傘をまるで新品のセール品みたいに好評価をし、熱く語っていた。
それをセシルは呆れるように聞いている。
そうしてセシルに買って貰った傘を、ジルは嬉しそうに受け取る。
値段は新品の安い傘の30分の1だった。セシルはその値段で傘を買えることと、穴が開いてるあれを傘ということの両方に驚いていた。
「今日は、ありがとうな!これは、土産だ」
ジルは袋に残ったプル1個を、セシルに袋ごと渡す。
「え、ええ」
戸惑いながらそれを受け取るセシル。
それを満足そうにジルは見ると、笑顔で「じゃあな」というと、まるで子供がおもちゃを買って貰ったかのように、喜びながら帰っていった。
「あれ!?」
ジルの嬉しそうな背後を見ながら、セシルは首を傾げる。当初の目的はまったく達成出来ていなかったが、プルの入ってる袋を見ながらセシルは呟く。
「ま、いっか。うん。嫌われるのは明日から頑張る」
そうして満更でもない表情を浮かべながら、セシルも寮へと帰っていった。
いつものようにジルは友人たちと昼食を食べようとしていた。ところがジルが鞄を開けると、そこには別の弁当が入っていた。
「なんだよ。今日はまともな弁当だな」
「お、おう!?」
弁当を見た友人の言葉に、ジルは首を傾げながら答える。
来るときに入れたいつもの弁当の代わりに入っていたのは、バスケットに並ぶサンドウィッチみたいなものだ。
そこにセシルがやって来た。
「ふふふ。どうかしら?平民にはその程度がお似合いの弁当ね」
(これなら、嫌われるわ)
その言葉を怪訝そうにジルは聞きながら、試しに一口食べてみた。
「……!?これ……すげー美味い!え!?これをくれるのか?」
「え、ええ……」
セシルは戸惑いながら答える。
「本当に、良い奴だな」
ジルは心からセシルに感謝をした。
「そ、そう……」
(あれぇ?なんで感謝されてるの?)
疑問符を付けながら、セシルはそこから離れて行った。
そして一人になると、自分の弁当と交換したジルの弁当を開けて愕然とする。
「うそ……でしょ……」
思わず地面に手をつけたくなるほど、セシルは唖然とした。
そこにあったのは、パン一切れと目玉焼きだけだった。この余りにも貧相な弁当は老女の仕業であり、そのお陰でジルはすぐに平民の友人が出来た。ジルの弁当が余りにも酷すぎて、平民の友人たちはいつもなにかしら、ジルにお裾分けをしていたのだった。
「ま、まさか平民がこれぼと貧しいなんて……」
本来のジルの弁当を食べながら、セシルは勘違いしていう。
実は貴族とはいえ、セシルの家は貧乏だった。それ故に、セシルの弁当はいつも自分で作っていた。寮の厨房を借りて、朝早くに起きてコッソリと。
客観的に見るなら、セシルの手料理はかなり美味しい。ただそれを当たり前に自分で食べているセシルには、普通過ぎて美味しい訳じゃないと思っていた。
「いくらなんでも、これは無いわ」
(明日から彼の分もついでに作ってあげよう)
セシルにとって嫌われる以前に、ジルの弁当は放って置けないレベルだった。
なお、この弁当についてジルは老女に抗議したことがあったが、「世の中には碌に食べ物にありつけない人もいるのですよ?」と、論点をすり替えられた挙句、その後の訓練が厳しくなった為、それ以上は言うのをやめていた。
こうしてセシルの弁当にありつけるジルはある意味では幸せであり、そして美少女から手料理らしき弁当を毎日貰えるジルは、友人たちからかなり冷たい視線に晒されることになる。
たぶん、少しだけ友情にヒビが入ってる気がしないこともない。
そんな日々を過ごしいるうちに、いつの間にかジルたちと一緒にセシルも昼食を食べるようになっていた。
「明日はどんなお弁当にしようかしら?」
寮の部屋で呟きながら、セシルは気付いた。
「って!そうじゃないでしょ!もう、嫌われないといけないのに!」
そうして、1人自分のベッドに悶々としながらうつ伏せになった。
ある日、セシルは決意した。
「もう、これしか無いですわ」
セシルは1人、ジルの家を訪ねる。コッソリとジルの友人から聞いた住所を頼りに向かったが、その場所は平民の住宅がある地域でも、かなりスラムに近い場所だった。
