【 其の壱 】 一ノ寸 (はじめのとき) ~1~
黄泉 (よみ)の世界
そこは時空が常ではない、淡々としている今の世と別の世の間 (はざま)にある世界。
また、そこは荒々しく渦巻く暗闇の底に落ちていくようでもあり、ときに光輝く命に優しく抱かれているようでもある世界。
そして数えきれない多くの生と死が、時の経過に関係なく複雑に交わっている、何とも不思議な世界。
ひとつの終わりは……あらたな始まりのひとつ。
あるひとりの少年は、八百万 (やおよろず)のものたちと出会う。
彼らは、太古の昔から『神』と呼ばれていた。
この出会いは偶然のようであるが、『森羅万象の理 (ことわり)』に見出された必然でもあった。
その少年の名は、志木谷 守 (しきたに まもる)
彼は、普通の家庭で何の不自由もなく育った、ごくありふれた人の子である。
そして彼は、高校受験の結果発表の日を迎えたのであった。
あぁ……もう、どうでもいいや……
地面が、すぐ目の前にある。
普段とは全く違う、あまり見慣れない光景だ。
彼、志木谷 守 (しきたに まもる)は薄暗い路地裏の端で、動けないまま倒れていた。
いつからココにいる?
よくわからない……記憶がとてもあいまいだ。
どうして、こうなった?
守は、何も覚えてはいない……いや、何も思い出せないだけだ。
彼の体は、自分の意思とは決別したかのように感覚がまったくもって、ない。
熱さや寒さ、そして重さや痛み……
まるで、全部どこかに置き忘れてしまったかのようだった。
それから……音が聞こえてこない。
路地裏の中でも街の雑踏というか、何か物音などが伝わってきてもいいハズ。
なのに、なぜか無音の中にいる。
まるで、自分のいる『この場所』の時間だけが、一時的に止まっているようだ。
これは、たちの悪い夢でも見ているのだろうか?
なぜだかは、分からない。
けれども薄汚れた平たい地面だけが、この冷たい『現実』を彼に黙ったまま、とても残念そうに見せつけているかのようだった。
あれから、どのくらい時間が経っただろう。
彼は、だんだん考える意識も……ゆっくりと薄まっていくように思えてきた。
あぁ……もう、どうでもいいや……
彼はまぶたを閉じたまま、ゆっくりと深呼吸をした。
そのとき、急に目の前が明るくなる。
これは……
そう、彼の住む家のダイニングだ。
少し大きめの窓が、白いカーテンと一緒に明るく照らされている。
そして今朝は、それが……やけに眩しく感じた。
彼はテーブル脇にある、ちょっときしむ音がし始めた自分の椅子に座った。
そして、両親と三人で日曜日の朝の定番、ハムサンドを食べようとしている。
最近は、何かと仕事や学校とか……三人共に、すれ違いが多くなってきた。
だからせめて、日曜の朝だけでも一緒に過ごそうと家族でこの間、決めたばかりだった。
そうそう、これは家の近所にある高校の……
確か、受験結果の発表日の朝だったように思う。
このとき、普段はあまり自分から喋らない父さんが、珍しく母さんに話しかけている。
いたずらっぽい笑顔で、しかも何か冗談めいたように。
それを聞いて母さんは、父さんをにらみ返している……が、本気では怒ってはいない。
よく見ると、口元が穏やかに笑っているからだ。
しかも、母さんはいつもの疲れた表情ではなく……何だか嬉しそうだった。
これらは僕にとって、見慣れないことだから正直、意味不明だった。
ふたりは共通の思い出話で、何やら楽しんでいるようにも見える。
その様子を見ながら僕も、不思議と満たされるような気持ちになって……
そんな光景が、目に浮かんだ。
しかし、何かがおかしい。何か恐ろしいくらいの違和感に襲われそうに
そう、やっぱり……
『音』が分からない。
部屋の物音や、両親の声、気にも留めない電子機器類のアラームの音。
さらには、イヤホンをしたときの漏れ伝わるような周囲の音も、何もかも
すべての音が……聞こえない。
あぁ、これが走馬灯というヤツなのだろうか。
もう、これで……
守は、この光景からゆっくりと離れて、闇に包まれていくのを感じた。
……い、少年よ……
無音の中から、『何か』が聞こえる。
聞こえるかのぅ。おぉい……
誰かの『声』がまた、聞こえた。
……僕のこと?
