葵と光*其の三
予想外に光から迫られ、心中はかなり動揺したが、『原作』を知る身として、ここで流されるわけにいかないことははっきりしていた。
しっかりしろ、相手は中一、現代だったら大問題と己を鼓舞し、葵はそっと身を引く。
「そのことなんだけど……光に、大事な話があるの」
「大事な、話? ――私のことは好きだけど、夫婦にはなりたくない、とか?」
おぉ鋭い、ニアピン賞あげちゃう――なんて茶化すには、心なしか目の前の雰囲気が怖い気がする。
ゆるゆると首を横に振り、葵はそっと、光の手を持ち上げて両手で握り返した。
「あなたがわたしを求めてくれていることは、とても嬉しいわ。でもね、それほど急ぐ話でもないと思うの」
「……私は二年前、葵を失ったと思ってから、待ち過ぎるほど今日という日を待ち侘びたけれど」
「気持ちの上では、そうかもしれない。けれど、よく考えて? あなたは昨日、やっと成人したばかりなのよ」
葵の言葉の意味が分からないらしく、目をぱちくりさせて、きょとんと小首を傾げる光。そういう表情は、年相応だ。
「あなたの宮中での立場が難しいことは、わたしも知っているつもりよ。主上のご寵愛こそお子の中でもっとも深いけれど、それだけを頼みにしていては、亡き桐壺様の二の舞となりかねない」
「それは……」
「主上もあなたの行く末を案じたからこそ、わたしのお父様を後ろ盾とすべく、この縁談をおまとめになったのでしょう。――でも、お父様の権勢とて、盤石ではないわ」
「そんなことはないだろう。左大臣殿は、父上の信篤き君臣でいらっしゃる」
「そんなことあるのよ。よく考えて? 主上の次に即位されるのは、どなた? その外戚でいらっしゃるのは、誰? ……東宮様のお母君は、どちらのお方?」
暗闇の向こうで、光の表情が険しくなる。さすがにこの歳ともなれば、自分の産みの母をいじめていびって弱らせ、死へと追い込んだのが誰か、あからさまに教えられることはなくても察しているらしい。
次の帝である東宮――その母である弘徽殿女御は、現右大臣の大君(長女)で、かつて誰よりも、光の母である桐壺更衣を呪い憎んだ張本人である。物語の都合上、悪役として大袈裟に描かれているだけかと思いきや、普通に見栄っ張りで意地悪で、しかも己の振る舞いを省みないタイプの〝嫌な女〟だった。こっそり後宮通いする中で、何度も彼女の癇癪を聞いたから間違いない。
ついでに言えば、兄の暁の正妻である右大臣家の四の君は、弘徽殿女御の妹になるわけだが、姉によく似た性格の女性らしい。そりゃ、あの兄とは何もかもが合わないだろうなと、双方を不憫に思う。世の中には、ああいう女性を好む層が一定数いるのも確かだから、こればかりは巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
――閑話休題。
「弘徽殿の方は、あなたをとても警戒しておいでと聞くわ。かつては、一宮様を差し置いて、あなたが東宮に選ばれるのではと危惧したほどに」
「だが、私は臣下に降った。弘徽殿様にとって、もはや路傍の石も同じはず」
「同じにはならないわよ。あなたは、彼女が憎んで恨んだ、桐壺様のお子なのだから」
「……私が何をしても、あの方にとっては気に食わないというわけか」
「えぇ。油断すれば、あっという間に足元を掬われる。ほんの僅かな瑕疵とて、きっとお見逃しにはならないでしょう」
「瑕疵のない人間なんて、いないのにね」
「ああいう人は、それが分からないから」
ため息をついて、葵は真摯に、目の前の光を見据えた。
「いい、光? 次代に権勢を得る側が、決してあなたを好意的に見ないと分かっている以上、あなたがするべきはまず、宮中での足場固めよ。日々のお役目を真面目にこなして、周囲からの信頼を得て、いざというときに頼れる味方を一人でも増やすの」
