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俺は三角形

覚えておいてほしいこと - 『俺は三角形』短編 -

作者: 森 高陽
掲載日:2026/10/16

「すずちゃん。こないだ図書館の前で一緒にいた男の子、彼氏?」

 来栖先輩がそう切り出したとき、私はちょうど、紅茶に口をつけようとしていた。

 カップを持ったまま目を上げると、紺野先輩まで、待ってましたという顔をしていた。


「違いますよ」

「じゃあ、これから?」

「いえ。お付き合いしてほしいって言われたんですけど、お断りしました」

「あら」

 来栖先輩のフォークが止まった。

「どこが気に入らなかったの。遠目で見る限りは、割とイケメンじゃなかった?」

「周りの子たちから、そういう声はありますね」


 大学に入って、半年が過ぎた。

 合気道部の二人の先輩と、駅前の喫茶店へ来ている。向かいに座っている紺野先輩は二年生、来栖先輩は三年生だ。二人でいると、どちらかが何か言い、もう一人がすかさず言葉を返す。私が返事を探す前に話が進んで、気づけば三人で笑っていることもある。

 今日は昇級・昇段審査の帰りだった。

 紺野先輩は初段に、私は一つ上の級に合格した。

 足元には、着替えた道着の入った鞄が三つ。テーブルには、ケーキが三つ。来栖先輩は審査を受けていないけれど、ケーキの大きさは私たちと同じだった。なんならクリームの上に乗っている栗の分だけ、少し背が高い気もする。


「同じ授業の人なんです。何度か話して、みんなでお昼を食べたりして」

「うん」

「そうしたら、今度は二人で出かけようって。私は、もう少しお話ししてからがいいって言ったんですけど」

 私はカップを皿へ戻した。

「付き合ってみれば、もっと分かるからって」

「ああー」

 来栖先輩と紺野先輩の声が重なった。

「いるわね、そういう人」と紺野先輩が言い、来栖先輩が「知りたい速さが、違ったのね」と引き取った。

「そうですね」

 悪い人とは思わなかった。話をしていて笑ったこともある。

 ただ、その一回で、相手の中ではずいぶん仲よくなったことになっていたらしい。次に会うと、前より近くへ来た。

 断ると、彼はしばらく黙り、最後には分かったと言った。

 ほっとした。次に会ったときにまた誘われるかもしれない、と考えなくてよくなった。

「好きな人がいるって、適当に言えばよかったのに」と紺野先輩が言った。

「いないので」

「そういう嘘はつかないのね、すずちゃんは」

「だって、その架空の人の設定を考えなきゃいけなくなるじゃないですか」

 紺野先輩は笑って、ケーキの尖ったところを小さく切った。

「たしかに。まあ、ちゃんと断れたなら、それでいいか」

「はい」

 私もフォークを取った。これで私の話は、無事に終わりそうだった。


「いいなあ。私なんか、告白もされてないのに、もう疲れてる」

 来栖先輩が言った。

 紺野先輩と私が、同時に顔を上げた。

「それ袴田さん?」と紺野先輩。

「ほかにいる?」

「ほかにもいるなら、そっちから聞きますけど」

「いないわよ。一人で十分お腹いっぱい」

 来栖先輩は、自分で言って笑った。

 袴田先輩も、うちの部の人だ。来栖先輩とは一緒に帰ることが多い。付き合っているのかと思っていたけれど、先輩は、そうじゃないと言う。

「この前ね、映画の話をしてたの。私が面白かったって言ったら、あれは監督の前の作品を見てないと本当の意味では分からない、から始まって」

「見てなかったんですか」

「ううん。見てた」

 紺野先輩が、ああ、と言った。

「でもね、前の映画と同じ場所で電話が鳴ってた、みたいな話されて。私、それには気づいてなかったの。だから聞いたときは素直に、へえって思ったわ。もう一回見たくなったし」

「そこまでは、いい話ですね」

「そこまではね。でも、そのあともずーっと解説されて。私がどこを面白いと思ったか話す前に、駅に着いちゃった」

「改札の前で、エンドロールですね」

 私が言うと、紺野先輩が吹き出し、慌てて口元を押さえた。


 たしかに、袴田先輩にはそういうところがあるかもしれない。知っていることを全部話そうとする。私が途中からそばへ行くと、言いかけていたことをやめ、少し難しい言葉に言い直したりする。ひとつ前の言い方のほうが、分かりやすかったのだけれど。

