アノマロカリスについてどう思う?
サンタクロースとは、クリスマスの夜に現れる赤服の老人である。
聖ニコラウスの伝説を起源に生まれたとされるそれは、莫大な数の荷物を担いで超音速で世界を駆け巡り、なんと一夜の内に世界各国の良い子にプレゼントを届けるのだ。一体どのようにそれを成し遂げているのかは不明だが、その超常的な異能から昨今では北アメリカ航空宇宙防衛司令部もかの存在を追っているらしい。
そんな異能の存在たるサンタクロースだが、なんと俺の家にも現れたことがある。あれは俺がまだカブトムシくらいにちっぽけだった頃だった。姿形を直接見たわけではないが、枕元に置かれていた流行りのキャラクターシールはまさしくサンタが現れた証左に他ならなかった。たった一度の出来事だったが、忘れられるはずもない。
一体サンタクロースとは何者なのだろう。ナナフシくらいに成長した俺は、全身全霊をもってその謎を暴こうとしたことがある。いくつかの仮説と推論を並べてうんうんと考えたのだが、ついぞこれぞと思える説にはたどり着かなかった。
つまるところ、サンタクロースの正体は今も謎に包まれている。俺があんなに頑張ったのに分からなかったのだ。きっと世界の誰も知らないのだろう。しかし、そんな神秘のヴェールに包まれた存在が、今こうして俺の前に座っていると来たものだ。
筆舌に尽くしがたい驚きがあった。
「ねえ、それ、本気で言ってるの?」
当たり前じゃないか。俺は自信を持って頷いた。
「奇跡って結構あるんだなぁ」
複雑な面持ちで、サンタクロースはメロンソーダを舐めていた。
俺たちは近場の喫茶店に落ち着いていた。なんとなく目に付いた以上の意味はなかったが、いざ来てみると中々にアクの強い店だった。一見ログハウス風の喫茶に見えるが、店内の壁には敵将首のように完食記念写真がごろごろと飾られている。学生向けのデカ盛りメニューで鳴らしているようだ。
「なあ。この鍋ごとカルボナーラってやつ、食ってみね?」
「ご飯を食べに来たわけじゃないんだけど」
聖ニコラウスのコスプレ女は相変わらずふてくされていた。
「おいおい、そんな顔すんなよ。今日は俺たちが出会った記念すべき日だろ? 今日という日を飾るには、カルボナーラの白はぴったりだと思わないか。なあ?」
「そうだね。私そろそろ帰るから、お支払い置いていくね」
彼女はためらいなく立ち上がり、俺はとっさに彼女の手を取った。一瞬に交差した目の色は、限りなくマジだった。
「あの部屋についての話をしよう」
「最初からそう言いなさい」
「あと、ここの払いは俺が出す」
「やかましいわ貧乏学生」
彼女は再び席に座り、俺の手を払い落とした。緒戦はまずまずといったところか。というか、この女はどうして俺の懐事情を知っているのだろう。ともすれば彼女は俺の注文から何かしらの情報を嗅ぎ取ったのかもしれない。ウエイターさんが盛大な苦笑いと共に供してくれた自家製ウォーターのロックで唇を湿らせつつ、ホームズのように鋭い瞳で俺は推理を吟味した。
「で。なんで俺は死んだんだ?」
とりあえず一番気になっていたことを聞いてみた。すると、隣の席で勉強していた女子高生がぎょっとした顔で俺を見た。そんな彼女に軽くウィンクを飛ばすと、女子高生はくるんとペンを回して俺に答えた。なるほどな、恋ってやつはこうやって始まるのかも知れない。それきり彼女は机に向かい、俺は女子高生の存在を忘却した。すれ違ったままに過ぎ去るであろうこれからの時間に、俺たちは静かに思いを馳せた。
「ちょっとまって。今の無意味なやり取り何?」
「世界って不思議だよな」
「君は人生楽しそうだね」
まあな。
「なんで死んだかって言われても、それこそ意味なんてないよ。君はあそこに来た。だからあの子は、君を殺した。因果なんてそれしかない」
「そうだな。質問は色々あるが、最初にこれを聞いておこう。因果ってなんだ? サンスクリット語か何か?」
「日本語だ」
俺はサンタに断って、因果の意味をスマホで調べた。なるほど因果とは原因と結果のことらしい。俺があそこに行ったことが原因で、結果として俺は死んだと。だから、つまり、ええと……どういうことだ?
