【 其の弐 】 面ヲ接グ(めんをつぐ)~1~
目の前にある、この扉を通って……どこかに行くらしい。
死神は『形 (ぎょう)』をもらうため、友のところに行くと言っていた。
そして『一寸 (いっすん)』という名の彼の魂は、その未知なる『形 (ぎょう)』について何も知らされないまま、それを見ることになるのだろう。
そう、おそらくは正面から直接……そして、まっすぐに。
けれども、どうしてもためらってしまい、その挙げ句にいつの間にか……重力に従うかのように下を向いてしまうかもしれない。
『前』を見て……集中して進むのです。
どこからともなく吹いてきた、風の中から聞こえてきた。
何のことなのか全然、わからない。
今、見えているものは実体のない、まぼろしにちがいない。
本当は、僕は……
でも……何だ?
まぁ、どうなってもいいや……
チリン、リン……
澄んだ鈴の音がふたつ、やや重なるようにして聞こえてきた。
確か、石造りの扉のようなものを通ったあとで……
「おっっとおぉ~、戸ぉ口ぃ~を間違えたぁ~かのぉぅ~~」
すぐ近くにいるはずの死神の声が、ゆっくりと引き伸ばされ、遠くに過ぎ去ってしまうかのように聞こえる。
周囲は上下感覚もわからないような、真っ暗闇の中。
浮いているようでもあって、でも落ちているかような、ものすごく不安定な錯覚の中に迷い込んだよう……
まるで、ひどい乗り物酔いのようだ。
一寸は、このクラクラしそうな不快の闇から逃れるように、ギュッと目を閉じようとした。
その瞬間、死神の持つ『大鎌』の刃先が放つ妖しい輝きがキラリと、目の隅に入る。
同時に一寸の周囲の暗闇が、だんだん刃先の輝きに吸い込まれて……
その収束するスピードが、加速していく。
さらに周囲の暗闇だった空間が、徐々に反転していくように明るくなり……
今度は、真っ白に呑みこまれていく。
手足の感覚はないけれど、上下の平衡感覚だけは戻ってきた。
どうやら、ひどい不快感がするところからは抜け出せたようだ。
ゆっくりと目を開けると、そこは……なんとなく全体的に赤っぽい。
近くには、赤と白の線状の模様が入り混じった大きな柱のようなものがひとつ、そして黒っぽいまだら模様の固そうな床が見えてきた。
どうもここは、巨大ホールの大広間みたいなところ、のような気がする。
ここの周囲が濃い霧の中のようで視界が悪いから、そう感じたのではなく……
それは、まるで朝の駅前の雑踏の中にいるような、騒然とした雰囲気に似た気配が漂っていたからだった。
さらに、比較的近くで声にならないような音や、何かが互いにぶつかったり、こすれたりするような音もあちこちから漏れ伝わるように聞こえてくる。
「やれやれ、すまんのぅ。先ほどは危うく足を踏み外しそうになってしもうたわぃ」
一寸のすぐ横で、死神の声がユラユラ揺れるように聞こえてきた。
「これを使ったのは久しぶりじゃから、扉の置き位置がずれてしもうて、ちと来る場所を間違えてしもうたようじゃ。さてと、ここは……」
あいまいな言い訳をするように、ぶつぶつと言いながら今度は周囲を見回している。
それは、何かを待っているかのようにも見えた。
しばらくすると、何か赤黒い大きな人影のようなものが、こちらに近づいてきた。
「これ! 列からはみ出して、このようなところで止まるでない。早く戻って……」
体の全体が、ぼんやりと赤みを帯びている。そして野太い声を聞く限り、周囲を威圧するような雰囲気も漂わせている。
濃い霧の中から姿を現した『其れ』は……2メートル以上は軽くありそうな大柄な背丈に、筋肉質のとても良く引き締まった長い手足をやや大げさに動かしながらやって来た。
「おぉ、おヌシは確か……『右焔 (うえん)』じゃったかのぅ。これは久しいのぅ」
死神は『其れ』が言い終わる前に、大鎌をわざとらしく目の前に置いたまま、いたずらっぽく目を細めながら言った。
「ぬ! 何故、兄者の名をおのれは!!」
そう叫ぶと、少し手前の離れた位置で左腕の拳を握りしめたまま『其れ』は身構えた。
