巡り逢ひて*其の四
目を丸くしつつ人を呼び、光明法師は感嘆の息を吐く。
「左府様の姫君でいらっしゃる北の方様が、かように細やかなお心遣いを……さすが、中将様の寵愛を一身に集めておいでのお方にございますね」
「そうでしょう。妻という素晴らしい女人と巡り逢い、夫婦の縁を結べたことは、私にとって生涯の誇りです」
「いや、まこと、お似合いのご夫婦にございますよ」
……これ以上この場にいては、褒め殺しの憂き目に遭いそうだ。呼ばれて来てくれた庵の女房が到着したところで、葵はそそくさと立ち上がる。すかさず楓が几帳を持ち、葵の姿を法師から隠した。
「……では、行って参りますね」
「うん。妹君に、よろしくお伝えしておくれ」
光と、法師にもやっと耳に届く声量で告げ、葵は女房の案内に従って、尼君の座所へと向かった。簀をぐるりと回ったので遠く感じるけれど、位置的には同じ主殿内、葵たちが通された室から斜め二つほど離れた庇に設けられた一間だろう。
中に入ると、小柴垣の間から見た尼君が、下座に座って平伏している。葵はやや慌てて歩み寄り、彼女の傍に膝をついた。
「どうぞお楽になさってくださいませ。お見舞いに参りましたのに、左様にお気を遣わせてしまっては、却って申し訳がございません」
「え……」
「お具合はいかがです? そのような姿勢で、苦しくはございませんか? どなたか、脇息をお持ちください」
「あの……」
顔を上げた尼君は、見るからに困惑していた。葵とて、招かれた客人の振る舞いとしてこれが褒められたものでないことは理解しているが、尼君の体調が真面目に良くないと知っている身としては、まず彼女の無理を止めさせることが第一である。庵の女房が持って来てくれた脇息で尼君に楽な姿勢を取ってもらい、ようやくホッとして距離を取る。
そのまま、上座には座らず、尼君の対面に腰を下ろした(葵の行動を察して、さっと円座を移動させた楓は、さすがに手慣れている)。
「突然の勝手を、失礼いたしました。どうぞお許しくださいませ」
「い、いえ」
「改めまして。源中将が妻、葵と申します。この度は、光明法師様のお招きにあずかり、夫とともにこちらへお邪魔いたしました」
「まぁ……」
通常、貴族同士の挨拶は、身分低い者から高い者へ先に行うことが礼儀とされているが、何事にも例外はある。出家した人は身分制度の外にいるとされているし、何かの分野でその道の第一人者とされ、尊敬を集めている人、さらに年長者など、要するに〝身分とは関わりないところで敬意を表するべき人〟と感じた相手には、身分高い者から謙って挨拶することもあるのだ。
今の場合、〝かつて公卿の妻として夫を支え、夫亡き後は御仏に仕える身となって徳を積んできた人生の先輩に、源氏の君の妻が敬意を表した〟と受け止められる。そういった挨拶は、むしろ通常のものより、格式高いとされるのが一般的。尼君が感激一歩手前の感嘆を漏らしたのは、そのような挨拶を受けたからで間違いないだろう。
ほんのわずか潤んだ瞳で、尼君はゆったり目礼した。
「このように見苦しい姿で、申し訳ございません。亡き按察大納言が妻、菊乃と申します。どうぞ心易くお呼びくださいませ」
「ご丁寧に、ありがとうございます。お言葉に甘え、菊乃様とお呼び申し上げますね」
尼君――菊乃がわざわざ名乗ってくれたのは、出家した人の〝名前〟の扱いは、俗世を生きている人以上にややこしいからだろう。長年使っていた〝幼名〟をそのまま呼び名として使い続ける人もいれば、それまでの俗世をすっぱる断ち切る意味合いで、生まれた時から使っていた〝幼名〟を潔く捨てる人もいる。捨てた場合は出家した際に新たな呼び名をもらうか、光明法師のように、いつの間にか通り名がそのまま対外的な呼び名になるケースも多い。
