004 妖精さんと知らないこと
何やら良い匂いがして、目を覚ました。
枕元のスマホを見れば朝の七時半。
まだまだ寝られる……けど、この匂いも気になる。
「起きるか……」
首をバキバキと鳴らしながら寝ぼけ眼でドアを開けると目の前に天使、いや妖精がいた。
固まる俺の顔を見て、妖精はふわりと笑う。
「おはようございます貴己くん。今ちょうど朝ごはんができたので呼びに行くところだったんですよ」
「え……あ、おはようございます……?」
一瞬で眠気が吹っ飛んだ。
目をこすって今一度見れば、そこにいるのは天希さんだった。
花柄のエプロンを身につけており、動きやすいよう髪を後ろ手で一つにまとめているシュシュも小さく花の水玉模様があしらわれている。
「ふふ、まだ寝ぼけてるみたいですね。まずは顔を洗って歯を磨いてしゃっきりしてきてください」
「わ、わかった……」
「着替えはありますか? 良ければ着替えさせてあげますけど」
「一人でできるから大丈夫!」
素敵な笑顔に促されるまま俺は着替えを持って洗面所に入る。
そうして閉めたドアに寄りかかれば、心臓がばくばくと高鳴っているのがわかる。
そうだ、俺は天希さんと同棲し始めたんだった。
「今までで一番目ぇ覚めた……」
あいも変わらず、天希さんの笑顔は心臓に悪い。
特にあの髪を束ねた状態、あれは良くない。
とても良くない。
俺いつかショック死するかもしれんとか馬鹿なことを思いながら顔を洗い、歯を磨き、着替えてリビングに戻る。
食卓には目玉焼き、ベーコン、味噌汁、サラダといった絵に描いたような朝食の品が並べられていた。
「はー……」
思わず感嘆のため息をこぼしながらキッチンにいる天希さんを見やれば、洗い終えたフライパンやまな板をしまっているところだった。
彼女が忙しく動くたび、花柄のエプロンは裾がふわりと浮き、後ろ手に束ねられた髪は陽光を返しながら揺れる。
動きには一切のよどみがなく、見た目の美しさも相まって何かそういう劇を見させられているような気になった。
と、天希さんがくるりと振り向きこっちを見る。
「貴己くん、ご飯はどのくらい食べますか?」
「どのくらいでも……って、え。ご飯まで炊いてくれたのか」
見れば、炊飯器からはもくもくと炊きたての湯気が上がっている。
天希さんはしゃもじと俺のお茶碗を持ったままうなずいた。
「お昼はタコライスにしようと思って少し多めに炊いてありますから、おかわりもできますよ」
「…………」
何も言わず見つめるままの俺に、天希さんはあわあわと動揺する。
「も、もしかしてタコライス苦手でした? それなら別のものでも……」
「そうじゃなくって。なんていうか、すごいなって思ってさ」
家事全般できると言っていたし、本当に慣れ切っているらしい。
だからだろう。天希さんは俺の言うことがよくわからないといった風に首をかしげていた。
「貴己くん、今日は何をする予定ですか?」
味噌汁の一口目をすすって、天希さんがそう訊ねてきた。
エプロンはキッチンの端にかけられていて、髪は解かれている。
俺は口の中の米とベーコンを飲み込んでから答えた。
「大学の事前課題をやっつけようと思ってる。量はそう多くないし、今日一日で終わるかなって」
「ん、じゃあ朝ごはん食べ終えたらコーヒー淹れてあげますね」
何気なく言われた提案に俺は面食らった。
「いや、流石にそれくらいは自分でやるよ。申し訳ないし」
「インスタントなので手間のうちに入りませんよ。それに私も飲みたいですから、ほんのついでです」
「じ、じゃあ……お言葉に甘えて」
「うんうん、甘えてくださいな」
笑顔に押し切られてしまった。
俺は若干の後ろめたさから、天希さんに同じ問いを返す。
「天希さんは何するの? っていうか、することある?」
一緒に暮らしていくということで昨日、天希さんには完全に物置きとなっていた俺の隣の部屋を使ってもらうことになった。
そして俺が布団を買いに行く間、天希さんは『寝食を担保してくれる場所』から生活に必要な私物をいくつか持ってきた。
けれど、それも決して大きいとはいえないサイズのリュックサックに収まる程度のもので、趣味や娯楽のものを入れる余地はなさそうだった。
「うーん……」
天希さんはレタスを口に運ぼうとしていた手を止め、考える。
やっぱりないのかと思ったら、何かを思いついたように目を見開いた。
「貴己くんが課題をやるのを横で見守る、っていうのはどうですか」
「ぶっ」
「わああ!? 大丈夫ですか!」
味噌汁を吹き出しそうになり、とっさに飲み込んだらむせた。
「一生終わらないのでやめてください」
俺が渡されたティッシュで口元を拭いつつそう返せば、天希さんはくすくすと肩を揺らした。
「ですね。やめといたほうが良さそうです」
「でも、やることないのも困るよな。天希さん何か趣味とかってないの」
「あるにはありますけど……」
「……けど?」
天希さんは一瞬目をそらして、微苦笑した。
「まだ秘密にさせてください」
「ん、わかった」
俺がうなずくと、天希さんは目を瞬かせる。
「き、気にならないんですか?」
「……え、もしかして今の振りだった?」
もしや天希さん関西人だったのか。
と思ったがそんなことはないらしく、ブンブンと首を振る。
「じゃあなんなんだ」
胡乱な視線を向ける俺に天希さんはあたふたしながら説明する。
「普通は『なんで』とか『教えて』って踏み込んでくるものじゃないですか。そうじゃなくても不承不承って感じだったり。それがまさか即答で了解されるとは思わなくって」
ああ、なるほど。
確かにそうかもしれない。
己に納得させつつ、俺は自分の理由を述べる。
「答えたくないって人に無理やり答えさせようとしてもお互いイヤな気持ちになるだけじゃん?」
それに、と続けて言う。
「相手の知らないことを知らないままでいられるのが信頼だと思うし」
天希さんはぱちくりと瞬きをして、それからなぜか少し悲しそうな顔をした。
けれど俺が怪訝に思うより先に笑みが戻って、口を開く。
「やっぱり、貴己くんは優しいですね」
「別に普通だと思うけど……」
「いいえ、優しいです。絶対に」
言い切って、天希さんが俺を見つめる。
自分の体温がみるみる上がっていくのがわかった。
「……ソレハドウモ」
なんだか気恥ずかしくなった俺は天希さんの視線から逃れるように残りの白米をかきこむ。
「ふふ、コーヒーの準備してきますね」
それを見て席を立つ天希さんに、俺は米を口に入れたまま無言でうなずく。
ふとキッチンの反対側、リビングの大窓を見やればカーテンの向こうには青空が広がっていた。
今日は厚着しなくて良さそうだ。
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