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巡り逢ひて*其の五


 突然現れた少女に、女房たちと菊乃が唖然となる。そうこうしているうちに彼女の相手をしていたらしい女房たちが追いつき、状況を把握した瞬間、青い顔で平伏した。


「もっ、申し訳ございません! 姫様にはお部屋でお待ちいただくよう申し上げていたのですけれど、少し離れた途端に飛び出していかれまして……」

「お客様とのお話の間は、姫と女童たちで遊ばせておくように言っていたでしょう」

「そうなのですけれど……仲良しの犬君(いぬき)が雀の子を逃してしまったから、今日は一緒に遊びたくない、と。姫様と犬君が喧嘩をしているものですから、他の子たちも遠慮して、なかなか遊びが盛り上がらず……」


 小学生女児によくある微笑ましい諍いの果てに、寂しくなった〝姫君〟は祖母を求め、女房たちの目を盗んで簀子をぱたぱた走ってきた、らしい。

 状況を理解した菊乃が厳しい顔になり、今にも孫娘を叱りつけそうな雰囲気になっている。自分がいるせいで子どもが必要以上の叱責を受けるのは望むところではなかったので、菊乃が口を開くより早く、葵はスッと言葉を差し入れることにした。


「そちらは、菊乃様のお孫様でいらっしゃいますの? よろしければ、お孫様にもご挨拶させてくださいませ」

「北の方様……」

「姫君ほどのお年頃であれば、理由も分からないままお祖母様と引き離されれば、不安になって会いたくもなりましょう。わたしは気にしておりませんから」

「……北の方様の寛大なお心に、御礼申し上げます。お言葉に甘え、ご挨拶させて頂いてもよろしゅうございましょうか?」

「はい、ぜひに」


 微笑んで頷いた葵を確認してから、菊乃は目線で女房たちに、〝若紫〟を(へや)へ入れるよう促す。女房たちに連れられて入室した彼女は、さすがに自分が場の空気を乱したことを理解しているらしく、硬い表情で菊乃の隣へ腰を下ろした。

 しょんぼりと肩を落としている孫娘の背に手のひらを当てて、菊乃は静かに葵へ視線を流し、口を開く。


「北の方様。こちらは、亡くなった私の娘が産んだ孫で、名を(ゆかり)と申します」

「菊乃様の娘御の、そのまた娘御ということですね」

「はい。――紫、ご挨拶なさい」


 祖母に促された小さな姫君は、ぎこちない仕草で床に手をつき、頭を下げた。


「は……はじめ、まして。兵部卿宮(ひょうぶのきょうのみや)が娘、紫と、もうし、ます」

「ご丁寧に、ありがとうございます。わたしは藤原左大臣が娘で、源氏中将が妻の、葵と申します。よろしくお願いいたしますね」

「はっ、はい!! えっと……あおい、さま?」


〝若紫〟――紫の父は、先帝の子である兵部卿宮だ。葵の父は臣下〝藤原〟の出だから、父方の血筋だけを鑑みれば紫の方が高貴なのだが、貴族の序列はそう単純には決まらない。葵の父は臣下としては最上位で、かつ正妻に現帝の同母妹を迎えており、葵はその正妻が産んだ、由緒正しい左大臣家の〝姫〟である。いくら紫の父が先帝の子であったとしても、現帝の妹宮が最上位の臣下との間に儲けた葵の方が、身分的には遥かに上位となるのだ。


(だから『原作』では、『葵の上』が死んだ後、『光源氏』の正妻として『紫の上』が社会的に認められず、後々拗れる原因の一つになるのよね……)


 真面目な話、純粋な生まれの高貴さだけで言えば、葵より〝上〟は皇女(ひめみこ)方だけになる。『光源氏』が迎えた正妻は、それだけ血筋的に揺るぎない。


 ――つまり。


「紫……! 申し訳ありません、北の方様。孫が大変な失礼を……!」


 いくら名乗られたからといって、自分より遥かに身分が高い人の名をすぐさま呼ぶなんて、礼儀知らずの誹りを受けても仕方がない振る舞いだ。この場合は、以前の時雨のように、身分高い人から自分の名を呼んでもらうのを待って、返礼的に名を呼び返すのが、貴族全般に普及している礼儀(マナー)なのだが。