 もっと普通に話せばいいのにな、と思う。それくらいの感想で済むのは、私が袴田先輩と二人で駅まで歩きたいわけではないからかもしれなかった。

「教えてくれるのが、嫌ってわけじゃないんですよね」

「まあね。好きな話をしてるときは、ほんとに面白いのよ。こっちの顔なんか忘れて、自分で笑っちゃってるときとか。ああいう顔で、ずっと喋ってくれればいいのに」

 来栖先輩はクリームを少しすくった。

「目のつけどころが違う、みたいに思ってほしいんだろうなあって。だけど、こっちにそう思わせた時点で、もう残念な感じよね。ちょっと鬱陶しかったかも、って思ったり」

「本人には言ったんですか?」と紺野先輩が訊いた。

「言ってない。ちょっと言いにくい」

「それって先輩が引き受けなきゃいけない係でもないですよね」

 私が言うと、先輩のフォークが止まった。

「先輩が言ってあげたいなら、それでもいいと思います。何かが変わるかもしれませんし。だけど……」

 来栖先輩が少し疲れているのは、いまのことだった。

「先輩がそれまで待ってなくてもいいと、私は思います」


 来栖先輩は、紺野先輩を見た。

「ねえ、紺野。すずちゃんの踏み込みって、たまに師範代を思わせるわね」

「受け身、間に合いませんね」

 紺野先輩もうなずいた。

「二人とも、何の話ですか」

「ううん、頼もしいなって話」

 来栖先輩はくすっと笑い、しばらく皿を見ていた。

「恋にも、賞味期限ってあるのかな」

「切れてくれたら、助かることもあるけどね」

 紺野先輩が言った。

 そちらを見ると、先輩は切ったケーキを口へ運んだ。

「でも、切れたのかどうか確かめるために、また会いたくなるのよね」

 来栖先輩が肩を落とした。

「もう一口だけ、まだいけるかも、って」

「それより、目の前のケーキを食べることにしませんか」

 私が言うと、二人とも笑った。

「そうね。せっかくのお祝いだし」

「そうだね。紺野、初段おめでとう。すずちゃんも」

 来栖先輩がカップを持ち上げた。私と紺野先輩も持ち上げた。カップは薄かったので、音を立てないくらいの近さで、高さだけそろえた。


  ※


「榊先生、すずちゃんのこと覚えてたね」

 来栖先輩が言った。

 今日、審査に来てくださった榊先生は、私が小学生のころに通った道場の先生だった。

「はい。びっくりしました」

「六年ぶりだ、って。私、すずちゃんの背筋がぴんって伸びるの、後ろから見ちゃった」

「もともと伸ばしてました」

「そうね。そこからもう一段、伸びてたわよ」

 先輩は笑い、コーヒーを飲んだ。


 その道場に三年通って、引っ越して辞めた。中学と高校では、合気道から離れていた。でも大学に入ったとき、またやろうと思った。

 この部を選んだのは、昔、一緒に稽古をした八雲さんが、ここで教えていると知ったからだ。

「ねえ、すずちゃん」

 紺野先輩が少し身を乗り出した。

「前から聞こうと思ってたんだけど。昔の八雲さんって、どんなだったの?」


 八雲さんは、部でいちばん強い。

 大柄な先輩が力を込めて掴んでも、動かされるのは掴んだ方で、気づくと畳の上にいる。見ていても、組んでみても、何をされたのかよく分からない。それなのに教わるときは、足をもう少しこちらへ、という、とても小さな話になる。

