『どうしてそうなる』
「エルンスト、早くして。さっさとしなさいよ、このグズ!」
「ほんと、ノロマねぇ。あんたなんか聖女様の慈悲がなければ、とっくに神殿から追い出されてるんですからね!」
神に仕える者とは到底考えられないような他者を見下しきった表情をした少女二人が、エルンストと呼ばれた少女に木桶と雑巾を押し付けた。
「は、はい…。申し訳ございません」
エルンストは、おどおどと俯きがちに辺りを見回す。総大理石の床に、真鍮の装飾が施された手すりがついた螺旋階段が両手に二階まで広がっている。
「分かってるわね?明日の晩使うんだから、朝までに綺麗にしておくのよ!」
「そうよ!なんせ、神託ですからね!」
二人の少女は肩を怒らせ大股に歩いて広間から出て行く。エルンストは少女たちを見送ると階段をせかせかと上り始めた。
(朝までに綺麗にするには相当急がないといけないわね。頑張らないと…)
階段を上がりきった少女は、突然足を大きく滑らせた。濡れてもいない、汚れてもいない、何もない所で。
「えっ?きゃっ!」
エルンストは足を大きく上げて尻餅をつき、手から離れた木桶がくるくる宙を舞い、彼女の額にゴツンとぶつかった。少女はそのまま後ろに倒れ、後頭部を床に強かにぶつけ目を閉じた。
(なんだか…いい香りがするわ…)
エルンストはズキズキと痛む額と後頭部を順にさすり、身体をおこした。そこには不思議な光景が広がっていた。
(すごいわ!こんなに美しい場所があるなんて…!)
草原がどこまでも続き、あちらこちらに溢れんばかりの花々が咲いている。夏にしか咲かない花も、寒い場所でしか咲かない花も関係なしに、ありとあらゆる花が美しく咲き乱れている。目の前を、ぼんやりと発光する蝶がひらひらと横切り、彼女を誘うかのように光を撒き散らして舞う。蝶を追いかけるように草原をゆっくり進むと、視線の先になだらかな丘が見えてきた。頭上には樹齢数千年はくだらないであろうと思われる大木が天に向かって真っ直ぐに伸びている。
(あれ…どこかで見たことがある樹だけれど…気のせいよね?根元に腰を下ろしている方…ものすごく…ある方に特徴が…これ、わたしの夢よね?わたし、今気絶でもしているのかしら…困ったわ…掃除に戻らなきゃ間に合わないわ…)
エルンストはたとえ夢であっても恐れ多いと理解しつつも、好奇心に負け歩を進めた。丘を登りきると、幹に背を預け、長い足を投げ出し樹の根元に腰を下ろした青年が片手で開いた本に目を落としていた。この世に二つとない白銀の髪が風になびき、伏せた瞳の色は間違いなく青銀。この組み合わせを持つたった一人の名をリユースでは子どもでも知っている。
「オルトヴィーン様…」
エルンストは歓喜にうち震え、両手を胸の前でぎゅっと握り締めた。オルトヴィーン、と呼ばれた青年は本を勢いよく閉じた。視線はそれからそらさぬまま。その様子を見た少女はハッとしたように慌てて跪き、顔を伏せた。
「遅い」
「も、申し訳ございません…」
地面に頭をこすりつけそうなほど平伏した少女に青年は呆れたように視線を向けた。
「違う。来るのが遅いと言っている。エルンスト、おまえ…子どもの頃から毎日俺と会話している事についてどう思っている?」
閉じた本が光とともに消え失せ、美しい青年に真っ直ぐに見つめられた少女は首を小さく傾げた。
「オルトヴィーン様は慈悲深い方だと…」
「どうしてそうなる」
青年は眉間をもんだ。
「え?わたしのような、取り柄のない役に立たぬような者にもお声をかけてくださって聖女様にまでお目ををかけて頂いていますし…オルトヴィーン様が聖女様にわたしの事を話してくださったのですよね?」
キラキラとした目で見上げられた青年は、目を細めて少女を見下ろす。
「エルンスト、おまえの素直な性根は得難い美徳だけれどな?度が過ぎるとただの阿呆だぞ?」
瞬く間に少女の目の前に現れた青年は、驚く少女の頭をやさしくなでた。
「オルトヴィーン様…?」
「神託というのは神から託る…という意味だぞ?」
そんな事分かっていますよ?と言いたげに首をひねる少女に青年は声を荒らげた。
「分かってないだろ!神と、話す者だけが聖女であり、聖人だ、と言っている!今代の聖女は誰だ!言ってみろ!」
怒鳴られた少女は身をすくませ、じりじりと後ずさり青年から距離をとった。
「おい。なぜ逃げる」
「オルトヴィーン様怖いです…。声は大きいし身体も大きいし顔も怖いし…」
小さく震えて目に涙をためた少女に見上げられ、今度は色々と衝撃を受けた青年がよろりと後ずさった。
(怒鳴ったのは確かに悪かったが…身体が大きいって…そこまでじゃないだろ?リユース男性の平均くらいだよな?それに顔が怖いって…そんな事生まれて初めて言われたわ…俺そんなオーガのような形相してたか?)