「大丈夫ですよ、菊乃様。姫君……紫様のお年頃であれば、今はまだ、貴族の嗜みをお勉強なさっている最中でしょう。悪意があったわけでもありませんし、失礼などとは思いませんよ」

「先ほどからお優しいお言葉ばかり頂戴しまして……何とお礼を申し上げれば良いか」

「お礼など。わたしは本当に気にしませんから」


 頭を下げる祖母と、祖母を宥める葵を見て、小さな姫君は自分が何か〝やらかした〟と察したらしい。菊乃にしがみつくような体勢になりながら、涙を溜めてこちらを窺ってくる。


「ゆかり……何か間違えちゃった……?」

「いいえ。申し上げたとおり、とても丁寧なご挨拶でしたよ」


『原作』でも強調されていたが、『若紫』の特筆すべき気質として、〝どこまでも無邪気な素直さ〟がある。感情をありのまま表に出すのははしたないとされ、どんなときも泰然と構えて取りすましているのが高貴な姫君のあるべき姿とされている中で、『若紫』はまさに気質から、『光源氏』が好む〝世間並みでない女〟ドンピシャなのだ。

 この世界の〝若紫〟――紫もまた、『原作』が描く通り、無邪気で素直な気質を、パーソナリティとして宿しているようで。〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟な世界において、孫娘の先を案じる菊乃の気持ちは、正直なところよく分かる。


 ――しかし。


「本当? ゆかり、間違えてない?」

「ご挨拶は、とても丁寧でした。わたしは名前を申し上げましたから、聞いた相手の名を呼んでお話しするのも、基本的には間違っていません。紫様がお名前を呼んで差し上げねば、困ってしまう方は大勢いますからね」

「うん!」

「ですが、世の中には、紫様からお相手を呼ぶのではなく、お相手から紫様のお名前を呼んで頂くのを待った方が良い人もいらっしゃるのです。そういったお話を、聞いたことはありませんか?」

「えぇと……聞いたことあるかもしれないけど、忘れちゃった……」

「なら、良い機会ですから、今から覚えましょう。まずは、主上(おかみ)の〝妻〟でいらっしゃる、中宮様、女御様、更衣様。そして、主上、東宮様のお子でいらっしゃる、皇女(ひめみこ)様。――これらの方々は、絶対的に、紫様よりも上位の女人でいらっしゃいます。そういった方々にご挨拶申し上げる際は、お相手から名を頂戴した後にご自身の名を名乗り、お相手に呼んで頂いてから、名を呼び返すのがよろしいでしょう」

「そうなんだ……」


 前世で四人の弟妹をワンオペした葵は、小学生女児の扱いだってお手のもの。何なら、令和の女児たちのように何かと悪い大人の影響を受けがちな環境にない分、ただ賢くて素直なだけの紫は、そこまで対応に苦慮しない部類の子どもだ。今も葵の言葉を素直に受け取り、可愛らしい目を丸くしながら頷いている。

 紫は敏感に「この人は優しい大人だ」と察したらしく、現金なもので菊乃から離れ、膝で葵の方へにじり寄ってきた。


「上位の方々とお話しするときは、ゆかりからお名前を呼んではいけないのね?」

「その通りです。〝呼び名〟である幼名を名乗るとは即ち、お相手の方と親しくお話ししたいという心を伝える行為に他なりません。しかし、高貴な方々へ、下の者から馴れ馴れしく接するのは、あまり好ましく思われませんの」

「でも、どうすればお相手の方がゆかりより上位の方かどうか分かるの?」

「良い質問ですね。お相手の服装やその質、立ち居振る舞いなどである程度までは判別できますが、紫様のご年齢であれば、ひとまず年上の女人とご挨拶なさる際は、お相手からの名乗りを待った方が無難です。人の序列とは、社会的な身分だけでなく、年功によるものもございますので」

「ちょっと難しい……」

「仮にお相手の方の身分が紫様より下でも、お歳が紫様より上の方であれば、上位の方と接するように接しても問題はないということです。年上の方に敬意を払ったと見做され、紫様のお年頃ならば充分に、礼儀正しい振る舞いと周囲に感じて頂けるでしょう」


 分かったような、分からないような顔で唸る紫は愛らしい。この年頃であれば少し背伸びして大人びた言い回しを使う子も少なくない中、彼女の素直さは確かに美徳だ。


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