第三話 音楽をしたい
聞こえてくるのは、小鳥の囀りみたいないつもの彼の音。
さざなみに揺られるような今日の曲は、一段と優しい。
そのままドアの外で聴いていた。
「入ってよ」
「いいの?」
「近くで聴いて」
「わかった」
近寄ると、太陽みたいだった。
全部が包まれて、彼の世界に入り込んで。
拍手を贈る。
彼に贈る、二回目の拍手。
立ち上がってお辞儀をした彼は、顔を上げるとわたしを見据えた。
「ねえ、もう一度やらない? 楽器」
心臓が強く脈を打った。そして、変に締め付けられる。
「でも、もう吹けないんだよ? 前ちょっと吹いた時もすごく下手くそだった」
「楽器は持ってるんでしょ?」
「ある、けど……」
目を逸らす。吹いてほしい、と訴えるその目から。
「一緒にやりたい」
「音楽を?」
彼は力強く頷いた。
彼の気持ちに応えたくはある。でも、もう一度わたしから音を放つのは、少しだけ怖い。
「……歌じゃ、だめ?」
「歌?」
「うん。それならすぐできるし」
「……じゃあ歌でいいよ」
妥協も感じるけど、柔らかく笑った彼はもう一度座る。
「君の好きな曲でいい?」
「うん」
彼が弾き始めた伴奏に合わせて一緒に歌う。
初夏の朝にあった、気持ちのいい空間……。
「『朝日昇る 君を見る 二人の手』」
彼は穏やかな顔でピアノを弾いている。
いつも後ろ姿だけでわからなかった顔、優しいな。
そんなことを考えていたら……
「『優し』あっ間違えた」
ぶわっと全身が粟立って、次に来る指摘に心臓がこわばる。
「ふふっ、だいじょぶ」
彼は笑った。柔らかく。
その瞬間『あ、だいじょうぶなんだ』って。
彼は変わらず楽しそうに指を運んでいる。
怒られない。
ただ、あったかい空気が流れてる。
……よかった。……よかった、怖くない。
これなら、だいじょうぶ。
ピアノの音が厚くなる。
クライマックスだ。
「『解放の歌 ただ歌う いつかの夜 追い越して』」
……たのしい。
やっぱり、楽しい。ちゃんと楽しい。
こうして誰かと一つをつくり上げること、暫くしてなかったけど……いいものだな、音楽。
――中学生の時、クラリネットをやってた。
出来が悪くて、何度も叱られた。
でも、初めて舞台に上がって、分からないなりに一生懸命に吹いた後に貰った、心臓が震えるくらいの拍手。その瞬間わたしは世界に祝福されているような、世界に称賛されているような気持ちになった。
高揚感、喜び、達成感……何と言えばいいのか分からない、言い表せない程のそれを、ずっと覚えてる。
でも、それはたった一度だけ。あの一度だけ。それから後はもうなかった。
どうしてだろうってずっと思ってた。
でも、その理由が今やっとわかった。
こうしてあなたと世界をつくり上げて浸っていると、よくわかる。
あの時のわたしは周りに追いつくことに必死になって、間違えないことが一番になって、上手くやることだけを考えるようになってた。知らない内に義務になった音楽は、わたしの中で『楽しい』じゃなくなっちゃったんだ。
……だからかな。初めてあなたの音を聴いた時、心が震えたのは。音楽をするあなたがこんなに綺麗に見えるのは。
毎日聴いていたのは心のどこかで、あなたみたいになりたいと思ってたからなのかな。
きっとそう。
でも、やっぱりそれだけじゃない。
聴くこともやめてしまった音楽の世界に、わたしをもう一度引き込んでくれたのはあなた。そして、わたしがもう一度表現することを選ばせてくれたのも、きっとあなた。
「――わたし、一度失ったの」
「失った?」
「うん。部活でね、指導が怖くて、劣等感とかに塗れて、わたしがどこかに行っちゃったんだ」
彼はピアノからわたしに向く。
「それで奏でるのも、聴くのも嫌になっちゃった」
「……ごめん。じゃあ僕さっき、無理言ったよね」
彼が申し訳なさそうな顔をする。
わたしは首を横に振って、続きを言う。
「わたしね、あなたのおかげで音楽聴くの、また好きになったんだよ。それに、さっき一緒に演奏して、思ったの。あなたとなら、怖くないって」
「本当……?」
「うん、本当。だからね、わたし、もう一度楽器やってみる」