青年が心の中でショックを受けていた頃、少女は黙り込んだ青年を見て青褪めた。
(わたしってば何て失礼な事を…直接お会いしてお言葉を賜るだけで誉れとするべき事なのに…かの方があんまり気安くていらっしゃるから、いつの間にか友達か何かのような気に…わたしったら!)
向かい合って無言で青褪める二人。その間をひらひらと蝶が横切っていく。
「あ、あー、大きな声を出したのは悪かった。もう二度と怒鳴ったりしないからそんなに怖がるな。さすがに傷つく」
髪をかきあげ、眉を下げた青年は真っ直ぐに少女を見つめて、手を伸ばした。少女は伸ばされた手と青年の顔を交互に見、おそるおそる手を伸ばした。青年は少女の小さな手を掴むときびすを返し樹の元へゆっくりと歩を進めた。
「エルンスト、あの女は聖女ではない」
少女はポカンと口を開けて青年を見上げた。
「え?でも、聖女様は何度も神託を…さっきだって掃除を…」
青年はため息をついて、ゆるく頭をふる。
「今代に代替わりしてから神託は一度も出していない」
それどころじゃなかったしな…だが今はいい時期だ。あいつらに負担がかかるのだけが申し訳ないが。自嘲気味に呟かれたその言葉に、エルンストは何を言っているか分からない、という顔をして青年を見つめている。そんな少女を見て、ふっと口角を上げた青年は頭をやさしくなでながら続けた。
「あの女に声をかけた事など一度もない。俺が話しているのはおまえだけだ。この意味が分かるな?」
エルンストは理解すると顔を真っ赤にして憤慨した。
「聖女を騙るなど!神をも畏れぬ所業!赦せません!!」
「そっちか。違うだろ。あんなのは放っといていい。神を騙ったんだ。それなりの罰がくだるさ」
落ち着け、と青年が少女の頭に手を乗せると途端に心が落ち着いていく。
「オルトヴィーン様…」
少女が取り乱したのが恥ずかしいのか、もじもじと俯いた。
「頃合だな…」
「?」
「もうすぐおまえは目覚めるだろう。その場に現れた者とともにゆけ。神殿を正しく導き世界を救え、エルンスト、今代の聖女よ」
「!!」
エルンストは冷たい大理石の床からがばりと身を起こした。
「オルトヴィーン様!!」
「うわっ!」
「えっ?」
「びっくりした~。こんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ~?気をつけてね~?」
エルンストの傍にしゃがみこんでいた少年は、床に倒れた彼女の様子をうかがっていたようで、彼女が目覚めるとすばやく立ち上がってきびすを返した。風邪よりも先に気にするところが色々あるように思うが、どうやら心配して様子を見ていてくれたようだから善人なのだろう。気にかけるところが若干…いや、かなりズレているようだが。
「あ、待って!待ってください!」
エルンストは少年にかけより、両手で腕を掴んで引き止めた。神託を思い返しながら。
「ん?」
少年は、人のよさそうな笑みを絶やさぬまま、ゆっくり振り返って首を傾げた。
「あ、あの…わたし、今代の…聖女です。ご一緒させていただけませんか」
少年は一瞬怪訝そうな顔をするもすぐに取り繕い、にこやかに口を開いた。
「聖女?」
「あ、わたしなんか聖女に見えないですよね…あの、でも本当なんです!わたしも今知ったばかりなんですけど…」
泣きそうになりながら訴えると、少年は頭をかいてエルンストに向かいあう。
「いや、そういうことじゃなくて~聖女さま?オレのこと知ってるの?オレ、今逃亡中だから一緒に来たら危ないと思うよ~?」
にこにこしながらさらりと口にした言葉にエルンストはぴくりと固まった。
(逃亡中…?)
おそるおそる目を合わせると、少年は殊更ににっこりと微笑んだ。
(オ、オルトヴィーン様が危険な人に連いて行けなんて言うはずがないわ!大丈夫!エルンスト!しっかりするのよ!)
「神託なんです!オルトヴィーン様が目が覚めた時にいた人に連いていけっておっしゃったんです!だから、わたし、あなたと一緒に行かないと!」
「…………」
「あ、の…?」
黙り込んだ少年をうかがうと、少年はあぁ、と手を伸ばした。
「オレはイチ。召喚された異世界人の一人だよ~って言って分かる?よろしくね~」
「異世界の方でしたか!申し遅れました!わたしエルンストっていいます!エルって呼んでください!」
ハイデルアルン王国セルシアーナ王宮神事の大広間で邂逅する二人の少年少女に、追う者達の喧騒が近付く。