異世界の囁き
俺は、おそらく異世界の音を聞いている。
左耳からだけ、異世界の物音を聞いている。
左耳を塞ぐとその音は聞こえなくなる。
子供の頃から、俺は左の耳が聞こえないのだと思われていた。
医者にも連れて行かれた。
鼓膜は破れておらず、異常はない。
だが、左耳からは、本来聞こえるべき音も声も聞こえなかった。
代わりに、この場ではしないはずの音、いるはずのない人間の声が聞こえた。
だから、普段は左耳に栓をしている。
学校の授業を受けていても、右耳から入る情報と左耳から入る情報が全く異なるため、授業内容がわからなくなるのだ。
この日、俺は耳栓を落としてしまった。
クラスメイトは、俺の左耳は聞こえておらず、栓をしているのはただのポーズだと思っている。
だから、誰も気に留めなかった。
社会科の授業中だった。
『本当にやるのか?』
左側から聞こえた声に、俺は思わず振り向いた。
たまたま俺と目の合った女子が、驚いた顔をしていた。
誰かが話していたわけではない。誰かが話しても、俺も左側からは聞こえない。
聞こえるのは、異世界の声だ。その声が異世界からのものであることは、これまでの経験から確信していた。
俺は、ポケットに予備の耳栓がないかと探ったが、どうやら無くしてしまったらしい。
『ああ。奴がいる限り、俺たちは魔王に搾取され続ける。勇者なんか、必要ないんだ』
教室では、社会科の教員がフランス革命の歴史を板書していた。
『しかし、勇者がいるから、まだ魔王は大人しくしているんだって話じゃなかったのか? 勇者を殺せば、魔王はまた人間を滅ぼそうとするだろう』
『そうじゃない。勇者の奴、魔王と話をつけて、人間たちを奴隷にするつもりだ』
「……そうなんだ……」
俺は、思わず呟いてしまった。
「その通り。ブルボン王朝には批判も多いが、どうにもならなかった部分も多い」
俺の呟きがきっかけで、世界史を語る教師が脱線を始めた。
教科書に書いていないことを延々と語りだす癖があるのだ。
俺は、指で塞いでいた左耳を、そっと外した。
『勇者を本当に殺すつもりか?』
『ああ。魔王は、本当はいい奴で勇者が魔王を敵に仕立て上げたってのが、本当のところらしい。勇者を殺せばはっきりするさ』
『でも……魔王が本当に悪い奴だったらどうする? その時には、勇者はもういないんだぞ』
『心配ない。復活の魔法がある。俺は、ずっとそれを調べていたんだ』
『へぇ……でも、それは教会の仕事だろう?』
『神の奇跡じゃ、死んだ人間は復活しない。それは、教会がはっきりと断言している。王は、どんな方法でもいいから、勇者が死んでも復活させられる方法を見つけておけと言ったんだ。そうでなければ、勇者を殺すことは許可しないとな』
『まあ、それはそうか……』
俺はどこの会話を聞いているかわからないが、勇者と魔王だけでなく、権力闘争と教会勢力まで関わっているらしい。
複雑な世界情勢だ。
俺は、世界史の教科書を広げながら、ノートに左耳で聞き取った権力の関係図を描いていた。
それが役に立つと思ってのことでも、深く興味があったわけでもない。
この続きが、いつか聞けるとも限らない。ただ、なんとなく手を動かしていただけだ。何しろ、授業はマリーアントワネットが本当に浮気をしていたのかどうかの検証に移行している。
左耳で聞こえる会話は続いていた。
『これから、その方法を教えるぞ』
『待てよ。いいのか? お前が探り出した情報だろう?』
『俺が失敗したら、勇者を復活させる奴がいなくなる。それじゃ困るだろう』
『……失敗するような方法なのか?』
『ああ。だが、危険なわけじゃない。ちょっとした呪文を唱えればいい』
『じゃあ、失敗なんかしないだろう』
『前提条件があるんだ。復活の魔法を司るのは猫の守護神、ダーラムターレンだ』
『……知らないな』
『黙って聞け。お前、猫を飼っているな?』
『ああ。可愛いからな』
『猫を普段から可愛がって、寝食を共にして、しかも毎日グータラしている必要がある』
『どうして?』
『ダーラムターレンは猫の守護神でもあるが、怠惰と堕落を司る』
『どうしてそんな奴が、復活の魔法を司るんだ?』
『だからだよ。そういう存在には、バランスが大切なんだろう。勤勉とか修行とかを司ると、普段からそんなに真面目な奴に、大きな奇跡なんか必要ないだろう。だから大した恩恵はない。なんにしろ、努力できる奴なんだからな』
『……悪かったな。怠惰で』
『お前のことを怠惰だと言っているんじゃない。ただ、もし俺が失敗したら、お前が代わりにやるんだ。少なくとも、1月は猫と一緒に怠惰な生活をするんだ。それから、新月の日に、こう呪文を唱えるんだ』
俺は、自然とその呪文を書き取っていた。
