006 ギャルとゲロ(前編)
新キャラ登場です。
彼女について俺が一番初めに知ったのはゲロの匂いだった。
ついで、嗚咽の声音。
「おええええええ……」
道路を挟んだ向こう側。
びちゃびちゃという吐瀉音で弾かれるようにそちらを見れば、自販機に手をかけながら排水溝に思うさま嘔吐している女子がいた。
時刻は夜。
場所は大学の最寄り駅から歩いて十五分ほどのそこそこ大きな飲み屋。
サラリーマンや学生の飲み会でよく使われる場所らしく、今回俺が来ていたのも新歓打ち上げという名の交流会――つまりは飲み会だった。
二時間前、新入生歓迎会の終わり際にまっすぐ帰宅しようと大学構内の中庭を歩いていた俺は打ち上げに向かう最中の御一行に出くわした。
その御一行は出会った一回生をとりあえず参戦させているらしく、まだ空きがあるからと当然のごとく俺も末席に加え入れられた。
……言いたいことはわかる。
いや断れよ、と。
俺も他人の話として聞いたらそうツッコミを入れている。
けれど、いきなり喧々とした集団に出くわしたと思えば「そこの君も一緒に行こーよ!」などと年上のイケイケパリピな先輩方に囲まれ、あれよあれよというまに人の波に押し流され、気づけばアルコールと脂の匂いのする喧騒の場に連れてこられていたのだ。
幹事らしき女子の先輩が片手を上げて「今から4500円徴収していきまーす」とアナウンスしている時点で帰るタイミングを完全に失ったことを察した。
まあ来てしまったもんはしょうがないので、俺は樋口一葉を没収された代わりに五百円硬貨を受けとりつつ、天希さんに『今日は晩ご飯いらない』という旨の連絡を入れた。
返信はすぐに来た。『OK!』というポップな文字と両手を挙げるクマのスタンプを見て、俺は飲み会に参加した。
そして、気づけば外に出ていた。
何度でも言うが、俺は上京仕立ての芋学生でここは未知なる地、東京。
「テンポ早すぎノリ軽すぎ内容トビすぎ……」
俺は都会人の会話に全くついていけなかった。
いったいなんの話をされているのかもわからないのに、ご親切にスマホの画面を見せつけてきて「ヤバくない? これマジヤバくない?」と言ってくる。
その語彙力に「ヤバいですね」と返したかった。
「ヤバいヤバい言うのはどっちも変わんねえのな……」
慣れ親しんだやるせなさを冷えた空気と共に吞み下す。
そうして排気ガスの濁りに咳き込んでいると、酸っぱい胃液の匂いが鼻を刺したのだった。
「おええええええ……」
自動販売機の光が逆光となって女子の顔や服の詳細まではわからないけど、シルエットの感じからして打ち上げに参加した一人であろうことは予想がつく。
さっと周りを確認してみても介抱しているような人は見当たらない。
「あの、大丈夫ですか」
おそるおそる近寄って声をかければ、女子はうつむいた姿勢のまま無言で首を振った。
そりゃそうだ。
俺は女子が手をかけていない方の自販機から水を買って差し出す。
「これで口ゆすいでください」
「あいやよう……」
女子は(恐らく)ありがとうと言って水を受け取ってくれた。
何度か口をゆすぎ、ペットボトルのキャップをしっかりと閉めて顔をあげる。
そして、俺を見て固まった。
おかげでという言うべきか、俺も彼女をよく見ることができた。
金髪のショートヘアに、パッと見でも惹かれる大きな瞳。
街灯の光で反射する翠のイヤリング、ペットボトルを握る手のデコネイル。
肩出しのシャツにパンタクールという全体的に軽い服装。
誰がどう見てもギャルだった。
それもだいぶ可愛い系の。
街中を歩けば何人かには余裕でナンパされそうな。
そんなギャルが俺の顔を見て固まっている。
俺の顔に何かついてるのだろうか。
それともこんな奴に施しを受けたのかと、衝撃を受けているのだろうか。
いきなり「キモッ」と言われてもガラスの心が粉砕しないよう身構えていると、ギャルは予想外のことを口にした。
「わたしの頬引っ張ってくんない?」
「はっ?」
「早く!」
「ちょっ待っ――なんかベタッとするんだけど!」
言われるがまま頬を掴んだ瞬間、ぬるりと抜けた。
気持ち悪い感覚にバッと手を引っ込める。
「あっ、それファンデ……」
「ファンデ!? 女子大生がファンデ使う必要ないだろ! 少しは自分の若さ信じろよ!」
「あ、あるし! 大有りだし! その言い分は現代科学舐めてる!」
「少なくともこんなにべったり塗る必要はない!」
断言しながらズボンで手を拭けば、ファンデのサラサラ成分が残り右手だけやけにサラサラになった。
俺がサラサラの右手をこすっている間、ギャルは俺の触れた部分を上からそっと撫でる。
「お化粧取れちゃった……」
そのつぶやきはなんとも物哀しくて、罪悪感が俺の胸を締めつける。
「……悪かったよ」
「? なんで謝るし。触ってって言ったのアタシなのに」
「それでもだよ。時間をかけて準備してきたものを壊したことには変わりない」
だから、と言い終わらないうちにギャルはぷっと吹き出す。
白い八重歯が覗く、透明感のある笑い方だった。
「なにそれ、クサすぎでしょ」
「顔面撫で回してやろうか」
さっきまでの罪悪感はどこへやら、粧した顔をめちゃめちゃにしてやりたくなった。
「やだやだ、妖怪になっちゃう」
ギャルはけたけたと笑いながら自分の身を抱き、俺を見る。
「そういえば名前なんていうの?」
「ん、守屋貴己。一回生」
「ふぅん、もりや……あ、アタシも一回生だよ。同い年の」
「だろうな」
「え、なんでわかったし」
「なんとなく」
本当は一目見てわかった。
見た目とか、人生舐めてそうな感じとか、見た目とか。
今さっき吐いていたのも飲み慣れていないのに先輩から飲まされたというところだろう。
ギャルはなんとなくか〜、とウンウンうなずいて俺に向き直った。
「守屋さ、ファンデのこと悪いと思ってくれるならお詫び代わりに二件目付き合ってくんない?」
「え、今から別の居酒屋に行くってことか?」
「もち! 奢るから! どう?」
ギャルはパン、と手を叩いて上目遣いに俺を見る。
「……その、いいのか?」
「いいよ! お金はたっぷりあるし!」
「いや、さっき吐いたばっかりなことを心配してるんだけど……」
俺の言葉にギャルはボッと顔を赤くした。
「余計なお世話だし! ってか思い出させないでよっ!」
「わ、悪い。そっちがいいなら行こう」
言ってから、俺は未だギャルの名前を聞いていないことに気づいた。
ずんずんと歩いて行く背中に声をかける。
「そういえば、アンタの名前は?」
「あ、言ってなかったっけ」
ギャルは動きを止め、振り返って名乗った。
「真野くりあ。ひらがなでく、り、あ、だよ。……変な名前でしょ」
そう言って、真野は薄くはにかむ。
「……ああ、いい名前だな」
くりあ。
透明。
なんとも彼女らしい名前だと思った。