その衝撃は、割れんばかりに踏みしめた地面とかすんだ空気を通して、こちらにビリビリと伝わってくる。
その表情は、まさに鬼の形相のよう……ではなく、まったく違うものだった。
赤黒い顔らしき部分には、白い目のような丸いものが横並びに四つあるだけで、他には……何もない。
これでは表情も何もわからないが、威嚇するような体勢のまま、こちらの様子を伺っているようにも見える。
一寸がそう思ったのも束の間、明らかに異様な『其れ』は何かに気がついたようで、動きがピタリと止まった。
「はっ!! もしやその鎌を持つお姿からして……その……かなり『小さく』なられていますが……『死神さま』ではありませんか?!」
『其れ』は勢い良くやって来たものの、死神の存在を知った途端、急にしぼんで縮む風船のように小さく身体を丸めて、床に伏せてしまった。
やはり死神の存在は、今の見た目よりも遥かに大きいようだ。
この様子を見る限り、互いの優劣はハッキリしていると一寸は思った。
「ヨシヨシ、実直な良き眼 (まなこ)は変わらぬようじゃのぅ。今は訳あってこんな姿じゃが……『左焔 (さえん)』じゃったか。おヌシらふたりは手の標 (しるし)以外はまったく見分けがつかんからのぅ」
死神はその『左焔』というものの左手の甲にある、炎の模様をした赤黒い刺青のようなものを指さしながらそう言った。
「さて、おヌシが居るということは、ここは弐ノ宮 (にのみや)かのぅ。十王に会いに来たのじゃが……だいぶズレてしもうたかのぅ」
そう言うと死神は、大鎌を右肩に担いだまま左焔の周囲をぐるりと回り、とある方角をじっと見つめている。
「死神さまが場を違 (たが)えるとは、余程のことだとお察しします。然らば、私がすぐに十王さまのところにお連れ致しますので、どうぞこちらに」
左焔は上半身を起こして片膝をつき、左手の拳を地につけてから、何か短く唱えた。
すると、死神と一寸は左焔を中心とした円上の赤黒い炎の壁に、あっという間に囲まれてしまう。
「では、案内を頼むとするかのぅ。十王宮の中をのんびり散策、という……訳にはいかぬからのぅ」
死神は、何かに気がついたように大鎌の柄の先をチラッと見たあと、ため息混じりにそう言った。
「それでは五ノ宮、閻魔 (えんま)の部屋へ……ご案内致します」
左焔の左手の拳は、地面に何か伝えるように赤い炎で包まれた。
それと同時に、周囲の炎の壁がさらに大きく揺れ動き、ひとすじの旋風が巻き起こった。
やがて『炎の壁の嵐』が過ぎ去ると、先ほどの巨大ホールのような所とは全く異なる雰囲気に包まれた。
ここは……明かりのない静寂な、薄暗い影に覆われている。
そのため周囲の状況はわからないが、目の前で何か白い紙切れのようなものが、いくつもヒラヒラと音を立てずに漂っているのが見えた。
「十王さま、お客さまでございます。では、私は用務に戻りますので……これにて失礼します」
左焔は奥のほうに向かって頭を下げ、ひざまずいた姿勢でそう言った。
と、同時に左手にあった赤い炎が、左焔の体の全体を駆け巡り、激しく燃え上がる炎と化した。
その炎は次の瞬間、急激に圧縮して小さくなったかと思ったら、燃え尽きるようにフッと消えてしまう。
この部屋の長居は無用と言わんばかりに、左焔はあっという間に立ち去ってしまった。
そして左焔がいなくなったのと同時に、まるでスイッチが入ったように周囲が明るくなった。
ここは、少し大きな洋室のようなところだ。
赤みを帯びた色はさっきまでいた『弐ノ宮』と同じだが、こちらのほうがやや明るく見える。
目の前には、黒っぽい大きなソファーのようなものが白いテーブルを挟んで一組あり、床は赤い新品同様の柔らかそうなじゅうたんが敷かれている。
「ほぅ……ちと見ない間に、また模様替えをしておるようじゃのぅ」
ぐるりと周囲を見渡しながら、死神はそう言った。
照明器具のようなものは見当たらないが、天井全体から木漏れ日のようにじんわりと間接的に照らされている。
この赤っぽい色以外は、とても落ち着いた感じがあるところのようだ。
