春はあけぼの世は情け
春はあけぼの世は情け、祇園精舎のほととぎすとは、安土桃山時代の高名な歌人石川啄木の一句である。
かの歌人が詠んだように、春とはいかにも陽気なものだ。長い冬が終わりを告げれば、桜は舞い散り野草は茂り、春一番が吹き抜ける。タンポポ大好きな俺たちがついつい浮かれ騒ぐのも無理はない。
三月末日のぽかぽか陽気の中、俺こと灰原雅人は、新居目指して雨城の街を歩いていた。
新生活。そう、新生活なのだ。
この国では十八にもなろう男は進学か就職かの選択を迫られる。ことさしたる向上心もないくせ進学を志した若人たちは、春よりめでたく大学生活なる浮ついた幻想へと足を踏み出すのだ。
ああ母上様、せっかくなので一人暮らしなるものを希求いたします。別にいいけどバイトはしろよ。そんな人生の大転機を経て、ついぞ俺は自由を手に入れた。わぁい。
「ここか」
駅から歩いて十数分。駅前の喧騒が立ち消えた閑静に、俺の城は構えられていた。
二階建てアパートの二階。バストイレ付のワンルーム。近くにはコンビニと大型スーパーがあり、少し歩けば商店街もある。これでなんとお家賃一万円五千円だ。
このレベルの物件で月一万円五千ははっきり言って破格である。破格すぎて何か裏があるのではと勘ぐりたくもなるが、疑心暗鬼は心貧しき者のやることだ。やはり十八にもなる男はドンと構えねばならない。不動産屋の思惑を一笑に付し、金が貧しき俺は意気揚々と新居に向かった。
今や俺の気分は有頂天となっていた。見慣れぬ街並みも、桜を散らして吹く風も、シリンダー錠に鍵を差し込む音すらも心地良い。一度下見に来たとは言えど、この瞬間のトキメキたるやインフィニティ。期待に大いに胸を膨らませ、俺は新たなる我が家の扉を開け放った。
そこに、女がいた。
部屋の中に女がいた。立ち尽くす女がいた。長い黒髪を垂れ下ろし、うつむく女がそこにいた。女は黒い服を着ていた。真っ黒でだらっとした服を着ていた。小汚い身なりの女だった。ぼさぼさの髪に荒れた肌、服も汚れてよれていた。女の顔は見えなかった。表情は長い髪がすっかり隠してしまっていた。女がいた。うつむく女が、そこにいた。
女は手に、包丁を握っていた。
*****
春はあけぼの世は情け、蛙飛び込む法隆寺とは、平安時代の高名な歌人ウィリアム・シェイクスピアの一句である。
かの歌人が詠んだように、春とはいかにも陽気なものだ。桜は舞い散り野草は茂り、俺たちはタンポポが大好きだ。三月末日のぽかぽか陽気の中、俺こと灰原雅人は新居目指して雨城の街を歩いていた。
新生活。そう、新生活だ。
そのはずなのだが。
「この道、歩いたことあったか?」
既視感があった。えも言われぬ既視感がつきまとっていた。
なにも始めてこの街に来たわけではない。大学受験の時にも来たし、部屋を借りる時にも下見に来た。だが、それだけとは思えないほど景色に見覚えがあったのだ。
まるで数分前に歩いた道を歩きなおしているような、そんな違和感。首をひねりながらも歩き続け、俺はアパートにたどり着いた。その間も違和感はむくむくと膨れ上がっていた。見慣れぬはずの街並みも、桜を散らして吹く風も、シリンダー錠に鍵を差し込む音すらも覚えがある。しかし答えが与えられることは無く、とにかく一度荷をおろそうと、俺は我が家の扉を開け放った。
そこに、女がいた。
部屋の中に、女がいた。窓枠に腰掛けた女がいた。艷やかな黒髪を短く切りそろえ、物憂げに外を眺める女がいた。女は赤い服を着ていた。だぼっとした赤いパーカーを羽織り、デニム生地のショートパンツから伸びる美脚を惜しげもなく晒していた。女と言うより少女と言うべきか。俺よりいくつか年下に見える女は、細い指の間にロリポップを揺らしていた。
扉を開けたことで空気が流れる。窓枠がかたりと震えた。そこで女が、振り向いた。
目があった。
「やあ」
思わぬ挨拶に面食らう。俺の戸惑いなど気にもせず、女は自分のペースで続けた。
「君も懲りないね。もう痛い目には遭ったでしょう。悪いこと言わないから、ここにはもう来ないほうが良い。君が体験したそれは、幻覚だとか白昼夢だとか、そんな類のものじゃない。あれは紛れもない現実だ。私の言ってることわかる?」
脳が情報を咀嚼するよりも早く言葉が流れていく。理解が追いつかない。俺は返事をすることもできず、ただぱちくりと目を瞬いた。
「説明が足りない? 君は実感よりも頭で判断するの? 論より証拠の証拠なら、君は身を持って体験したはずだ」
思考はただただ空回りする。疑問は渦となっていた。何かを判断するには情報が足りない。そもそも、何を判断すればいいのかも分からない。それでも俺は、言を紡いだ。