「味方を……」
「あなた、思い込んだら一直線なところがあるもの。ここでわたしと本当の夫婦になってしまったら、昼も夜もそのことばかり思い詰めて、お役目が疎かになりかねないんじゃない?」
言ってることは正論だが、あまりに火の玉直球ストレートが過ぎると、言っている葵本人が一番自覚している。昼間に暁、楓と相談した『刹那的な自由恋愛は自重すべき』の助言を何重にもオブラートに包んだ形だが、包んだところで内容が内容、どう言おうが失礼にしかならなかった。
いくら何でも新婚の妻、しかもそれなりに好きな相手から寝所でこんなことを言われたら、腹立たしくなるだろうけれど、こればかりは葵も譲れないわけで――。
「確かに。葵の言う通りだ」
「本当にごめんね、酷いこと言ってるのは分かって……は?」
「今日の昼間だって、今夜葵とどう話そうか、なんと謝って許してもらおうかと、そればかりを考えていて、何をしたのかまるで覚えていない」
「ウッソでしょまさかそこまでポンコツ化してたの?」
「大丈夫だ、仕事じゃなかった! 元服の翌日だから、桐壺に色々な人が来て、祝辞を述べては去っていっただけだ」
「それほとんど仕事だからね? 挨拶に来てくれた人の顔と名前と役職、ちゃんと覚えてる?」
「……記録は取らせてあるから、あとで確認する」
「きちんとお礼もしとくのよ? こういうところから、信頼関係の構築は始まるんだから」
「あぁ、分かった」
どうしよう、うちの子が想像以上に愚直体質だった。昔から、「地頭は良いのに何でこう肝心なところでポンコツになるかな」と心配していたけれど、二年経っても変わっていない。
「葵が私との婚姻を受け入れてくれるなら、確かに今は葵の助言通り、宮中でのお役目に早く慣れて、役立つ者となることを優先させるべきなのだろうな。私が私自身の力で、時勢に流されない者となれば、何があろうと葵のことも守り抜けるわけだから」
「えぇ。心配しなくてもわたしは逃げないし、いつでもあなたの帰りをこの邸で待っているから。まずはお仕事を頑張って、その……恋愛は、お役目をしっかりこなせるようになった、そのあとで、ね?」
「そうだな、そうしよう。あなたが妻として待っていてくれるなら、もう怖いものなどない。一日も早く、一人前の頼れる男となるから、どうか傍で見ていてほしい」
「……分かったわ。楽しみに、してるね」
明るく笑う光は、二年前、箱庭で遊んでいた頃と、何一つ変わらない。変わらないことが嬉しくて――切なくて。
(恨まれてると……きっと嫌われると、覚悟していたのに。こんな風に笑われたら、わたしはいったい、どうすれば良いの)
〝葵の上〟は、〝光君〟に愛されない。それが……この世界の〝摂理〟ではないのか。
「葵――」
優しい声で、名が呼ばれ。壊れものを扱うかのように、そっと、優しく、抱き締められる。
「もう、夜も遅い。……本当の夫婦になるのはまだ先でも、こうして隣で寝ることは、許してくれるだろう?」
「何も……こんな、密着しなくても」
「あなたといるのに、独り寝みたく肌が離れているのは、寂しいよ」
くすりと笑う気配がして、ゆっくりと寝具に横たえられた。そのすぐ隣に光が横たわり、互いの頬が、腕が、足が触れ合う。
「昨晩は、お行儀良く過ごすしかなかったけれど。これからはこうして、葵を感じながら眠れるのだね」
「あなたのその口説き文句は、誰から教わったの?」
「主に父上だけれど、後宮にいれば女房を口説く公達の言い回しは耳に入るからね。見本には事欠かない」
「優秀な頭脳の無駄遣いすぎる……」
他愛もないやり取りを続けているうちに、どちらからということもなく、二人の意識は微睡んでいった。