路地は入り組んでおり、案の定というべきか、セシルは道に迷っていた。
「どこかしら、ここは……」
そんな風に困っているセシルに、厳つい男たちが近寄ってきた。
「よう、お嬢ちゃん。お困りなら俺らが案内してやるぜ?」
「へへへっ。俺たちこの辺りじゃ顔だからよ」
「そうそう。女の子1人じゃ危険だぜ?くくくっ」
非常に柄の悪い3人は、セシルを囲むようにしながらヘラヘラと笑う。
(うへぇ。これってピンチかしら)
もろドン引きながらセシルは戸惑う。学園の生徒であるセシルは、当然の如く学問だけではなく武術も学んでいた。それは対モンスターだけではなく、対人も含まれる。
3人を注意深く観察するセシルは、一対一なら彼らに負けない自信があった。だが3人同時の場合は分からない。
どうするべきかと、セシルは悩む。
「おやおや。坊やたちは、また悪さをしているのですか?」
そこに老女の声が聞こえた。
男たちは老女を見るなり、表情をもろ嫌そうに変える。
「げっ。クソババアの知り合いかよ」
「おい。行こうぜ?」
「おう、お嬢ちゃん。あんまり1人でウロウロすんなよ?」
そう言って彼らは何処かへ行く。
(ん?もしかして、本当はそんなに悪い人たちじゃなかったのかしら?)
セシルの考えは大体は合っていた。
彼らだけではなく、この辺りの悪そうな連中は皆、ジルと老女に痛い目に遭っていた。
初めは引っ越して来たばかりのジルに喧嘩を吹っかけただけだったが、その際ジルに返り討ちにあった。しかもその時にすっ寒ぴんにされる。これはカツアゲという意味ではなく、文字通り丸裸にされた。下着まで脱がされた彼らに対し、「こんな汚い下着でも売れるからなぁ」とボヤいたジル。きっちり彼らの全財産を没取していた。
その後、報復の為に彼らは人数を集め、そしてジルの居ない隙を見て、ジルの家に押しかけた。
そこで老女に掃除される。
しかもボコボコにされた挙句、全員正座させられ、延々と説教までされた。
以来、彼らは心を入れ替え、この辺りの自警団をしていた。
迷い子のセシルに声を掛けたのも、その一貫に過ぎない。
「お嬢様、大丈夫でしょうか?あの悪たれなガキどもに何かされましたか?」
老女は心配そうに優しくセシルに尋ねる。
「お婆さん。その、ありがとうございます。私はこの通り大丈夫です。あ、私はセシルです」
セシルは慌ててお辞儀をしながら言う。
「セシル様でございますね。この老いぼれのことは、ババアとお呼びください。ところでこのような場所に、なんのご用でしょうか?」
「恥ずかしい事に道に迷ってしまって……お婆さんはご存知かしら。この辺りにジルという名前の男の子が住んでいると聞いたのですが」
その言葉に一瞬だけ驚くも、老女はすぐに優しい笑みを浮かべた。
「左様でございますか。では、このババアがご案内いたします」
そうして老女はセシルをボロ家へと案内する。玄関を開けると「どうぞ、中へお入りください」という。
その言葉に驚いているセシルに、老女は説明した。
「ジルはこの家で、ババアと2人で住んでいるのですよ」
その説明を聞いたセシルは、老女の外見とジルが似ても似つかないものを気にしながら、中へと入る。
「お婆さんはジルさんのご家族だったのですね」
老女にすすめられて椅子に座っているセシルが尋ねる。
「んー。家族みたいなものでしょうか。実際は血が繋がっておりませんが」
その老女の説明でセシルはまたしても誤解してしまう。
(ああ。ジルは捨て子だったんだわ)
老女はお茶を用意しながら、セシルに話す。
「ごめんなさいね。ジルはまだ帰ってこないの。良かったら、これでも飲んでゆっくりしてください」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、セシルはお茶を一口飲む。
「美味しい」
セシルは本心からその言葉が出た。
「ふふふ。ありがとうございます」
そして一息ついたセシルは覚悟を決める。今日、わざわざジルの家まで押しかけた理由。その目的を果たすために。
「あの、不躾で申し訳有りませんが、是非とも教えて欲しい事があります」
「なんでしょうか?」
「ジルさんが嫌いなものは何でしょう?」