 そして、あまり喋らない。足の位置を直してもらったあと、そこで待っていても、説明が始まるとは限らない。


「あまり、変わらないです」

「あ、やっぱり?」

「はい。あのころも、あまり喋らなかったですし」

「子供にも?」

「でも、ちゃんと教えてくれましたよ。足が違ったら、違うって」

「今と同じね」

 紺野先輩は、納得したようにうなずいた。

「子供の稽古にも来てたの?」

「はい。手伝いに。大人の稽古は、そのあとだったんです。私は母のお迎えを待ちながら、よく見てました」

「八雲さんの稽古を?」

「八雲さんと、雪乃さんっていう大学生のお姉さんがいたので。雪乃さんの稽古を見るのが、好きでした」


 初めて道場へ連れていかれた日、私は入口で靴を脱いでいた。

 母が受付で話しているあいだに、畳の上で、人が一人、宙を回った。

 白い道着と黒い袴。足が高く上がったと思ったら、ぱん、と音がして、その人はもう立っていた。

 女の人。それが雪乃さんだった。

 髪を結び直し、すぐ相手のところへ戻っていく。少しも痛そうではなく、むしろ、もう一度やりたそうだった。

 私は片方の靴を脱いだところで止まっていた。

 その日は見学だけだった。帰りに、その人が入口まで来てくれた。

「次は、一緒にやってみる?」

「さっきの、やりたい」

 雪乃さんは畳の方を振り返った。

「さっきの?」

「うん。お姉さんの、飛んで回るやつ」

「その前に、転がるのからね」

 母が横で笑った。

 私は雪乃さんの顔を見た。転がるだけで終わりだったら、困る。

「転がれるようになったら?」

「起き上がるの」

「そのあとは?」

「忙しいなあ、すずちゃんは」

 雪乃さんは膝を折って、私と目の高さを合わせた。

「順番にやろう。ちゃんと、先があるから」


 次の土曜に、私は道着を着た。

 初めての前回りは、思っていたより横へ行った。

 起き上がると、雪乃さんが少し場所を移して、こっちへ来て、と手招きをしていた。


「……雪乃さん、動きがきれいだったんです」

 私は言った。

「投げても、投げられても。その人の稽古を見てると、早く自分もやりたくなりました」

「へえ」

「子供の稽古も、よく手伝ってくれて。八雲さんと、その人とで組むことも多かったです」

「同じくらい強かったの?」と来栖先輩が訊いた。

「それは八雲さんの方が強かったと思います。でも、その人も上手でした」

 私は少し考えた。

「八雲さんも、その人が相手だと、なんとなく稽古が長い気がしたり」

「もともと長いでしょ、あの人。私だって捕まったことあるわよ」

 紺野先輩が、少し早口になった。

「すずちゃんに文句言うところじゃないでしょ。捕まるのは紺野が、つま先の向きとか、細かい質問するからよ」

「文句じゃないですよ」

「じゃあ、何」

「事実として、もともと長いっていう話」

「はい。それは、もともと長かったです」

 私がうなずくと、紺野先輩は少し安心したようだった。

 来栖先輩が、笑うのをこらえるように唇を結んだ。


 昔の道場でも、ほかの大人たちが帯を解き始めるころになっても、二人だけがまだ組んでいた。

 八雲さんの手が、雪乃さんの手首を取る。雪乃さんが踏み込み、身体を返す。投げて、起き上がって、また向かい合う。

「もう一回?」

 八雲さんがうなずく。

 もう一回やっても、私には前と何が違ったのか分からなかった。

 雪乃さんが首を傾げると、八雲さんは自分の足元を指して、何か言う。二人でそこを見て、ゆっくり動く。

 途中で止まって、戻って、もう一度、初めから。

 私は水筒を両手に持ったまま、入口の方を、ときどき見た。

 母が来たら帰らなくてはいけない。来なければ、もう少し見ていられる。


「もしかして、その雪乃さん、八雲さんが好きだったんじゃない?」

 来栖先輩が訊いた。

「そうだったと思います」

「本人に聞いた?」

「聞きました。はぐらかされちゃいましたけど」


 ある土曜、雪乃さんが、私のほどけた帯を結び直してくれた。

 まだ自分で、ちょうどいい長さに結べなかったころだ。

「雪乃さんって、八雲さんが好きなの?」

「ふふ。好きだよ。すずちゃんも、八雲さんのこと好きでしょう?」

「うん。でも」

「はい。できた」

 帯の両端が、同じ長さになった。

 雪乃さんはいつもの顔で、次は自分でやってみようね、と言った。

 でも、の続きを、私は言えなかった。

