まるでダメな僕と世話係の青年
出汁の匂いを知ったのはこの4年程で、それまでは遠い過去の痕跡でしか無かった。
起きたらご飯の待っている生活、勤めていた頃の冷凍食パンを解凍する生活も苦しくは無かったが、今の生活は体にいい。
僕はいつもおはようと言って部屋を出たことは無い、料理を作ってくれる青年が扉を開けて隙間から起こしてくれることを知っているから、それまでは起きない。
夢の残滓を惜しむからでは無い、非生産的な日が始まることが後ろめたいから、今日も生きていていいのだという確信が持てないから、それが僕を寝床から出さない現実。
青年はあの分厚い扉の向こうで味噌汁を作っている。コンロの火の音は聞こえず、卵を焼く音も聞こえない。
現実は怖くて辛い。でも、青年のご飯を食べている時は少しはマシかもしれない。その後にやってくる絶望は今でも少し怖い。
会社を休職したのち、退職した。回復して会社に戻る人もいるけど、僕にとって仕事や人間関係は一度引っかかるとダメだ。こういう仕事の辞め方を何度もしてしまって、僕はついに起き上がることが出来なくなった。
若さのない肌、たるんだ体、濃いムダ毛。他人によっては体臭に鼻を曲がるかもしれない。人間的魅力や積極性、人格の素晴らしさ。僕はそれらをどこかに忘れてしまった。
何を期待してやってくる結婚式の招待状が届く度に、招待状にはノルマがあると思ったほどだ。招待状を見ても名前に覚えは無く、僕は返信をすることも無く、そっとそれらを部屋に投げ捨てることくらいしか世の中に対抗する術を持たない。20代の後半に相次いだ結婚式の話も30代半ばになるとめっきり減った。
会社を辞めてどれくらいかは分からないし、青年の気配のお陰で服は着替えることが出来ているが、外に出ることは叶わない。青年のいないリビングに出ることが出来るだけでも奇跡だ。
今日の朝ごはんにも昼ごはんにも夜ごはんにも僕は希望を持てない。ただただ自死を意識させる暗い気持ち。
部屋の扉を叩く音が合図だ。声を出すと扉が開く。
「おはようございます。今日は」
鯖の塩焼き。鯖というのは魚だろうか、塩というくらいだからしょっぱいのか。何もしたくない、疲れた。
青年はベッドの横までやってくる。声からはとうてい25には聞こえない。この青年は社会に出ていた時に痴漢から助けた青年だ。時間外とは言え、女性専用席に乗った痴漢はさぞかし奇妙だったのに、誰も助けなかった。気が弱い青年は女と間違われて体を触られていた。僕も女性だと思って止めると痴漢は逃げていき、駅員室まで付き添った。
後に男性だと知った。そのうち同じマンションの住人だと知り、恩返しに料理を作ると言い出した。突拍子の無い提案に僕は断ったが青年の両親にゴミ捨て場で疲れから意識を失っていることを見られてしまい、青年の仕事の前に朝ごはんを作るという話になった。
当時は今以上に疲れていて、強く遠慮をする気合は無かった。流れるままに青年に合鍵を渡して、朝の6時に青年はやって来て、朝の8時には出勤をする。いってらっしゃいも僕は言えずに声だけを聞いて、青年が出社した後に冷えた朝ごはんを食べるのだ。
青年が話すことは無く、こんなことで何が面白いのか分からないが、食費も青年の両親が出してくれる。もうどうにでもなってしまえとも思う。
青年は家を出ていき、僕はのそりと部屋を出る。扉の隙間から出汁の香りを感じていたけど、だから何かと思うことは無かった。
食欲は無かったけど、明日食事の片付けをする時に青年が悲しそうな顔をするのは罪悪感を心に生ませてしまう。少し冷えた鯖と味噌汁を食べた。炊飯器のご飯を食べるようになったのはこの生活を始めて4年、この1ヶ月での進歩だ。ちゃんと食べたら喜んでくれると思った。
食べたら朝起こす時に声が明るくなり、食べなかったら悲しくなる。そもそも食費を出してくれる。そんなありがたい境遇なのに、残すのはどうかしている。
昼ごはんは冷蔵庫の中に、夜は作りに来る。どうにか気力を出して昼も食べるようにしている。
食事は希望の証。
希望なんてこの生活には無いし、明日生きていないかもしれない。それでも僕は明日も味噌汁を飲むのだろう。
最近、少し歯ごたえのある魚の骨のようなものが入っていることが増えた。歯茎には刺さらないが味はしない。今日のは鯖の骨かもしれない。黒い粉末は海藻の類か、この数年自炊をしなかったのでよく分からない。
それにしても最近、カレーの中に鳥の皮のようなものを入れるのは青年なりの親切心だろうな。蛋白質を取りなさいとの意思に拝みながら、口に運ぶ。
あの人が会社に勤めていた頃からあの人はとても魅力的で、私は高校生の頃から目で追っていた。あの人が会社を辞めるようにさせた覚えは無いけど、辞めてくれてラッキーだった。
初めて会った時からあの人は私にとって特別になった。お姉さんは何度も痴漢から救ってくれた。細いながら強い力、手首に浮かぶ筋、いつもいい匂いのする体。ドラッグストアで同じ香りのシャンプーを買って、口に入れたこともある。いつかお姉さんを管理してあげたいと作戦を練った当日、痴漢役を用意するのは簡単で、そう苦労も無かった。
まさかまた本当に助けてくれるなんて、そんなあの人にキュンキュンした。両親役も簡単に手配出来たし、行動パターンからマンションを特定していた。家に入れてくれるなんてセキュリティがばがば、ちょろすぎてそういうところも本当に好き。
会社はテレワーク、だらしのない生活を送っているのをカメラと音で感じて私は嬉しくなる。今日は爪を入れてみた。美味しそうに食べていて、どんどんあの人と私が近くなる。あの人の内臓で私が満たされていく。皮は最近スタートさせた。肉は痛いけど、ちょっとくらいなら我慢出来る。
あの人は毎朝部屋から出てこない。
だから私をまともに見ない。そのギリギリがゾワゾワする。これからもずっと管理してあげるよ。
好きだよ、私だけのお姉さま。