セシルはジルに嫌われる為に、ジルの家族からジルの嫌いなものを聞こうとしていた。
老女は少しだけ驚くと、優しく笑みを浮かべた。
「そうですね。裏切り者ですかね。昔から恩を仇で返す輩を、とても嫌っていますよ」
しかし、その答えはセシルの望んだものではなかった。
「あの……裏切り者は私も嫌いなので……もっと別な、食べ物とか動物とか有りませんか?」
老女は考え込む。
「ジルは好き嫌い無く、なんでも食べますよ。それに動物も嫌いな動物はいないかしら……しいて言うなら、ジルは勉強が嫌いかもしれません」
何かに理由を付けては、特訓から逃げ出そうとするジルを思い浮かべながら老女は答えた。
もっとも、ジルにしてみれば特訓は勉強ではなく、命懸けの何かだと思っているが。
「まあ!勉強ですね。ありがとうございます!とても参考になりましたわ」
セシルは目を輝かせた。
ジルに嫌われる為に悪戦苦闘の日々を過ごしてきたが、これでついに終わりが見えた。
そこにタイミングよくジルが帰宅した。
「えっ!?なんでここに?」
自宅にいるセシルを見て驚くジル。
それに対してセシルは満面の笑みで答える。
「ジル。今から一緒に勉強しますわよ!」
「ん?いや……意味が分からないが」
「ほら!つべこべ言わず、勉強ですわ!」
「お、おぅ」
そうして勉強を始めた2人を、老女はニコニコしながら見ていた。
「分からないところがあれば、何でも聞いてね。私、こう見えてもそれなりに勉強はできる方なの」
セシルの自信に満ち溢れた言葉を聞いたジルは、セシルに質問する事にした。
「んー、そうだな。ゲノーム候が財政の立て直しに行った政策についてだが、バブル商会を創立させそのバブル商会に国債を購入させたわけだ。当然そのままだとバブル商会は倒産するが、そこでバブル商会がしたのが変動価格での株式による国債の買い取り。つまり金貨100枚の国債を、株価金貨200枚で売ればバブル商会には金貨100枚の利益が出る。これは、この株価という本来なら貨幣として存在しないものが、貨幣価値を持っていることになる。これによって、帝国の財政は立て直した訳だが、それは際限のない投機の始まりだったわけだ。株価が上昇すれば、誰でも儲かる。だから誰も彼もがバブル商会の株を買う。そうして、更にバブル商会の株価は上昇し利益を上げる。当時の借金した金利より、バブル商会で購入した株価の上昇の方が遥かに高い。これは借金してでもバブル商会の株価を購入すべきと、世間に広まったのも頷ける。しかもバブル商会自体が、株式のローン販売までしているのだから。これらを成立させたのは、ストックオプションだろう。それを当時の皇太子を始め、あらゆる貴族たちに賄賂として贈る。その上でバブル商会はコールオプションをした訳だ。そして、株の配当金を上げると大々的に公表する。コールオプションしておいて、自分たちでそれをした訳だ。そこに莫大な利益がまた生まれる。これの巧みなところは、既に貴族だけではなく平民まで巻き込んだ状態でしているところか。明らかに意図的に商会の実態を知らせず、何故バブル商会の株価が上昇しているのかを考えさせないようにした訳だ。これについては、思考停止した人々がいたのではなく、人々を思考停止させる仕掛けがあった事になる。ただバブル商会の株を買えば儲かると思い込ませた。この結果は知っての通りだが、では、何処で何をすれば良かったと思う?」
「難しいわね……」
「だよな」
開始早々思考停止したセシルには、ジルが何を言ってるのかよく分からなかった。
勉強会を終え、暗くなった為にジルはセシルを寮まで送ることにした。暗い夜道を歩きながら、セシルはいう。
「ジルって、頭が良いのね。将来は内務省で働けるんじゃない?」
「どうかな……それよりも、俺にはやりたい事があるが」
「それは将来の夢?」
「夢じゃなく、実現したい事だな」
「何かしら?」
「みんなが幸せに暮らせる世の中にしたい」
トクン
「それは……うん。とても素敵だわ」
ジルが何気なく語った話。
セシルにはとても心に残る話だった。
心臓が高鳴り、自分の鼓動が聞こえる。頬が熱く感じ、酔いしれるように体温が上がる。