 自分が訊きたかったのは違うことなのに、どこが違うかを説明すると、こちらの方が恥ずかしくなりそうだった。


「そのあと、どうなったの?」

 来栖先輩が訊いた。紺野先輩は黙って、私を見ていた。

「分からないんです。その人、留学しちゃったので。私も、次の年に引っ越したんです」

「そうなんだ」

「言葉を勉強しに行くって言ってました。ずっと行きたかったところに、行けることになったって」


 雪乃さんは嬉しそうに話した。それで私は、初め、よかったねと言った。

 だけど、あとになって、しばらく道場へは来ないという意味だと分かった。

「いつ帰ってくるの」

「まだ、ちゃんとは決まってないの。向こうで、もう少し勉強を続けるかもしれないから」

「夏休みも?」

「うん。今度の夏休みは、向こうにいる予定。行ったり来たりするのも、お金がかかるからね」

 春が来るところだった。小学五年生が、もうすぐ終わる。

 次の夏休みには会えない。その先にも、土曜日がいくつもある。

 さみしさが込み上げた。足の指を曲げ、意味もなく畳を押した。


「最後に、一緒に技をやったんです」

 私は先輩たちに言った。

「私からお願いして。もう、しばらくできないから」


 私はお店の窓の外へ目をやった。

 バスが停まり、開いたドアから、小さな女の子が母親の手を引いて降りてくるところだった。

 それを見ながら言った。

「思い出すなあ」


  ※


 少年の部の稽古が終わっても、私は水筒を取りに行かなかった。

 雪乃さんは、畳の端に座っていた男の子の帯を結んでいた。その横で待った。男の子が礼をして走っていくと、雪乃さんが顔を上げた。

「どうしたの?」

「私と、技をやってください」

「うん。やろう」

 雪乃さんはすぐに立った。

「何をやる?」

「四方投げ」

「私が受け?」

「うん」

 私が投げる方で、雪乃さんに受けてもらいたかった。

 雪乃さんは、もうすぐ外国へ行く。次の土曜には会えない。いつもみたいに手を振って帰る前に、もう少しだけ、一緒にやりたいことがあった。


 一般の稽古が始まるまで、まだ少し時間があった。

 着替えに行く子も、入口で親を待っている子もいる。次の時間の人たちが、鞄を抱えて上がってくる。

 私たちは、空いていた畳の隅で向かい合った。

「お願いします」

「お願いします」

 雪乃さんの手が、私の手首を取った。

 足を出す。取られた手を上げ、身体ごと向きを変える。雪乃さんがついてくる。最後に手を下ろすと、雪乃さんは膝を折り、背中を畳へ返した。

 掌が鳴った。

 その手を離してから、元の位置へ戻った。

「今の、足、よかったよ」

 雪乃さんが立った。

「前みたいに、途中で止まらなかった」

「うん。直したの」

「分かった」

 左でもやった。こちらは回る途中で肩に力が入った。

 雪乃さんが、私の肩を指で軽く叩いた。

「ここ」

「あ」

 肩を落とすと、詰まっていた腕が動いた。

「そう。それでもう一回」

 右と左を二度ずつやるつもりだった。

 それなのに、左をやり直したあと、雪乃さんの方が、もう一回やろうと言った。

 私はうなずき、今度は自分から手を出した。


 雪乃さんが倒れてくれることと、私がうまくできたことの違いは、少しずつ分かるようになっていた。

 手だけ先へ行ってしまうと、雪乃さんが待ってくれる。うまくいくと、二人とも途中で待たなくていい。私が歩くところへ、雪乃さんも歩いてきて、その続きで畳が鳴る。

 今のは、よかった。

 そう思って顔を上げると、雪乃さんも笑っていた。

「もう一つ、やる?」

「呼吸投げ」

「はい」

 雪乃さんの袴の裾が、目の前を大きく回った。

 ぱん、と音がする。その音が嬉しかった。

 起き上がるのを待ち、もう一度、手を差し出した。


 少し離れたところで、八雲さんが二人を見ていた。

 私は最後の礼をしてから、そちらへ歩いていった。

「八雲さん」

「何だ」

「雪乃さんと、やってください」

 八雲さんは雪乃さんの方を見た。雪乃さんは、まだ息を弾ませていた。

「私ばっかり?」

「二人の、見たい」

「だって」

 雪乃さんが言うと、八雲さんはうなずいた。

 私は畳の縁に正座した。


 二人が礼をする。雪乃さんが手を取りにいく。

 八雲さんが一歩動いた。そのあと、雪乃さんの足が畳を離れた。

