目覚め
1
寒気とは。
風邪をひいて、薄暗い部屋のなかで布団に巻きついているときに寒気を感じることがあるだろう。
枕元に栄養剤を置いて、ゴホゴホと咳こんでいるとき、ああ、肌寒いなあ、と腕をさするかもしれない。
あるいは、高校生の数学の授業を思い浮かべてほしい。
その日は課題の提出日。教科書の問題を数十問解いて提出しなければない日があるとする。
そんなことをすっかり忘れ、いつも通り号令のあとの授業が始まるのを待っていると、
「じゃあ、授業のはじめに課題を集めるぞ。」
なんて先生が言うのだ。
まわりのひとがテキパキと課題を先生に渡しに行く様をみて、寒気を感じるかもしれない。
吉田は寒気がした。
人通りの少ない住宅路は、点滅する蛍光灯に照らされていた。
家の塀と電信柱に挟まれて、猫は静かに横たわっている。
ばちばち、ばちばち、と蛍光灯は唸る。
うざったく、小汚い虫たちは少ない光をもとめ蛍光灯に集まるが、ばちばち、ばちばち、という音を怖がっているのか、離れたりくっついたりを繰り返す。
一定のリズムで刻まれるその光は、猫の鮮血を輝かせる。
鮮血というのは、あまり赤く、美しいものではない。
漫画やアニメのような、真っ赤で生き生きとした色ではない。
黒だった。
猫は真っ黒い血を流し続ける。
吉田は猫の前に立ち続ける。
自分が正常ではないことに、吉田は気づき始めていた。
なぜ、猫は自分の前で死んでいるだろう。
なぜ、自分は猫の死体の前で平気でいられるのだろう。
雑巾をしぼったような猫の死体は、よほどグロテスクが好きな人、夜中にテレビだけつけてグロテスクな映画を見てへらへら笑える人以外は、とてもじゃないが、まじまじと観察できるわけがない。
住宅路はとても静かだ。
吉田の心は、落ちていく。
ゆっくりと、黒いところへ落ちていく。
渦を巻いて、とぐろを巻いて、落ちていく。
黒に染まっていく。
口元がゆるみ、しかし身体は硬直する。
口角があがり、とてもとても汚い笑顔を作り上げた。
彼の顔はみるみる生気を失い、青白くなる。
また、彼の瞳は赤黒く染まっていく。
瞳はどんどん変色し、やがて猫の鮮血のような色へなる。
呼吸が荒くなり、ヨダレがしたたる。
身体の寒気はとまらないが、汗がにじみ出始める。
頭はぼーっとし、瞼が痙攣する。
遠くのほう、ちょうど吉田の50m先をバイクが走り抜けた。
ブブブと低い重低音が吉田の耳に届いたとき、彼の身体の硬直が解かれた。
吉田は笑みをかき消した。
顔に生気がもどり、瞳も元に戻りかける。
途端に吉田は走り出した。
うぅ、と唸り声をあげて、住宅路を全力で駆け抜けた。
足はもつれなかった。頭のなかは冷静に混乱していた。
彼は走った。
怖かった。
彼が人間ではなくなるような気がしたからただ。
目から涙が飛び散った。
鼻水が滝のように溢れた。
彼は吠えた。
大きな声で吠えた。
「僕じゃない。」
静寂が訪れた猫の死体のまえに、中学生の男の子が現れた。
部活中に熱中症でぶっ倒れるほどの暑いここ一週間のためか、中学生は赤いTシャツに短パンを着て、サンダルを履いていた。
彼は困ったような表情を見せ、猫の死体を顔に近づけて言った。
「君だよ。」