長い呪文ではない。ほんの二言ぐらいの長さだ。
異世界には変わったこともあるものだと、思っている間に、授業が終わった。
途中で、真面目な世界史の授業に戻っていたらしい。
俺は板書を書き写し、次の授業に向かった。
※
左耳を塞いでいなければ、常に誰かの話が聞こえるわけではない。
ただの物音や、爆発音、断末魔のこともあり、多くの場合は何も聞こえない。
世界史の授業中に起きたように、明確に会話が聞き取れるようなことは、めったに起こらない。
それから数日、あるいはひと月以上が経過していたかもしれない。
俺は、親戚に招かれて電車に乗るため、駅のホームにいた。
耳の穴が痒かった。左耳の耳栓を外し、指でかいた。
その時だ。
『ま、魔王軍に蹂躙されています。このままでは、王都陥落まで、三日も保ちません』
またか。俺は、再び耳栓をしようとした。
『勇者を! 勇者を呼べ!』
『……陛下……勇者は……1週間前にトイレで倒れたきり、目覚めません』『……くっ……病気か?』
『わかりません。宮廷魔術師と司祭に調べさせましたが……回復は難しいかと……』
何かを叩く、ドンという音がした。
目の前に電車が止まる。
ここまでだ。異世界の出来事に、俺が口を挟む余地はない。
俺は左耳に再び栓をして、電車に乗った。
※
親戚の家に一泊し、駅に戻ってきた。
家に帰ろうとして、足を止めた。
左耳で聞こえる異世界の音には、一定の法則がある。
同じ場所では、同じような音が聞こえるのだ。
鐘の音が聞こえる場所には、何度行っても同じ鐘の音が聞こえる。
何度行っても、同じような会話が聞こえる場所もある。
それは、食事代金を支払う声であったり、夫婦喧嘩だったり、たあいのない会話がほとんどだが、毎回同じような会話が聞こえる。
異世界と俺の住む世界は、表裏が一体で、この世界で場所を移動すれば、同じように異世界での位置も変わるのだろう。
そう思った時、一昨日駅のホームで聞いた会話を思い出した。
魔王軍が迫り、勇者が死にかけている。
俺は、勇者はきっと毒を盛られたのだと思っている。それは、世界史の授業中に聞いた会話からの推測である。
駅から出る前に、俺は足を止め、左耳から耳栓を外した。ひょっとしたら、そんな気持ちが働いたのだ。
『どうした? 勇者は、勇者はなぜこない?』
『陛下! 勇者の復活は失敗です。復活の呪文を唱えましたが……蘇りません……』
俺が親戚の家に泊まっている間に、勇者は死に、復活させることになったようだ。
だが、失敗した。
会話でしか様子を知ることができない俺に、その原因はわからない。
『もう一度試せ! 勇者が蘇らなければ、魔王軍の前に宮廷魔術師と神官どもを皆殺しにすると伝えよ』
『御意』
御意ではないだろと、俺は呆れて聞いていた。もはや興味をなくし、俺は左耳に栓を戻そうとした。
『勇者の死体はどこだ?』
『地下です』
『余も行く。すぐに始めるのだ』
『はっ』
足音が聞こえ、遠ざかる。
俺は左手に耳栓を弄びながら外に出た。
駅に地下室はない。地下鉄ではないので地下ホームもない。
だが、線路の向こう側行くための地下通路がある。
聞こえはしないだろう。そう思いながら、俺は普段は通らない地下通路に足を踏み入れた。
『始めよ』
聞こえた。城だと思われる場所の地下室と、駅の地下通路が、たまたま同じ位置にあったのだ。
『テラベルテラベル、エサテエコサ、スビバタタン。勇者よ、蘇れ』
そう聞こえた。
違う。
俺は確信した。以前聞いた復活の呪文と違う。
だが、俺も正確には思い出せない。
俺が知っていたところで、意味がないことはわかっていた。
だが、無性に気になった。
確か、その呪文は授業中に聞いた。
世界史の授業と間違えて、ノートに意味も考えずにメモしたはずだ。
確認する意味はない。それは理解しながら、俺は急いで帰った。
新月の真っ暗い夜道を走った。
家に帰り、猫たちが出迎えた。
猫にまとわりつかれながら、俺は世界史のノートを取り出した。
やはり違う。似てはいるが、発音も抑揚も、俺が覚えた呪文ではない。
俺は、意味もなくその呪文を口ずさみ、ノートをしまった。
勇者が蘇らず、魔王軍に蹂躙される人々は気の毒だが、俺ができることはない。
俺がベッドに横になると、次々に猫が上り上がってくる。
両親に呼ばれた。誰かが尋ねてきたらしい。
俺は猫たちに抗議されながら体を起こし、ベッドから降りた。
玄関に向かう。
俺の知らない男がいた。
「……誰?」
「勇者だ」
俺は、猫とごろごろした怠惰な生活を送り、新月の夜、勇者を復活させた。
俺は聞くことしかできない。
だが、異世界の勇者は、世界を跨ぎ、俺の目の前にいた。