 初めて見た日と同じように、袴が広がった。けれど今は、飛ぶ前の足も見ていた。八雲さんが向きを変えるとき、雪乃さんはもう、自分の身体を運ぶ方へ足を踏み出していた。

 受け身を取り、起き上がる。間を置かず、また組む。

 取りと受けが替わった。

 雪乃さんが八雲さんの腕の下を通り、背を向ける。私がさっきやった四方投げだった。

 大人の八雲さんが、すっと低くなった。

 私は膝の上で指を曲げた。さっき手首を取られた感触が、まだあった。

 二人の礼が終わると、私も頭を下げた。

「ありがとうございました」

 雪乃さんが息を吐き、私の前へ来た。

「どうだった?」

「よかった」

「どのへんが?」

 たくさんあった。足の出るところ。腕を下ろすところ。起き上がって、すぐ次に行くところ。

 全部言おうとしたら、一つも出てこなかった。


「……私も、あんなふうにやりたい」

 ようやく、それだけ言った。

 雪乃さんは笑った。それから、私の前で膝をついた。

「今日はありがとう」

「私も」

「すずちゃんから、一緒にやろうって言ってもらえて、嬉しかった」

 腕が、背中へ回った。

 頬に道着が触れた。洗剤と、稽古のあとの汗の匂いがした。

 私も腕を回した。袴の帯の上あたりで、両手が届いた。


 雪乃さんの息が、耳のそばで少し乱れた。

 顔を上げると、雪乃さんは笑いながら、目の下を拭った。

「やだな。泣くつもりじゃないんだけど」

 それを聞いたら、私も泣いてしまった。

 さっきまで、次の技を何にするか考えていた。もっと上手にできるところを見せたかった。

 次の土曜に来ても、雪乃さんはいない。

 そう思うと、いま離したばかりの道着を、もう一度つかんでいた。

「すずちゃん、上手になったね」

 雪乃さんが言った。

 私はうなずいた。返事をしようとしたが、変な声になった。

 雪乃さんは背中を撫でてくれた。

 入口から、私を呼ぶ母の声がした。

 すぐには離れられなかった。雪乃さんも、すぐに腕をほどかなかった。


  ※


 それで最後にするつもりだった。

 けれど、週が明けると、もう一度だけ会いたくなった。

 雪乃さんが出発するまでに、一般の稽古はまだ一日あった。土曜に大人たちが、今度が最後ですね、と話していた。

 母に、そこへ連れていってほしいと頼んだ。

「その日は、子供のお稽古はないんでしょう?」

「見るだけ。雪乃さんに、会いたいの」

「お母さんの仕事が終わってからになるよ」

 私はうなずいた。

 その日、母が仕事から戻ったのは、いつもより遅くなってからだった。

 私は玄関に鞄を置いて待っていた。道着は入っていない。雪乃さんに何か渡そうかと考えたが、何がいいか決められなかった。

「お母さん、間に合わないよ」

「ごめん。すぐ出よう」

 車の中でも、時計を何度も見た。

 赤信号のたびに、前の車のテールランプが大きくなる。青になっても、すぐには動かない。

「もう、終わっちゃう」

「終わっても、お着替えがあるでしょう。間に合うといいけど」

 母は前を見たまま言った。

 雪乃さんは着替えるのが早かった。それから、みんなと話す。今日は少し長く話していてほしかった。

 道場の窓には、まだ明かりがあった。

 駐車場へ車が入ると、私は鞄を膝へ寄せた。

「行ってくる」

「ここで待ってるからね」

 車が止まるのを待って降り、入口まで走った。

 玄関の靴は、もうほとんどなくなっていた。畳を打つ音もしない。


 私は靴を脱ぎかけ、奥を見た。

 稽古場の戸が、半分ほど開いていた。

 その向こうに、雪乃さんがいた。

 八雲さんと、抱き合っていた。

 雪乃さんの顔は、八雲さんの肩に隠れていた。両腕が、その背中へ回っている。

 八雲さんも、雪乃さんを抱いていた。片方の手が背中の上の方にあり、もう片方の腕が、その下を支えていた。

 二人とも、動かなかった。

 私は入口の柱へ手を添えた。

 声をかけようとしていた口を、閉じた。

 見てはいけないものを見た気がした。

 怖いものではなかった。それなのに、足を動かす音まで聞かれてはいけないと思った。

 帯を結んでもらった日の、雪乃さんの顔を思い出した。

 好きだよ。すずちゃんも、八雲さんのこと好きでしょう。

 いつもと同じ顔で、いつもと同じ声だった。

 大人になると、好きな人の話をしているときに、あんなふうに何でもない顔ができるようになるのだろうか。

 足を引いた。脱ぎかけていた靴の踵を直した。

 もう一度、覗くことはしなかった。