彼女が名乗った〝菊乃〟が幼名か出家後の呼び名かは分かりようもないけれど、最初にしっかり名乗ることで、こちらの「どうお呼びすれば良いのだろう」という戸惑いを潰してくれた。『原作』を読んだときにも感じたが、この尼君はなかなかにしっかりした考えを持った気遣い妙者であるらしい。
「この度、夫の中将がわらわ病を患いまして……北山に高名な聖がいらっしゃるという話を伺い、是非とも加持祈祷をお願いしたいと、山を登って参りました。祈祷は恙無く終わりまして、あとは一晩様子を見てから山を降りる予定だったのですけれど、京でもその名を知られた光明法師様も、聖と同じく北山に庵を構えておられるとは、思いもよりませんでした」
「北山に庵があるとは申せ、兄は月の半分以上を、京にて過ごしておりますから。私どもが身を寄せることとなり、女ばかりの庵を放っておくのも気掛かりなのか、ここしばらくは京へは足を運ばず、こちらで過ごしておりますが」
「菊乃様は、光明法師様にとって、血を分けた実の妹御でいらっしゃると伺っております。妹君のお加減が優れないとなれば、お兄様としてはご心配でしょう。ご遠慮なさらず、お頼りになってよろしいかと……」
「そうでしょうか。出家してなお、京の方々から重宝されている兄を、このように寂れた場所に留めておくなどあまりに罪深いと、朝晩の読経のたび、御仏にお詫び申し上げているのです」
「御仏もまさか、兄妹の情を捨ててまで、人々へ尽くすことを良しとはなさいませんでしょう。光明法師様は並外れた『調伏』のお力をお持ちですけれど、法師様ほどの実力でないにせよ、妖退治できる異能者は多くおります。京のことは京の者に任せ、菊乃様はただ、法師様のお優しさをありがたくお受け取りになり、養生に務めることこそ、兄君孝行にございますよ」
一応はお見舞いの人らしく、遠回しに「早く良くなってね」的な意味合いの言葉を伝えておく。貴族の礼儀として、招かれた先の病人を見舞うというアクションは起こしたが、葵と菊乃は今日が正真正銘の初対面。その状態で深い話ができるわけもなく、どうしても言葉が表面的になってしまうのは、この際仕方がないだろう。
表面的ではあっても、葵の言葉は本心から出たものだ。言われた当人は静かに目を伏せるだけのリアクションだったけれど、周囲に控える女房たちはうっすら涙ぐんでいたから、彼女たちとしても主の快癒が心からの願いなのは間違いない。
「法師様の庵に妹君のご一行が滞在されているとは聞き及んでおりましたけれど、まさかご病気でいらっしゃるとは思いもよらず……騒がしくしてしまい、申し訳ございません」
「とんでもないことにございます。源氏の中将様とその北の方様といえば、京では知らぬ者など居ない、比翼連理のご夫婦ですもの。そのような方々に庵を訪れて頂けたことは兄の誉ですし……源氏の北の方様に見舞って頂けるなど、老い先短い身には余りある光栄。人生の最後にこのような時間を持てたことを、御仏に感謝せねばなりません」
「まぁ、何を仰います。菊乃様にはまだまだお元気でいて頂かなければ……」
初対面の貴族あるある、上辺だけの誉め殺し合戦に突入しかけた会話の最中、ふと響いてきたぱたぱた走る軽い足音。うっかりそちらに気を取られ、言葉が尻すぼみになったところで、すぱんと襖が開かれる。
「おばあさま! 何をなさっているの?」
「姫様!」
「紫……!」
襖の向こう側にいたのは、韓紅の袙を羽織り、女童らしく振分髪を両耳の横だけ束髪にした、とびきりの美少女。
――先ほどの散歩で小柴垣の隙間から見た〝若紫〟が、瞳をきらきらさせながら立っていた。