セシルがジルを見つめる眼差しは尊敬だった。それなのに、こんなにも近くにいるジルが、セシルには何処か遠くに感じられていた。
その日のジルは、久しぶりに憂鬱だった。賑やかな会場の雰囲気を台無しにしかねないほど、不機嫌な顔を表に出している。
ラピス侯爵の夜会は、帝国でも特別な夜会だ。本来なら自宅の豪華な館を使う夜会だが、ラピス侯爵の場合はなんと学園の建物を使う。
これはラピス侯爵が学園の理事長であり、代々学園創始者から受け継いできた為だった。
その為なのか、他の夜会とは違い、給仕を学生がしている。それなりの駄賃も出るので、学生からは人気もある。
本来なら応募しても、給仕になれるとは限らないのだが、応募もしていないのに、ジルは給仕として制服を着て働いていた。
「お前なあ、笑顔を振りまけとは言わないから、せめてその不機嫌そうな空気くらい消せ」
同じく給仕をしている友人に言われ、ジルは頬をヒクつかせながら笑顔を作る。
友人はそれを見て、「悪い、余計怖いわ」と言って消えた。
ジルがこうしてここにいるのには理由があった。本来ならジルの父親が来るはずだったが、急遽ジルが名代として顔を出す事になった。
とはいえ、平民のフリをしているジルは、そのまま平民として参加している。
一応、ラピス侯爵はその辺の事情を知っているので、問題なく平民として給仕をしていた。
退屈だと思っていた夜会の会場で、そんな仏頂面なジルを見つけたセシルは、ジルのところに駆け寄る。
「ふふふ。とても似合ってるわ」
ジルの制服姿などいつも見ているだろうに、セシルはジルを見ながら楽しそうにいう。
逆に普段の制服とは違い、綺麗なドレス姿のセシルは、いつもと違い髪を後ろに纏め、髪飾りを付けている。うなじを見せるその髪型は、とても大人っぽくしかも色っぽかった。
「お嬢様も、とてもお似合いでございます」
驚きの表情を浮かべながら、ジルはそう本心から伝えた。
それがセシルにも伝わり、首から上が朱に染め上げられていく。
「えへへー」
変な笑い方をしながら、とても令嬢とは思えないほど、セシルの顔はだらし無く緩む。よほど顔が熱いのだろう、セシルは両手で自分の頬や口元をパタパタと扇いだり隠していた。
セシルのあまりの緩みッぷりに、ジルまで笑顔になる。
2人が楽しそうに会話していると、冷や水をかけるように少年の声が響いた。
「ハッ……随分と楽しそうじゃないか!まさかこの僕を放って、そこの平民の男に尻尾を振っているとはね。こんな仕打ちをされるとは思わなかった」
そこにいるのは、伯爵令息のフェルナンドだった。
ジルとセシルを侮蔑するような眼差し、そしてその言葉には耐え難い憤りを込めていた。
「貴族様。誤解でございます。これは……」
ジルはセシルのために、弁明しようとした。
「おい!たかが平民風情が、誰の許しでこの僕に話しかけているんだ?お前ごときには関係ないから、黙っていろよ!」
完全にジルを見下しながら、フェルナンドは言い放った。
「ごめんなさい。私が悪いの。彼の事は関係ないから」
セシルが今度はジルを庇おうとする。
そのセシルの陰で、ジルはひたすら心の中で呪文のように呟く。
(我慢だ。平民のフリ。平民のフリ)
互いに庇いあう、そんな2人の態度がフェルナンドを余計に苛立たせる。
「ああ、その通りだ。君が悪い。だからこの場で婚約破棄だ!」
「え!?ど、どうして?」
「あ?決まってるだろ!この僕がプレゼントしたドレスや宝石を身に着けながら、よりにもよって平民の男と……これでも僕の家はそれなりに歴史のある家でね、阿婆擦れを妻になど出来る訳が無いだろ?」
フェルナンドの言葉はセシルを傷つける。フェルナンドに侮辱されても、それでもセシルは耐えていた。
だからジルも耐えていた。怒りで腹わたがねじ切れそうになりながら。
(平民のフリ。平民のフリ)
それはジルの中で、まるで呪いの言葉のようになりかけていた。
それでもジルは耐える。こめかみの血管が、今にも破裂しそうになりながら。
「そうだ!婚約破棄したんだ。当然、今着てるドレスも宝石も返せよ!」
フェルナンドはニヤっと下品に笑いながら、セシルへと言う。