 外へ出ると、夜の空気が頬に当たった。

 母の車は、さっきと同じ場所にあった。歩いていくと、中からドアのロックが外れる音がした。


「会えた?」

 私は助手席へ座った。

「ううん。会えなかった」

「そう……」

 母は少し身を起こし、フロントガラスの向こうを見た。

 私はシートベルトを引いた。

「帰ろう」

 車が動き出した。

 私は窓の外を見ていた。

 もっと早く着いていたら、雪乃さんをつかまえて、長く話していたかもしれない。八雲さんが横にいても、帰る時間まで、そばを離れなかったかもしれない。

 二人の最後の時間に、割り込まなくてよかった。

「ごめんね。お母さんが遅くなったせいで、最後に会えなかったね」

 母が言った。

 私は窓から顔を戻した。

 謝ってもらうことではなかった。けれど、遅くなってよかったとは言えない。行きには、何度も急かしたのだ。

 なぜ、もういいのか、母に分かるような理由がほしかった。

「ううん、やっぱりいいの」

 膝の上で、鞄の持ち手をそろえた。

「私は、一緒に技をやったから。それが、雪乃さんに覚えておいてほしい、一番のことだから」

 言ってから、土曜の畳が浮かんだ。

 四方投げの右と左。雪乃さんが倒れる音。起き上がって、もう一回やろうと言ってくれた顔。


 あの日の私を、覚えていてもらえたら。


 母を納得させるために、いま考えた理由だった。

 けれど、口に出したあと、その言葉は胸の中へ、すっと収まった。

「そっか。いい稽古ができたんだね」

「うん」

 今度は、すぐに答えられた。

 母はうなずき、前の車が動き出すのを待った。

 私は鞄の持ち手から手を離した。次の土曜も、あの道場へ行く。そのときには、雪乃さんはもう外国にいる。

 窓の外を、明かりのついた店が一軒ずつ通り過ぎていった。


  ※


「……すずちゃん?」

 顔を戻すと、来栖先輩も紺野先輩も、こちらを見ていた。

 来栖先輩のフォークには、クリームが少しついたままだった。

「……どうかしました?」

 私は言った。昔のことを思い出して、ぼーっとしていたみたいだ。

「ううん。横顔、きれいだなあと思って」

「来栖先輩」

「私も見てた。なんか、いい映画のあとみたいな顔してたわよ」

「紺野先輩まで」

 私は恥ずかしくなって、笑ってしまった。

 紅茶を飲もうとして、カップを持ち上げた。それでも二人が見ているので、飲む前にまた笑った。

「すごく飲みにくいです」

「ごめんごめん。飲んでいいわよ」

「許可するみたいに言わないでくださいよ」

 紺野先輩が来栖先輩の肘をつついた。


 紅茶は、まだ少し温かかった。

「で、紺野はどうなのよ。男の子と手をつないだこと、ある?」

「あるわよ」

「え、いつ」

「稽古のとき、いつも取ってるでしょ」

「それはノーカン」

 紺野先輩はフォークを置いた。

「……稽古じゃなくても、あるから。袖だけど」

「袖かあ。それはカウントするかなあ」

「しましょう、来栖先輩。四捨五入すれば手です」

 私が言うと、紺野先輩が顔を上げた。

「ほら。すずちゃんも、こう言ってますよ」

「はいはい。じゃあ、数えましょう。いつの話?」

「ここ半年くらい、とだけ」


 来栖先輩は笑って、それ以上は訊かなかった。

 紺野先輩はカップを取った。口をつける前に、ほんの少し口元が緩んだ。

 私は皿に残っていた、最後の一口を食べた。

 

 私にも、今日、嬉しかったことがあった。

 審査の前に、同じ部の葛西先輩へ声をかけたのだ。紺野先輩と同じ二年生で、稽古の話をよくする人だ。

「私の番、見ていてください」

「見てるよ。見させてもらう。技は岩崎さんの方が先輩だからな」

 だけど、そういう話をしたいわけではなかった。

「ううん。そういうのじゃなく」

「応援もしてる」

 それで、はい、と言えた。その返事で、畳へ出ていけた。


 終わったあと、ちゃんと見てくれていましたかと確かめに行くと、先輩は答えてくれた。

「最初から、最後まで」

 初めに少し慌ててしまったところも、見てくれていた。

 それが嬉しかった。


 次の稽古では、自分から声をかけよう。

 先輩、今日、私とやりませんか。


 いつもの、少しのんびりした「うん」が聞こえる気がした。

 それを聞くのが、もう楽しみだった。

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