巡り逢ひて*其の三
***************
出かけに光がゴネる一幕はあったものの、実際はそこまで時間を無為にすることはなく、光に惟光、葵に楓を伴って、一行は福寿丸が追う牛車に揺られ、光明法師の庵までやって来た。葵も同行することは予め聞いていた法師によって、一行は庵の中心、寝殿造でいうところの主殿、その母屋へと通される。
もうすっかり日も暮れた夜、今宵は新月だからか、一際暗い。その暗さを紛らわせるためにか、庭の遣水のほとりには篝火が焚かれ、軒先の灯籠にも火が入れてある。来客のために整えられた屋は余計な華美さがない落ち着いた雰囲気で、さすが高名な法師様の庵と感じ入るものだった。葵のためにか、屏障具も充分に用意されている。楓が手早く整えてくれたスペースに、葵はそっと入り込んだ。
光明法師は、源氏中将を来客として出迎えられたことを心から喜び、いかにも法師らしく、この世の無常やあの世のことなどを説法してくれた。六道輪廻の考え方や、仏に帰依(要するに出家)することで現世の業から解き放たれ、極楽往生できるという話など、聞いていて非常に興味深い。これが千年先には、別に出家しなくても在宅で念仏を唱えていれば天国へ行けるし、何なら本人は何もしなくても子孫がきちんと供養すればやっぱり天国へ行けるという風に進化? していくのだから、宗教も時代とともにタイパ重視となっていくのかもしれない。何とも世知辛い話である。
「――それにしても、中将様が大変な愛妻家という話は伝え聞いておりましたが、まさかこのような山奥までご同道なさるほどとは存じませんでした」
一通りの説法を終え、雑談タイムとなったのだろう。そう切り出した法師に、言われ慣れた様子で光は笑った。
「私は、限りある人生の中で、可能な限り長い時間を妻と共に過ごしたいのですよ。法師が仰るように、この世が無常なものであるのなら、尚更に」
「左様ですか。ご立派なことです」
「皆、そう言ってくれるのですが。私自身は立派に振る舞っているつもりはなく、ただ心のままに動いているだけなのです。永遠などない、無常な世の中で、心から愛しく、大切に想えるひとと巡り逢えたのは、一つの僥倖でしょう。ならば永遠とはいかずとも、私の生が続く間くらいは、その僥倖を味わっていたい、とね。立派どころか、随分と俗な考えだと、たまに思います」
「とんでもない。人を純粋に愛し、ただその一人を妻として敬い、大切にする。なかなかできることではない、徳高いお振舞いですよ」
「そうでしょうか。今の世は、複数の妻を持つことが当然とされています。……特に、御位にあらせられる方は、ただひとりを愛することを、決して褒められはしません」
光の母、桐壺更衣の悲劇は、親世代以上の人たちには公然の秘密として伝わっている。彼が何を揶揄したのか、気付かぬ法師ではないだろうけれど、彼は大きく首を横に振った。
「至上の位に就かれる方には、煩わしいしがらみも多くございましょう。しかし私はやはり、女人にとって、夫の愛を他の女人と分け合うことは、耐え難い悲しみと感じます。そのような苦しみを北の方様へ与えず、比翼連理の夫婦でいらっしゃる中将様の徳は、やはりこの上ないと存じますよ」
「そうでしょうか……」
「そうですとも。恥ずかしながら、私も若い頃は、男女の仲について、それほど深く考えたことはございませんでしたが……妹夫婦に唯一授かった姪の亡くなり様を思うたび、男の身勝手な振る舞いの、何と罪深いことよと感じずにはいられません」
光にとって、初耳だったのだろう。一瞬だけ葵に視線を流したが、ここは話を聞くべきと判断したのか、静かに頭を下げる。
「姪御様は、逆縁でいらしたのですね……お悔やみを申し上げます」
