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極私的俳句論  super private haiku poem theory その14     「俳句の極致は大いなる平凡にあり。」

作者: 舜風人

俳句の極致は大いなる平凡にあり。


それこそ俳句の奥義なのではないでしょうか。


だって


奇を衒ったいわゆる「新興俳句」


シュールすぎて訳が分からない『前衛俳句」


流行語やカタカナ語ばっかりの「現代俳句」




もう こういうのにはいいかげん、うんざりでしょう?


結局俳句が


というか短歌も含めて


日本の詩文芸が帰一するべき着地点は


「大いなる平凡」しかないでしょう?


それは言葉を変えて言えば


原日本の


一見ありきたりの日常風景であり、、


どこにでも転がってる民族心性の風景であり



つまり作為の無さですよ。


平凡の向こうの超平凡ですよ。



そういう日本の原風景


というか日本人の原心象風景


それこそ


日本の詩文芸(和歌、俳句)の原典でしょ。


ところで?


今、実はこの日本のどこにも


「原日本」なんてありませんよね。


まして「日本の原風景」なんて皆無です。



ですからたとえば、、俳句でこうした原風景をうたうとなれば



それはもう、、作為の果てのフィクションですよ。


日本の原点に返る


日本の原風景をうたう


これはもうありえないものをうたうのですから


フィクションです。


ただ、、


そのフィクションを、、作為の跡を見せずにどう歌えるのか。


それがすべてといってもいいでしょうね。



まさに無作為の作為です。



そうして


それこそが






「大いなる平凡」(超越平凡)への通じる



唯一の道でもあるんでしょうね。



例えは悪いですがそういう俳句とは



まるで


人のよさそうなおじいさんが小春日和の縁側で


うとうとと昼寝しているような、、、



そんな雰囲気の俳句なんでしょうね。


そこには何の気取りもなくて



何の作為もなくて



自然で


そして平凡で


それこそ俳句の原点だと私は思うのです。



ですが、、


裏をかえせば、、



こういう俳句を今この現代で作るというのは


それこそ至難の業でもあるわけですよ。


如何に自然らしく読むか


如何に作為を感じさせないか


それはもう


よほどの練達の師でなければ


達しえない境地


巧みの極でもあるのですからね。


ということは、、


相当訓練して


日々鍛錬しなければ作れないということです。



見え見えでいかにも「作り上げました」というよな


俳句ではだめですよね。


作為の跡を見せてはダメなのです


例え裏でいくら作為を弄していたとしてもね。




それはまたしても、例えで恐縮ですが、、、




湖面を優雅に泳ぐ白鳥も水面下ではバタバタと忙しく


足を動かしてるのとおんなじということでしょうか?



俳句作りも同様に


作句でどんなに苦心惨憺して作っていても


そのわざとらしさを、、あるいはその作為を


決して


出来上がった作品上には


痕跡も残してはいけませんよ、、ということです。



出来上がった作品は


まるで無作為の極地で



自然のままに作られたかのように、、、


わざとらしさや気取りやら


受け狙いではない


超自然体


こしらえもの、、でない。


からくりの手の内が透けてみるような、、


いやらしさのない、、貼り合わせでない、


そういう、、つまり、、超平凡さの極致、





『ただ見れば、何の苦もなき白鳥の 足に暇無き、我が思ひかな』


                            道歌



大いなる平凡であること



そんな俳句こそ至高の俳句なのです。



そういう俳句は

一見するとあまりにも「平凡」なので


「こんなの俺にも作れそうな平凡な句だなあ」、


と、、誰もが思うような俳句なのですね。


でも



じゃあ



お前作ってみろよ



といわれると


決してできない、、


大いなる平凡さは


ただの平凡さのように決してまねできないからなのですね。




またまたたとえで恐縮ですが、、


そこらの児童が書いた児童画の稚拙さと


たとえばあの日曜画家アンリルソーの素朴画とは


全く違うでしょ?



作為の無いルソーの素朴画は


おそらく苦心惨憺の末に


出来た物であり


その裏には、苦心の作為をどう見せないように素朴さを出すかという


血のにじむ努力があったと推察しますが。


大学を出た高度の学者である宮沢賢治が


さて「デクノボー」になるというのが


どんなに苦心したか


まあ


例えは悪いですが、、



そこにも通じるところがあるのではないでしょうか?



俳句はあくまでも無作為に



超平凡に


超自然らしく


そうして


そこに至る過程の


推敲や

苦心や

煩悶の跡を


気取られたら?


つまり


技巧を見破られたら、、そこで、アウトです。









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