うまく口に出すことは出来なかったので、守は心の中でつぶやいてみた。
「おぉ! ヌシはワシの声が聞こえるのじゃな。ヨシヨシ……」
この老人のような『声』がハッキリと聞こえたとき、守は目が覚めた。
意識はちゃんとしているが……体の感覚が、まったくない。
しかも、周囲はぼんやりと白くかすんでいる。
なんだか濃い霧の中にいるようで、あまりよく見えなかった。
「ヨシヨシ。おヌシらの言の葉で説 (と)く前に、まず互いの名を交わすとするかのぅ」
周囲で謎の声が響くなか、守の目の前に真っ黒な竜巻のようなものが現れた。
それは渦を巻きながら次第に大きくなって、守を飲み込んでしまいそうな勢いがある。
その中に吸い込まれそうな感覚があった、その瞬間……
唐突にフッと回転が止まり、その渦が黒い霧となって周囲に散ってバラバラになっていく。
やがて、残ったその中心に『其れ』が見えた。
刃渡りは体の大きさと、ほぼ同じ。
鋭く光った大鎌を持ち、漆黒のフードつきのローブで全身の殺気めいたものを抑え込んでいる。
まさにそれは、冷徹という名の外套 (がいとう)をまとっているかのようだった。
さらに『其れ』は、周囲の大気を畏怖という振動で凍らせ、傷だらけの骸骨の顔は、絶望に満ちた灼熱の赤い目で鋭く光っている……ように見え……
んん?
えっと……
いや、これは見間違えた。
なぜだか、そのように錯覚してしまったようだ。
実際のところ『其れ』は、守の背丈の半分くらいの大きさで
やけに……丸々している?
大きさだけで、これほど見間違えるものだろうか?
しかも、骸骨なのに満面の笑みを浮かべているような表情に見える。
やはり……これも錯覚、なのだろうか?
イメージとはサイズも雰囲気もまるで違うけど、たぶん……
「えっと……もしかして『しにがみ』さま、でしょうか?」
守は思いきって、そう尋ねてみた。
「おぉ! よく知っておるのぅ。今は訳あってこんな姿じゃが、おヌシらの言葉を借りれば……『えすさいず』の『めたぼじぃじぃ』じゃ!」
え? なんだか妙にハイテンション……で
「それから何じゃったかのぅ……そうじゃ! 『ぎゃっぷもえ』じゃぁ!!」
それでもって、さらにはドヤ顔!?
守はそう思ったものの、この『死神』の声はとても耳に心地よく入ってきて、不思議と何の違和感もない。
そして何よりも、目の前の『死神』の姿に並外れた威圧感や恐怖感といった雰囲気が全くもって、ない。
どちらかと言えば……生き生きとしているようで、何だか楽しそう?
「あの……『ぎゃっぷもえ』かどうかは別として、はじめまして。僕の名前は『しきたに まもる』です。どうぞよろしく願いします」
守はそう言って頭を下げ、体の感覚はなかったものの一応、挨拶をしてみた。
「ヨシヨシ……では、これにおヌシの名を書いてみよ、『ふるねーむ』じゃぞぃ。ほれ、ワシが『手』を貸してやろうかのぅ」
死神はそう言うと、懐のあたりから小さい巻物のようなものを取り出して、それを持っている手のひらの上に置く。
すると、くるりと自然に伸びて拡がり、和紙のようなものと筆になって守の目の前に現れた。
もし冷静に考えられたのなら、こんな状況はあり得ないと思う。たぶん、驚いて逃げ出したに違いない。
でも、今は夢の中にいるような気がするし、全てがぼんやりとしていて、実感がない。
夢の中の出来事なら……まぁ、別に気にすることもないか。
守は筆を持とうと腕を伸ばそうとしたとき、両腕の感覚が戻ったような気がした。しかしながら、どうしても少しためらってしまう。
なぜなら、自分の胴体は見えないのに両腕だけが……浮かんでいる。
しかも骨だらけで、カタカタと関節がきしむ音まで聞こえているからだ。
しかし、守は自然と落ち着きを取り戻してから、筆を取った。
ゆっくりと慣れない手つきではあるが、左手で巻物のような紙を冷静に押さえつつ、名前を書いた。
そういえば筆書きで名前を書くこと自体、はじめてのことかもしれない。
「ヨシヨシ……それにしても、なんとヘタクソな字じゃのぅ。これでおヌシの『名』を預かったぞぃ」
ん? 名を預かるってどういうこと?