「分かりました。後日、全てお返しいたします」
セシルは頭を下げながらそう答える。
「は?何言ってんだ?今、この場で返せって言ってんだ!ほら、さっさと脱げよ!」
余りにも無茶なフェルナンドの要求に、セシルは愕然とする。
どうしていいか分からず、かと言ってその要求を飲める訳もないセシル。
小さく震えながら、怯えるように首を振っていた。
「さっさと脱げよ!ったく、そんなに脱ぎ辛いなら、この僕が協力してやるよ」
フェルナンドはそういうと、近くのテーブルに置いてあるワイングラスを手に持つ。
そして、セシルに向かって思いっきりワインをぶっかける。
だが、その瞬間。
ジルはセシルの前に立ち、フェルナンドがぶっかけたワインを顔に受けた。
顔や制服をワインで汚しながら、ジルは目を閉じたままセシルを庇うように立つ。
「ははは。平民風情が騎士の真似ごとか?薄汚い平民の顔を洗うには、随分と贅沢な酒だな。はははは。だが、平民如きが邪魔するな。目障りだぞ?学園の生徒だろうが、この僕ならお前如き簡単に退学に出来るんだぞ!分かってるのか?くくくっ」
ワインに濡れたジルを見下しながら、フェルナンドは高笑いをする。
「お願いします。彼は関係ないの……」
ジルを退学させまいと、セシルはジルを守ろうとするが、話しの途中でジルはセシルの前に手をかざして止めた。
そしてジルは両手を顔につけ、濡れたワインを拭うように、そのまま頭の後ろまでもっていく。
頭についたワインをワックスのようにしながら、髪型をオールバックへと変えていく。
ジルはゆっくりと瞼を開け、辺りを見回す。
賑やかな会場の中で、ジルたちのいる周辺だけは、まるで見世物を見るように遠巻きがこちらを見ていた。
「……。シュナイザー・FE・ラピス!来い!!!!」
そこにジルの怒声が会場中に響き渡る。
その余韻が残っているなか、貴族らしく豪華な装いをした中年の男性が、慌てながらジルのもとへと走ってきた。
そしてジルの目の前で片膝をついて、頭を下げる。
「ハッ!お呼びにより参上いたしました」
ラピス侯爵はジルにうやうやしく前口上を述べる。
「オレの質問に端的に答えよ」
「ハッ!」
「そこの糞ガキが、オレを退学させるそうだ。お前はオレを退学にするのか?」
「いえ!いたしません!」
「ふん。ならオレがそこの糞ガキを退学させろと言ったら?」
「この場で退学させます!」
「ん。ところで伯爵令息ってのは、どの程度偉いんだ?」
「かろうじてギリギリ上流の跡取りでしょうか……まあ、代わりなどいくらでもいるので、偉くはないと思います」
「そうか。ならば、このオレがそこの糞ガキの伯爵家を潰せと言ったら?」
「一両日中には潰します!」
「おいおい。流石に明日中には難しいんじゃないのか?」
「いえ!必ずや潰してみせます!」
「ほーう。それは何故だ?」
「ハッ!貴方様が帝国にたった5つしかない公爵家にして、最古の公爵家。帝国にある元血【C】の血筋の本流。全ての貴族の頂点。皇帝陛下とも対等と呼ばれる、アーク公爵家の跡取りだからでございます!」
「ん。ありがとう。下がって良い」
「ハッ!」
そうして、ラピス侯爵はジルの前から下がる。
残っているのは、ガクガクと震えているフェルナンドだけだ。
「現役の侯爵がオレに跪くのに、なんでお前如きが突っ立ってんだ?……跪け!!」
ジルの怒声でフェルナンドは慌てて跪く。
「これから言う言葉をよーく聞いておけよ?オレたち貴族は、平民のための盾であり剣だ。貴族で偉いのは平民の為に生きた者だけだ」
そこまで言うと、ジルはフェルナンドに近寄り、しゃがむ。
そしてフェルナンドの髪を掴み、無理矢理顔を上げさせた。
「そして、女子供は国の宝だ。分かるな?民の為に生き、民の為に死ね!それが貴族だ。もしもお前がそれを忘れて家督を継いだら、オレは必ずお前をお前の家ごと潰すからな?」
フェルナンドは震えながら必死に頷く。それを獰猛な肉食獣のような眼差しでジルは眺める。
そしてフェルナンドの脳裏に、自分の姿と言葉が刻み込まれたのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
