第04話:『Justice_Hammer』の鉄槌と凍結
裁木正義の部屋には、窓がなかった。
正確には、雨戸が完全に閉め切られ、さらに遮光カーテンと段ボールで目張りされているため、昼夜の概念が存在しないのだ。
6畳の空間を支配しているのは、3つの大型モニターが放つブルーライトと、埃っぽいPCファンの排気音。
そして、山積みになったカップ麺の残骸から漂う饐えた臭いだけだった。
「……特定完了。バカな女だ、背景のマンホールだけで住所が割れるってのに」
正義は、ポテトチップスの油で光る指でキーボードを叩いた。
モニターには、ある女子高生のSNSアカウントが表示されている。
彼女の罪は「飲食店での迷惑行為」。
といっても、醤油差しの蓋を少し緩めた動画を身内限定で公開しただけだ。
だが、正義にとっては、それが「死刑」に値する大罪だった。
「正義の鉄槌を下してやるよ。震えて眠れ」
彼は『Justice_Hammer』というアカウントにログインした。
フォロワー数は10万人。
ネット上の「自警団」として崇められている、彼のもう一つの顔だ。
彼が作成した「まとめ画像」には、彼女の本名、住所、通っている高校、親の勤務先までが詳細に記載されていた。
エンターキーを、
ッターン!
と大げさに叩く。
投稿完了。
瞬く間に拡散されていくRTの数。
『さすがハンマーさん!』
『仕事早すぎw』
『この女、人生終わったな』
滝のように流れる称賛のコメント。
正義の口角が吊り上がった。
これだ。この瞬間、俺は神になる。
現実の俺は、30を過ぎて定職にも就かず、親の遺産を食いつぶすだけの「子供部屋おじさん」かもしれない。
だが、このネットワークの海において、俺は絶対的な法の番人なのだ。
「次はどいつだ……どいつを社会的に抹殺してやろうか」
彼は獲物を探すハゲタカのように、血走った目で次のターゲットを求めて検索窓にカーソルを合わせた。
その時だ。
異質なポップアップ広告が、画面の中央に割り込んできた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
黒地に白文字。
派手なイラストも、煽情的な文句も一切ない。
ただ、明朝体の文字が鎮座しているだけの、不気味なほどの素朴さ。
普段の正義なら、「不審なサイト」として即座に広告ブロックで弾いていただろう。
スパム、詐欺、あるいはブラウザクラッシャーの類。警戒して当然だ。
だが、なぜか指が動かなかった。
「……なんだ、これ」
視線が、その黒い四角形から離せない。
画面上のただのピクセルの羅列のはずなのに、そこだけが底のない深淵のように見えた。
まるで、その黒い穴の奥に、自分が心の奥底で求めていた「承認」と「暴力」が、確実に存在していると確信させられるような感覚。
(押さなきゃ……)
思考よりも先に、本能が命じていた。
正義は夢遊病者のような手つきで、マウスをクリックした。
サイト名は『カタルシス』。
掲載作品は一つだけ。
『【完結保証】アナタの人生「あなた」が主人公の物語』
作者名:サイフォン
第1話のタイトルは『断罪の管理者~俺の指先が法律~』だった。
主人公の名前は「マサヨシ」。
彼は異世界の住人ではない。
現代日本の裏側で、全ての個人情報を管理する「国家機密レベルの監視官」だった。
彼が与えられたのは、「神の検索エンジン」と「断罪ボタン」。
気に入らない人間がいれば、検索一つで銀行口座を凍結し、住民票を抹消し、スマホを圏外にし、社会的に「存在しない人間」へと書き換えることができる。
警察も裁判所も不要。
マサヨシが「削除」をクリックすれば、その人間は社会システムから排除されるのだ。
「……はっ、いいじゃないか。俺が欲しかったのはこれだよ」
正義は食い入るように読んだ。
ファンタジーの魔法なんて子供だましだ。
現実の力。法的拘束力。システムへの介入権限。
これさえあれば、あのコンビニの生意気な店員も、電車で席を譲らない若者も、指先一つで路頭に迷わせることができる。
「……悪くない。俺の理想そのものだ」
読み終えた正義は、画面最下部の評価欄を見つめた。
『面白かったら★5評価をお願いします』
彼は迷わず、一番右の星をクリックした。
これは同意だ。
俺にその「権限」を寄越せという、契約の署名だ。
カチリ。
マウスのクリック音が響いた瞬間。
ザザザッ……。
画面が、砂嵐のようなノイズに覆われ、激しく明滅し始めた。
「な、なんだ? 故障か?」
バチバチという異音と共に、液晶画面から黒い液体のようなものが滲み出してきた。
それはインクだった。
ドロリとした黒いインクが、重力に逆らって立ち上がり、人の形を成していく。
シルクハット。
モノクル。
仕立ての良い燕尾服。
奇怪な紳士が、画面から這い出すようにして、狭い6畳間に降り立った。
「ひ、ひぃっ!?」
正義は椅子ごと後ろに倒れ込んだ。
インクの男は、汚れた床に立つと、優雅に服の埃を払う仕草をした。
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
男の声は、耳元ではなく脳内に直接響くようだった。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
「あ、悪魔……? 誰だお前は!」
「はじめまして。わたくし、小説家のサイフォンと申します。以後、お見知り置きを」
サイフォンと名乗った怪異は、慇懃無礼に一礼した。
そして、ゴミ溜めのような部屋を見渡し、蔑むような目を向けた。
「貴方は望んでいましたね? 安全圏からコソコソと掲示板に書き込むのではなく、確実かつ絶対的な『削除権限』が欲しいと」
「……な、なぜそれを」
「殺したい相手がいないのなら、『嫌いな現実』を生きるアナタ自身を殺してしまいましょう。推敲の時間です。この不潔な部屋を、理想の管理室へリニューアル(上書き)します」
サイフォンがパチン、と指を鳴らした。
世界がノイズ混じりに書き換わっていく。
薄汚れた壁紙が、無機質な吸音材の壁に変わる。
カップ麺のゴミが、極太の光ファイバーケーブルへと変わる。
3つのモニターは、壁一面を覆う巨大なスクリーンへと進化した。
そこには、日本中の防犯カメラ映像、SNSの全ログ、国民全員の個人データがリアルタイムで流れていた。
「す、すげぇ……」
正義は、革張りの高級チェアに座っていた。
目の前には、シンプルなキーボードが一つ。
エンターキーだけが、警告色のような毒々しい赤色をしている。
「さあ、始めましょうマサヨシ様。貴方はこの国の『管理者(Admin)』です」
サイフォンが囁く。
正義は震える手で、適当なターゲットを選んだ。
先ほどの女子高生だ。
「消えろ……!」
ッターン!