そう思った守の目の前で、名前が書かれた紙の部分が風にあおられたように、フワリと浮いた。その後ろで死神は、大鎌を幾度となく振りかざした。
すると、巻物に書いた名の墨の字の一部が花びらのようにヒラヒラと、落ちていく。
そして残った字が、くるりと反転したと思った瞬間、青色の炎と一緒に燃えてしまう。
即座に灰となってしまったそれは……消え落ちてしまった。
あっという間の出来事だったので守は、よく見ることが出来なかった。
その巻物はくるくると勝手に巻き戻りつつ、再び死神の手に収まっていった。
「ヨシヨシ、では確認といこうかのぅ……おヌシ、『名』はなんと言うたかのぅ?」
何だか、いたずらっぽい笑みを浮かべているような表情で、死神は言った。
え? さっき自己紹介はしたハズですよね?
それに、その巻物のようなものにも今さっき書きましたけど、僕の名前は……
えっと……あれ?
何だっけ??
~ひとつ~
その少年の名前、『志木谷 守』の『志』と『谷』の字は粉々に砕け散る。
ゆっくりと頭の中でイメージが浮かび
これまでの、妙な出来事のせいで動揺して……
あれ? さっきまで自分は、何をしていたのだろう。
~ふたつ~
『木』縦の棒と斜めのふたつが、引きちぎられて消え去る。
ボンヤリとしていたのが、だんだんハッキリと
~みっつ~
『守』うかんむりが、風に舞う帽子のように飛ばされていく。
スローモーションのように再現されて
ふたつの『字』が青白く燃えている。
そう……ん?
これだっけ?
頭の中で思い浮かび、口から出た『名』は
い……『一寸』 (いっすん)?!
「ヨシヨシ、おヌシの名は『一寸 (いっすん)』じゃ。『ナナシ』じゃなくてよかったのぅ」
死神は、満足げに大きく頷いている。
「さて次じゃ、まずは……ワシの友が居る場所へ『形 (ぎょう)』を受け取りに行くとするかのぅ」
黒いローブの懐の辺りをゴソゴソして、何かを取り出そうとしている。
「あの、その前に教えてください、死神さま。どうして僕は……ここにいるのでしょうか?」
彼はちょっと待って、というような感じで少し慌てながら、死神に尋ねた。
えっと、落ち着いて……まずは、落ち着こう。
どうも名前は一寸 (いっすん)であることは、間違いない。
と、いうか何だろう? 自分の名前なのに……妙にヘンな気がする。
それに、なぜ自分が『死神さま』と会話しているのか?
いや、そもそもここはドコ??
なぜか今頃になって、頭の中で次々と疑問符が……ちょっと混乱してきた。
「ワシと名を交わしたから、ちと抜けが出たかのぅ。ヨシヨシ、おヌシの問いに簡易に返すとするかのぅ」
死神は、懐に入れた手を戻してから大鎌の柄に両手を置いた。
その骨だらけの手の甲に骸骨のアゴをのせてから、真っすぐこちらを見る。
そして、彼に告げた。
「おヌシは死んだ。しかし、これは特別な『死に方』じゃ……ゆえに、本来は通り過ぎるだけのところである『黄泉 (よみ)』に今はとどまっておる」
死んだ……へぇ、そうなんだ……
いやいや、『へぇ』じゃなくて。そもそも、どうしてこう……
ん?
この状況に、納得している?
自分の思考自体が無意識に、そして勝手に抑えられているような気がする。
そして、パニックに似た感情や気持ちの高揚までもが、やんわりと自然に消えていくようだ。
冷静さ、とは違う。何だろう……
コップに注いだ牛乳の表面をしばらく見ていたら、のどの渇きが薄れていくよう……そんな気持ちと似ているかもしれない。
今までにない本当に……何とも言えない不思議な感覚だと、彼は思った。
【 続 】