表情をいつもの感じに戻し、セシルに向かって振り返る。ところが、そこにセシルは居ない。
会場を見渡すと、逃げるように会場から出て行こうとするセシルの姿があった。
ジルは慌てて、セシルを追いかける。
「待てよ!」
そのジルの言葉は聞こえているだろうに、セシルは人混みを掻き分けながら、外へ飛び出していく。
会場からロビーに出て、そのまま入り口から外へ出たところで、セシルの腕をジルが掴んだ。
「離してよ!」
暴れるセシルだったが、ジルは掴んだまま離さない。
「何を怒っているんだ?」
「別に怒ってなんかいないわよ!」
そう怒りながら言われても、ジルにもよく分からなかった。
雨が降る中、セシルもジルも濡れていく。
セシルにも今の気持ちが自分でも良く分からなかった。伯爵家すら雑魚扱いするジルの家。セシルのような下級貴族なんか、吹けば飛ぶような存在だろう。今までジルに対してした事を考えると、セシルにはどうしていいかも分からなかった。
分からない事だらけで、セシルの心の中はグチャグチャになる。
「なあ、オレを見てくれないか?」
「……や」
セシルはそっぽを向き、ジルの顔を見ないようにする。
「オレはさ……たぶん、凄く楽しかったんだ。こうしてセシルと一緒にいる時間が」
小雨の中、ジルは優しく語りかける。
「セシルと一緒に食べたプルは、いつもより美味しく感じた。初めてセシルの手作り弁当を食べた時、本当に感動したんだ。こんなにも美味しい食べ物は初めてだと」
霧雨が降っている中で、ジルはセシルの腕からゆっくりと手のひらへと動かす。ジルは優しくセシルの手のひらに手を添える。
そして、セシルの前で跪いた。
「オレの嫁になってくれないか?」
セシルの鼓動が跳ねあがる。
ドキドキしながら、ゆっくりとセシルはジルへと振り返った。
「だ、ダメよ……だって、私なんか釣り合いが取れないもの」
「そんな事は無いさ。それにもしもオレの家がセシルを認めなかったら、その程度の家などオレの方から願い下げだ」
「え!?」
どんどんと、セシルの鼓動が速くなっていく。
「それにセシルだから話すけど。実はオレ、親から何があっても平民のフリを卒業までする約束だったんだ。まあ、その約束を破っちまったし、家から勘当されるんじゃないかな」
ジルはなんでもないように、苦笑いしながらそれを話す。
「な、なんでよ……どうして……」
戸惑いながらセシルは尋ねた。
それに対してジルは優しく見つめた後、今までセシルに見せた事がないような真剣な表情をする。
「貴女さえいれば、私には他に何もいらない」
ジルは真っ直ぐにセシルを見つめる。
そしてセシルの心に届くようにと、精一杯の気持ちを言葉に込めて贈った。
いつの間にか雨は止み、夜空の雲の切れ間から光が射している。
それはまるでスポットライトのように2人を照らしていた。
その優しい光は、雨に濡れた2人をキラキラと輝かせる。
その光の中で、見つめ合う2人。
セシルは雨に濡れた頬を、ほんの少しの涙を零しながら、ジルにゆっくりと頷く。
それを見たジルはゆっくりと立ち上がると、セシルの腰に手を回す。互いに目を閉じ、心で見つめ合いながら、2人はそっと優しく口付けを交わした。
そして、余韻を味わうようにゆっくりと唇を離していく。
「ねえ……」
顔を少し紅に染めながら、セシルはジルを見る。
「ん?」
「平民になっても実現出来るかしら?」
「してみせるさ。セシルも手伝ってくれるなら」
そう言うと、また2人はキスをした。
その後、何故かジルは勘当されず家督を継いで、しかも下級貴族のセシルを妻にする事まですんなり認められる。
「騙されましたわ」
(もう、めんどくさい女だと思われちゃうのに……)
平民として2人で頑張る気だったセシルは、堅苦しい公爵家のしきたりを躾られるなかで、つい構って欲しくてジルに甘えていた。そして、そんな風にツンツンする態度のセシルが愛おしくて堪らないジル。そんな彼らが、皆んなを幸せにするきっかけとなる少女を産み育てるのは、もう少しだけ先の話だった。
【あとがき】
たった1人かもしれない。
IDも持ってないかもしれない。
それでも、この作品が気に入った人に捧げます。