「なるほど完璧に理解した。つまりあの女は俺を殺したってことだな!」
「猛烈に帰りたくなってきました」
「まあ待てって。もうちょっと教えてくれたっていいだろ。できるだけわかりやすくて易しい言葉で」
「君のその無駄に素直な姿勢だけは高く評価します」
褒められた。やったぞー。
「あの子はね、悪霊と言うのが一番近いのかな。今となっては目についたものを手当たり次第に殺して回る、そういった現象になってしまった。理解はしなくていいよ。ただ、そういうものだと覚えておいて」
「悪霊? 幽霊だって? あの女が?」
「えーっと、そこは説明が難しいんだけど……。君が想像する幽霊とはちょっと違うと思う。あの子はもう生きてないんだけど、だからって死んだわけじゃない。ただ止まってしまった人間の成れの果てっていうのかな。ごめん、ちょっと、うまく説明できない」
要領を得ない言葉だった。困ったように下がる彼女の眉は、ただ言葉を濁していると言う様子ではなかった。
よくわからないが、あの女は目についたものを手当たり次第に殺す幽霊のようなものらしい。それで納得しろと言うのも強引だが、そう言われてしまっては仕方ない。そもそも世の中ってやつは不思議なものでいっぱいだ。二次方程式の解の公式なんてものが存在するくらいなのだから、幽霊がいたっていいだろう。
「じゃあ次の質問。君自分のことサンタクロースだって言ってたけど、ぶっちゃけ何者なん?」
この質問は、彼女をますます困った顔にしてしまった。
「何者って言われてもな。逆に聞くけど、君は自分が何者かと問われて正確に表現することができるの?」
「灰原雅人。この身に満ちる若き情熱を、無駄と徒労に費やすことを惜しまない新進気鋭のフレッシュな馬鹿だ。文句があるならわかりやすい言葉で言ってくれ」
「燦然と切り拓かれた開き直りの新境地に不覚にも感動を覚えました」
たぶん褒められているのだろう。うんうん。褒められるのは良いことなので、人類の皆さんはもっと灰原を褒めてほしい。
「私が何者か、ね。さっきも言ったけど、ここしばらくはサンタクロースって名乗ってた。君にとって重要な情報だけを述べるなら、ちょっとだけ時間を操ることができます。それ以外は、まあ、ご想像にお任せで」
「ふうん、能力者ね。それも時空異能か……。機関に居た頃に資料で読んだが、実物は初めて見たな」
「私はその能力者も時空異能も機関ってやつも何一つとして聞いたことがないんだけど」
「そりゃそうだろ。当時中学生だった従兄弟の晴希くんが考えたんだから」
「それ晴希くんに会うたびにからかってそう」
「よくわかったな」
「忘れてあげなよ」
分かったことは二つだけ。彼女はサンタクロースであり、時間を操ることができるらしい。それ以上の重要情報はすっかり秘匿されてしまった。これは大変に困った事態だ。最近ハマっていることも、お気に入りの歌手も、好きな古生代の動植物も言わないのなら、一体どうやって雑談すれば良いのだ。しばらく考えても打開策は浮かばなかったので、俺は脱線を諦めて核心へと踏み込むことにした。
「なあ。アノマロカリスについてどう思う?」
「アノマロカリスについてどう思う!?」
俺は意味ありげに頷いて、次の質問へと移った。
「俺を生き返らせたのも、その能力で?」
「ええ……? いや、そうだけど。さっきの質問は何だったの?」
「なんで俺は巻き戻ったことを覚えてるんだ?」
「普通に進めるんだ……。えっと、君の死を軸にして巻き戻したからっていうのが答えになる。細い原理は、たぶん、説明してもわかんないと思う」
「その能力は普遍的なものなのか?」
「ううん。あんまりないんじゃないかな」
「時間を巻き戻す以外にもできることはあるか?」
「やろうと思えば、止めたり進めたり飛んだり色々できるけど……。ちょっと待って。君さ、急に質問が具体的だけど、何か聞きたいことがあるんじゃない?」
