第四話 伝えたい
ステージの幕が上がるのを待つわたしの心臓は今、あり得ないくらいに早鐘を打っていた。
ピアノの椅子に座るのは彼、その横に立つわたしの手にはクラリネット。
あれから、わたしはもう一度クラリネットの練習を始めた。
難しかった。
運指も忘れかけてたし、連符は指がつりそうになるし、リードミスは多いし……。
でも、がんばった。本当にがんばった。
一緒に文化祭に出ようって約束して、ここまで来た。
でも……。
「大丈夫?」
心配そうに彼がグランドピアノから顔を覗かせる。
「う。緊張、する」
「……っはは。大丈夫、いっぱい練習したんだもん。いつもみたいにやろうよ。もし上手くいかなかったら、後で二人だけで演奏会をしよ」
緊張してないらしい彼が、優しく励ましてくれる。でも、まだ不安は消えない。
「大丈夫。自分を信じて。ほら、僕のド下手くそな歌だってみんなに聴いてもらったんだから」
「……っふは」
思わず吹き出した。そういえば去年の文化祭、楽しかったなぁ。
わたしが笑ったのに安心したのか、彼も頬を緩める。
「さ、幕上がるよ」
「うん」
大きく一呼吸。
目を合わせて、奏でだしたメロディと厚くて穏やかな伴奏は、一番初めのあいさつ。
誰かの心の扉を優しくたたくような、そんな音。
それは次第に軽快さを増して、体育館が熱気に包まれていく。
彼と一つだ。そして、みんなとも一つだ。手拍子が心地いい。
いつかの一体感を思い出して、わたしの中の熱も増し『楽しい』が音になって広がっていく。
彼に目をやる。
流れていくメドレーの区切り。次、最後だね。
夏に似合う青春歌。
今の思いをめいっぱい、込めてみる。辛かったことも、変わったことも、今の夏も。彼のことも。
……ずっと、こうやって演奏することを心のどこかで望んでたのかもしれない。音楽とまた繋がることを。
今日は嬉しい。それも、彼と一緒だからなおさら。
――拍手。
浴びている。
もうずっと、分からないと思っていた、感じられないと思っていた、あの日が目の前に戻ってきたようだった。
思わず彼を向く。
「やったね」
小さく言葉が返ってきて、わたしは深く頷くと、彼と一緒にめいっぱいのお辞儀をした。
「はぁ〜楽しかった〜」
余韻が残りつつ、そう言った彼と一緒に舞台裏から客席に向かう。
「ね。よかったぁ、みんな盛り上がってくれて」
「当たり前だよ。君と二人だったから前よりいい演奏会になった」
「……ありがとう」
少し照れくさくて目を逸らした。
「ねえ、楽器片付けてからでいいんだけど、ちょっと音楽室行かない?」
「え? いいけど……」
言われるがまま付いていった音楽室で、彼はいつもみたいにピアノの前に座った。
「弾くの?」
「うん。いい区切りだし」
「っやめちゃうの? ピアノ」
思わず体が前に出た。
「やめないよ。ただ、君にあげたいなって思って。この曲……聴いてくれる?」
「うん」
――とくん、と心臓が脈を打った。
この曲、知ってる。
ハープみたいな優しい曲。
どこまでも包み込んでくれるみたいな、愛のうた。
彼の好きな曲。前教えてくれたから調べて聴いて、わたしも好きになった。
彼を見つめる。
優しく軽やかに運ばれていく指。でもそれとは裏腹に表情は、いつもよりも、さっきの演奏会よりも緊張しているように見える。
わかるよ。緊張、するに決まってる。
わたしも同じ。だってこの曲――
演奏し終えた彼が立ち上がって、お辞儀をした。
「ありがとう、聴いてくれて」
「うん」
「……曲名、知ってた?」
珍しく目を逸らしがちに彼は聞いてくる。
「知ってるよ。前、教えてくれたから。わたし歌詞も知ってる」
「っそこまで、知ってるならちょっと、というか結構恥ずかしいんだけど……」
真っ赤な耳をした彼は、一呼吸すると鍵盤の上に手を置いた。
奏でられたのは、さっきのメロディ。
「『あなただけを想う』」
弾くのをやめて、もう一度わたしを見つめた彼は言った。
「僕の、気持ちです。君は……受け取ってくれますか?」
真っ直ぐにわたしを見る、彼のこういう目が好き。柔らかい声も、不器用なところも、上手なピアノも、全部。
心臓が、わたしの声より大きいんじゃないかと思うくらいに鳴っている。
小さく息を吸って、口を開いた。
「『あなたはわたしのすべて』。これが、わたしの答えです」
「……っありがとう」
緊張の糸が切れたように彼は笑った。
「よかった。嬉しい」
「わたしも、嬉しい。……ねえ、今度は一緒に今の曲歌おうよ」
「えっ? は、はずかしいんだけど……」
曲を使って告白してきたくせに、彼はそう言う。
「いつもの演奏会だよ。ほら、歌おう?」
「……わかったよ」
彼は眉尻を下げて笑って、ピアノに向かった。
「じゃあいくよ?」
「うん」
――音楽室に響くのは、わたしの声と、少し不器用な彼の声。それから、やっぱり優しくて、大好きな彼のピアノ。
わたし、この空間が大好き。
これからも、ずっとこんな演奏会を続けようね。