そして白い紙切れのようなものは最初、蝶が舞うように漠然と周囲を漂っているかのように思えた。
だが、よくよく見ると壁や天井をすり抜けるようにして、多くの数が頻繁に出入りしている。
でも、ここには誰もいない……そう一寸が思ったとき、目の前の壁の中央あたりからじわりと傷口が開くように切れ目が入り、縦にまっすぐ伸びていった。
それは、まるでステージの分厚い幕のように、左右にゆっくりと分かれて開いていく。
その開かれた奥のほうは、ここよりも薄暗かった。そして、手前には不格好なくたびれた椅子と使い古したような、やや大きな机がひとつ。
左右に目を向けると、重厚な本が大小多く並んでいる棚や、それと一体となって見えるさまざまな調度品が、壁に沿って所狭しに置かれている。
さらに、奥の壁一面にはモニター画面のようなものがびっしりと埋めつくされていて、その足元には画面の明かりに照らされている影が細長く、伸びていた。
「すまないが、しばし待たれよ……ん? おヌシが『客』だと?」
背を向けたままではあるが、その声の主はそう言った。
それは、左焔のような威圧的な体格と野太い声ではなく、何となく死神の声に似て穏やかさが含まれている。
そして、すらりとした大人の背丈くらいのその姿は、ここにある調度品と同じようにやや控えめで、落ち着きのある雰囲気がある。
「さきほど左焔が言うたではないか。久しい……というほどでもないかのぅ、我が友よ」
十王の目線と同じ高さに合わせて浮かんでいる、小さな死神がそう答えた。
「なにが『友』じゃ、この!! いや……これは失礼しました『死神さま』。其れを連れているということは……もしや『形 (ぎょう)』をご所望でしょうかな?」
最初は、死神の言いかたに愚痴をこぼす様子に見えた。
が、すぐに落ち着きある表情で振り返った十王は、丁寧な口調に言いかえつつ、頭を下げた。
この様子を見ていたら、一寸はふと思い出した。この『十王』は父さんによく似た会社員のような、ごく普通の見慣れた人の姿だ。
また、十王と死神とは互いによく知っているようでもあるが、自分の立場をわきまえた大人の応対をしているようにも思える。
現に、見た目もネクタイは締めていないものの、スーツに似た装いで静かにたたずむ十王は、多彩なスキルを持ち合わせた『ビジネスマン』のようにも見えた。
ただ、切れ長の目の周囲の色が鮮やかな黄色であることは、まぁいいとしても、瞳の色が……
死神とは違う、混じり気のない澄んだ赤い色をしている。
激しい怒りを抑えている訳ではないようだけど、あまり直視できそうにもない。
いずれにせよ、人のような外見とは比べようのない、明らかに違う異質さを持ち合わせていることを……その目が間違いなく語っているかのようだった。
「おぉ、よくわかったのぅ。ここのものたちは察しが良くて、たいそう気も利くのう。ついでに『所作』も見てみたいのじゃが……『ちゃっくする』じゃったかのぅ?」
死神は十王の対応を見て楽しむかのように、そして笑みを浮かべたような表情で赤い目を丸くしながら、いたずらっぽく言った。
「それは『チェックする』という人の言葉でありまして……ま、それはともかく」
死神の戯れ言を、ため息交じりで十王は軽く受け流しつつ、奥のほうへ向きを変えた。
「それもご所望であれば、ここでは手狭でしょう。ならば、そうですね……七ノ宮の外苑で執り行いましょうか」
少し考えながら奥の画面の一部を指さして、やや事務的な口調でそう言った。
その直後、この部屋の『何か』に気がついたようで、死神の持っている大鎌のほうにサッとを視線を向けた。
そして、その『何か』を即座に察した十王は、あらたまった様子で姿勢を正したあと、ゆっくりと丁寧に頭を下げた。
「ちなみに、先ほどからその柄の端にお隠れになられている『御方 (おかた)さま』には、お出まし頂きたく申し上げます。願わくは、またお力添えを……」
十王がそう言っている途中で、一寸は新たな別の『声』を聞いた。
【 続 】