察しの良い女だ。俺はどうしても彼女に言わねばならないことがある。唇をしっとりと湿らせて、もっとも肝要なことを切り出した。
「引っ越し荷物の受け取り、五分後なんだけどさ。もしよかったら時間止めてくれない……?」
「知るか」
「そこをなんとか」
「それくらい自分でなんとかしなさい」
惨敗である。取り付く島もなかった。人間たるもの誰しも時よ止まれと願うことは一度や二度では無かろうが、俺はそれが今だったのだ。しかし矮小な人間に時の流れをせき止める術はない。なればこそ、人にできることは何だろう。うんうんと考えた末に、俺は起死回生の一手を閃いた。
「荷物の受取場所は俺の家だ。きっと宅配のお兄さんは黒い女に出会うだろう。となると、お兄さんは一体どうなっちまうかなぁ?」
「扉を開けない限りあの子は誰かを襲ったりはしないよ」
万策尽きた。人の世は無情である。俺は悔恨の涙をさめざめと流した。
「君さ、他人の命を盾にするってどうなの? 人として恥ずかしくないの?」
「違う。俺はただ宅配のお兄さんの身を案じたまでだ。彼の安否が確認できて、今心の底から安堵している」
「あ、そう」
「信じて」
「やだ」
「やだかー」
打算があったのは否定しないが、半分は本心であった。今日も今日とて天下泰平、世は事もなく過ぎていく。誰も死なずに済むというなら、それは幸せと言って良いのだろう。ただ、俺が荷物の受け取りを逃しただけの話である。
「まだ走れば間に合うかもよ。行ったら?」
「いや、それはいいんだ。それより今はあんたと話がしたい」
「私はそろそろ帰りたい」
「まあそう言うなって。もうちょっとだけ付き合ってくれよ」
実はもう一つ聞いておきたいことがあるのだ。互いに多忙な身ではあるが、ここで会ったが百年目。聞かぬは一時の恥とも言う。これでも俺は国語の成績だけは三だった。ことわざの使い方には絶対の自信がある。
「お前さ。なんでこんなことしてるんだ」
彼女は目をまたたいた。俺は続けた。
「なんで俺を蘇らせたのか、って言うと質問が悪いな。聞きたいのはなんで黒い女の犠牲者を蘇らせているのかだ。どうしてあんたはこんなボランティアじみた真似をしている? あの黒い女は、お前にとって何なんだ?」
束の間、彼女は答えをためらった。小さく息を整えてから、彼女はまっすぐに俺を見た。冷たく定まる瞳には、強い意志が灯っていた。
「友人だよ」
触れることは許さない。そんな口ぶりだった。
「それ以上は、君には関係のないことだ」
言葉以上に強い拒絶であった。踏み込むならば傷つけることも厭わないと、言外に彼女は言っていた。しかしそれは、強さゆえのものとは思えなかった。まるで手負いの獣のようだ。傷ついた体に触れさせるものかと虚勢を張る時、人はこんな顔をする。
「そうかもな」
だから俺は、彼女に関わることを決めた。
「でも俺は、そんな目をしているやつを見て、無関係だなんて言えるほどお利口さんじゃねえんだよ」
遊びのつもりはなかった。いくら巻き戻ったとは言え、現に人が死んでいるのだ。そんな事態の最中で一体どうしてふざけられようか。最初から最後まで俺は本気だ。
彼女の気持ちが分からなかったわけではない。彼女にとって俺はあくまでも部外者だ。それに、超常の要素すら帯びる事態に、ただの大学生が関わったところで何ができる。さらに言うなら、見ず知らずの他人の傷口を踏み荒らそうなど、自らの分をわきまえない愚者の所業なのだ。ゆえに彼女は俺を拒絶する。それはとても正しいことだった。
翻ってみてどうだろう。俺の選択はあまりにも浅はかだ。ブレーキをかける理性を蹴倒し、ただ自分の感情に身を任せた馬鹿者の選択だ。これまでも同じようなことをして、その数だけ積み重ねてきた失敗が、今回も俺は間違えたんだぞと言っていた。
「……本気なの?」
それでも彼女は。
少しだけ、ほんの少しだけ、すがるような目で俺を見たから。
「当たり前だろ」
俺は、後悔する気などさらさら無かった。