「いえ……逆縁ではございますが、もう亡くなって十年ほど経ちますので。私も、妹も、心の整理はついております」
「親しい方を亡くされた心の痛みは、時の流れが慰撫してくれるとは申せども、完全に消えはしないでしょう。……その妹御とは、法師が仰っていた、こちらにご逗留されているという?」
「左様です。随分前に亡くなりました、按察大納言の妻でございました。夫を亡くしてのち、尼となって久しいですが、このところ、病み患うようになりましてね。女所帯では何かと不便も多かろうと、落ち着くまでの間、こちらに篭っているのです」
「そうでしたか」
光は頷くだけで尼君の話を終わらせたけれど、そんな話を横で聞かされた〝北の方〟として、そのまま流すのはよろしくない。訪れた先に病人がいるとなれば、その具合にもよるけれど、社交辞令であってもお見舞いを申し出るのが礼儀である。
背後に控えてくれている楓を振り返り、葵は静かに耳打ちした。楓は頷き、少し前に出る。
「お話を遮る無礼をお許しくださいませ。――法師様。北の方様が、よろしければ妹尼様へ一言お見舞いを申し上げたいと仰せにございます」
「……葵が?」
「おぉ、それはそれは。妹も喜ぶことでしょう。すぐに伝えて参ります」
法師は顔を輝かせると、自ら立ち上がって奥へと消えていく。母屋には他にも人の気配がするので、どうやら妹尼は西の対から主殿へ移っているらしい。
法師の姿が消えてすぐ、光は几帳をずらし、葵の顔を覗き込んできた。
「葵、大丈夫? 無理はしていない?」
「平気よ。あんな話を聞いて、黙っているわけにもいかないでしょう。左大臣家の姫で源氏の君の妻であるわたしが、お招きされた先のご婦人の具合が悪いと聞いたのにただ座っていただけなんて話が広まったら、右大臣派に何を言われるか、分かったものじゃないわ」
「……本当に、貴族は面倒だ」
「心の底から同感。でも、それはそれとして、あの尼君の具合は本当に悪そうだったから、心配なのも確かよ」
「あぁ……あの、小さな姫の行く末を案じてらした方か。声も確かに弱々しかったね」
「でしょう? 病で弱ったお体で、孫姫を養育していらっしゃるのだとしたら、気苦労も人一倍だと思うし。わたしが見舞うことで、少しでも気晴らしになるなら」
「そういえば、あの小さな姫は、あの方を〝おばあさま〟と呼んでいたね。つまりあの子は、十年ほど前に亡くなったという、法師の姪姫の娘御なのかな」
「たぶん、そうだと思う。法師様は、姪姫様の亡くなり様に、何やら思うところがおありみたいだったけれど」
光が話を畳んでしまったので、それ以上は法師も語らなかったが。まぁ、あの話の流れなら、不実な男とのよしなし事で心身を病んで亡くなったと概ねの想像はつくので、話を広げる必要性がなかったのは分かる。
そんな話をしてる間に、法師がにこやかに帰ってきた。今度は光ではなく、葵に向かって座り、頭を下げてくる。
「北の方様のお気遣いを、妹は大層ありがたいことと喜んでおります。支度をし、すぐに参りますゆえ、ぜひ見舞ってやってください」
「いえ――」
反射で声を出しかけて、慌てて扇を広げ、葵は素早く楓に目配せする。生まれたときからともにいる乳姉妹は、それだけで全てを察し、頷いてくれた。
「法師様。ご病気の方を見舞うのに、こちらまでご足労頂くのは申し訳ないと、北の方様は仰せです。ご案内頂ければこちらから参りますので、先触れの女房殿のみお願いできますでしょうか」
「……何と」
「私からもお願いします、法師。妻はこちらが心配になるほど、人を気遣う性格でして。妹御を歩かせてしまっては、却って気に病みかねませんので」
楓だけでなく、光も口添えしてくれたからか、法師は驚きながらも頷いた。