赤いキーを叩く。
スクリーンの中で、女子高生のスマホが爆発し、彼女の通学定期がエラーを吐き、学校のデータベースから名前が消えた。
彼女がパニックになり、泣き崩れる様子が鮮明に映し出される。
「ははは! 見たか! これが俺の力だ!」
正義は狂喜した。
次だ。次は誰だ。
不倫芸能人。汚職政治家。転売屋。
気に入らない奴を見つけては、赤ボタンを叩く。
そのたびに、社会から人間が一人ずつ「BAN」されていく。
「最高だ! 俺は神だ! 俺が正義だ!」
正義は取り憑かれたようにキーを叩き続けた。
1時間、2時間……いや、体感では数日が経過しただろうか。
彼は休むことなく、数千人の人間を社会的に抹殺し続けた。
――異変は、唐突に起きた。
ッターン!
いつものようにキーを叩く。
だが、画面の中のターゲット――歩きタバコをしていた中年男――は、何事もなく歩き続けている。
「……あ? おい、どうなってる?」
もう一度叩く。
反応がない。
いや、反応はある。
キーを叩くたびに、正義の自身の動きがコンマ1秒、遅れるような感覚があった。
(なんだ? 手が重い……?)
画面を見る。
スクリーンの右上に、小さなアイコンが出ていた。
クルクルと回る、ロード中のサークルだ。
「おい! 回線が重いぞ! どうにかしろ!」
正義は背後のサイフォンに怒鳴ろうとした。
だが、首が回らない。
視界がカクつく。
フレームレートが落ちたように、世界が飛び飛びになる。
『処理中……』
無機質な文字が空中に浮かぶ。
正義が腕を上げようとする。
ガガガ……ガ……。
動きが止まる。再開する。また止まる。
まるでスペック不足のPCで、高負荷なゲームを動かした時のように。
「おやおや、メモリ不足ですかねぇ」
サイフォンの声が、不気味に間延びして聞こえる。
「き……さ……ま……な……に……を……」
サイフォンが、正義の顔の前にぬるりと顔を寄せた。
その体は滑らかに動いているのに、正義の世界だけがコマ送りの地獄になっていた。
「貴方は『即座に』『問答無用で』他人を処理しすぎました。一つのサーバーで裁ける罪の数には、限界があるのですよ」
サイフォンは、正義が硬直して握りしめている赤いキーボードの上に、そっと手を重ねた。
「他人の人生を強制終了させるのがお好きなようですが……。残念ながら、貴方の人生が『応答なし』になってしまいました」
視界が白濁していく。
動けない。
思考だけはあるのに、指一本動かすのに何年もかかるような感覚。
永遠のロード地獄。
「再起動はできませんよ。貴方はこのまま、永遠に完了することのない『処理中』の輪を眺めていてください」
サイフォンが、空中でウィンドウを閉じる操作をした。
『プログラムは応答していません』
『プロセスを終了しますか? → いいえ』
終了さえ許されない。
正義の意識は、無限に回転するサークルアイコンの牢獄に閉じ込められた。
世界が完全なフリーズを迎え、静止画と化した正義の横で、サイフォンだけが優雅に振り返った。
彼は画面の向こう側の「あなた」に向かって、不気味にウィンクをして見せた。
「さて、これにて第04話:『Justice_Hammer』は完結です。おやおや、読者の皆様。フリーズした画面を叩いても直りませんよ? そこには、ただ処理落ちした哀れな魂が詰まっているだけですからね。この結末がお気に召しましたら、★5評価をお願いしますね」
サイフォンが指を鳴らすと、プツンと映像を切るように世界が暗転した。
後には、ただ無機質なエラーメッセージだけが残された。
『503 Service Unavailable
ユーザーのリクエスト過多により処理できません』