「お前は、誰なんだ」
ようやく口から出てきたのは、そんな言葉だった。
女は俺の質問に答えなかった。ただ残念そうに首を振り、眉を落とすだけだった。
「ごめんね。これでも、忠告のつもりだったんだ」
その時、背中に灼けつく痛みが走った。
重々しい衝撃と共にそれは伝わった。不思議と覚えのある感覚だった。肉と血管がぶちぶち千切られ、激痛と共に途方もない悪寒がした。死、というものを強く意識した。刺された。深く、刺された。死ぬかもしれない。唐突に突きつけられた現実は、理解よりも早く進展していった。
背中から刃物が抜かれる。俺は、力を振り絞って振り向いた。
そこに、女がいた。
包丁を握りしめた黒服の女がいた。
女は血濡れた包丁を大きく振りかぶった。
*****
春はあけぼの。
「……清少納言だっつの、クソが」
足早に街を歩きながら、俺は今しがた起きたことを必死に理解しようとしていた。
死んだ。死んだのだ。俺はあの女に、黒服の女に殺された。
それも一度ではない。最低でも二度は死んでいる。そしてあの女に殺されるたびに、俺は再びこの道を歩いている。これは一体なんなんだ。
分からないことだらけだった。どうして俺の部屋にあの女たちがいたのか。どうして黒服は俺を殺したのか。どうして死んだはずの俺が生きているのか。それにあの赤服は何者なのか。疑問はとめどなく湧き出るも、答えを得られる由もない。
「新生活のはずだったんだけどな」
唐突に漂う死の香りは、巨大な謎を伴って春の街に影を落とした。
一つだけわかることがあった。赤服の女の言うとおり、あの部屋にはもう行くべきではないということだ。あそこに行けばもう一度同じことが起こる。何度でも俺は痛みを味わうことになる。そんな苦痛に耐えてまで答えを求めるくらいなら、黙って街を離れる方がよほど賢明だろう。
こうなってしまっては仕方ない。見慣れぬはずの街並みも、桜を散らして吹く風も、シリンダー錠に鍵を差し込む音すらも、今となっては物々しく感じられた。
「よっす」
それはそれとして。
我が家の扉を開け放った俺は、軽快に挨拶を飛ばした。
なぜならば、決して賢明ではない俺は、細かいことを考えず好奇心に身を委ねるのが得意なのだ。いぇい。
一方で、窓枠に腰掛けた赤服の女はロリポップを取り落とした。部屋の隅にいた黒服の女は、包丁を手に立ち尽くしていた。
「ちょっと、君」
「今日からこの部屋に越してきた灰原雅人です。対戦よろしくおねがいします」
「そうじゃなくて!」
焦った顔の赤服は、裸足のまま玄関から俺を押し出す。後ろ手で荒々しく扉を閉めて、勢いのままにまくし立てた。
「なんでまた来たの!? 私もう来るなって言ったよね! 死ぬの!? 死にに来たの!?」
「なんか行ける気がした」
「なんか行ける気がした!?」
絶叫に等しかった。アパートの共用部分で出していい声量ではない。社会的道徳観念に長けた俺は、周囲に気を遣って彼女にクールダウンを求めた。
「まあ落ち着けよ。あそこのタンポポでも見ろって。お前も好きだろ、タンポポ。なあ?」
「人が! 死んだんだよ! 人っていうか君が死んだの! もう何回も死んでるの! 気づいてないわけじゃないでしょう!?」
願いは聞き届けられなかった。俺は諦めた。社会的道徳観念はまた今度にしよう。
「そりゃ気づいちゃいるけどさ。今も元気に生きてるじゃん」
「それは私が巻き戻したからであって……。ああもう! あのね、私の話をよく聞いて。君が死んだのは本当なんだ。この部屋に入ればもう一度死ぬことになる。痛くて辛い死に方をする。だからもう、ここには来ないで」
「そんなこと言われてもなぁ」
「そんなこと!? 今そんなことって言った!?」
赤服は顔を真っ赤にして怒った。美人と呼ぶには歳が足りないが、もう数年もすれば迫力のある顔をするだろう。彼女の将来は有望だ。
「とにかく、ここじゃ落ち着いて話もできない。一回中に入ろうぜ」
「私の話聞いてた?」
「あー、わかったわかった。なら喫茶店でも探すか。俺今日越してきたばかりなんだけど、この辺でいい店知らない?」
赤服の女はむっすりと黙り込んだ。冗談はいい加減にしろと言わんばかりの顔だった。円滑なコミュニケーションはかくも難しい。どうしたものかと俺は頭を悩ませた。
「なあ、あんた。名前は」
自己紹介はコミュニケーションの一歩目だ。女は俺を睨みながら答えた。
「サンタクロース」
「サンタクロース?」
「そう、サンタクロース。今でもそう名乗る資格があるのなら」
大変に機嫌の悪い赤服の女は、腕組みをしてそう言った。