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葵と光*其の二


 思った以上に混乱していた光に、思わず被っていた〝左大臣家の姫君〟のガワを脱ぎ捨てる羽目にはなったが、どうにかこうにか落ち着かせることができた。ここからの話は座ってするべきと、彼に座るよう促す。


 手探りで彼の手を握り、畳の上まで導いて――、


「葵……!」


 座った瞬間、抱き締められた。


「本当に、本当に、嫌っていない? 私は葵に、嫌われていない?」

「きらって、ないから! だからちょっと、落ち着いて」

「良かった……! 葵に嫌われたら、私は生きていけない……」

「嫌わないってば! ちょ、光、さすがに苦しい……!」

「あ……! す、すまない」


 十二歳は葵の感覚からするとまだ子どもだが、中学一年生と考えると力はそろそろ大人並みだ。葵は脳内スペックこそチートでズルして人並み以上だが、肉体はか弱い平安貴族女性のため、力の加減を忘れて抱き締められると、さすがに色々と厳しいものがある。

 葵の指摘を受け、素直に解放してくれた光は、けれど握った手だけは離さず、こちらをじっと見つめてくる。暗闇の中でも見つめられていると分かるほど、ひたむきに。


「……なんか、ごめんね」

「葵が謝ることなんて、何一つないよ」

「ううん。まさか、光がわたしのことを、そこまで気にしてると思わなかった」


 二年前に藤壺女御が入内し、これで『原作』通り、光の孤独は癒されると考えて、ろくな挨拶もないまま離れてしまった。あのときはそれが最善だと思い込んでいたが、『原作』等々を抜きにして振り返れば、あのときの葵はあまりに不義理だ。離れるにしてもせめて、「これからはあんまり来られなくなるけど、元気でね」程度のワンクッションはあって然るべきだったろうに。


「そういう奥ゆかしさも、葵の魅力だよ。あの頃は、私も言葉足らずだったから。私がどれだけ葵のことを好きか、大事に思っているか、もっときちんと伝えておけば、離れなければならない事情があったとしても、私を気遣ってちゃんと説明してくれただろう?」

「……まぁ、光にとってのわたしは、それなりにいる遊び相手の一人くらいだろうって思っていたのは確かだけど」

「ほらね? やっぱり、私の振る舞いがあなたを傷つけたのだと反省するくらいで、ちょうど良い」

「別に傷ついてもないってば。あのとき、後宮へ行かなくなったのは……わたしの方にも色々とやるべきことができて、時間を取るのが難しくなっただけだから」


 あなたのところへ行っていたのは秘密だったから、文も出せなかったし――と続けると、葵の手を握る光の手の力が少し強くなった。


「うん。そうだと良いなと思っていた。そうだと信じて、この二年、ずっと葵を探していたんだ」

「ずっと……?」

「葵が会いに来られなくなったなら、わたしから逢いに行けばいい。幸い、わたしは臣下とはいえ主上の子で、東宮の弟だ。葵にどんな事情があったとしても、あなたが望んでくれさえすれば、この手を離さないようにできるから」

「光……」

「まさか上達部(かんだちめ)の姫君とは思わなかったから、見当違いのところばかり探してしまったけれどね。――それでも、蓋を開けてみれば、周囲に整えられた縁談相手があなただったんだ。粋なことをなさると、天に感謝したよ」


 暗闇に目が慣れ、少しずつだが、光の表情が見えてくる。歓喜を隠すことなく乗せて、それでもどうにか理性的に話そうと自制する様は、思えば随分と大人びたものだ。……葵の知っている光は童姿で、元服した今は直衣(のうし)に烏帽子と成人男性の装いをしているから、装束マジックが多少かかっていることを割り引いたとしても。


「そうして再会してみれば、あなたは昔と違って、あまりに他人行儀で……私の名を知っているはずなのに、昨夜も〝源氏の君〟としか呼んでくれないし」

「それは……わたしだって、きちんとした別れも告げず疎遠になったあなたと、こうして縁づくことに戸惑っていたのよ。あなたはさっき、わたしに『嫌いになったのか?』と尋ねたけれど、わたしの方こそ、あなたに嫌われてるんじゃないかって、ずっと思っていたわ」

「私があなたを嫌うなんてあり得ない!」

「えぇ。あなたの情の深さに、感謝しなければならないわね」

「感謝など……」

「あと、これはもっと根本的な話なんだけど。今日はわたしの命で女房たちを下がらせているから、周囲に人気はないけれど、昨日はそうもいかなかったのよ」


 添臥の儀は、親王や皇族男子の元服に合わせて行われる、いわば〝成人式・夜の部〟だ。身分高い公卿家の、主に年上の姫が選ばれ、しきたりに従って一晩添い寝するというものだが、これの原型はもちろん、性的な意味での〝初体験〟であったと考えられる。いや、この世界の歴史研究はさほど進んでいないので、あくまでもソースは前世の研究論文だが。

 この時代ではありがたいことに〝初体験〟の意義は消失し、添臥の役目は祝詞を上げて添い寝するだけだし、他の諸々に関しても儀礼的な形しか残っていないが、その〝形〟の一つに、複数の見届け人が朝まで不眠で控えておく、というものがある。お世継ぎ問題へ直結するお偉方の性事情が監視対象なのは古今東西のあるあるネタだから、添臥の儀に〝見届け人〟がいるのも頷けるけれど――。


「さっきも言ったけれど、わたしがこっそり後宮へ通ってあなたと遊んでいたことは、この家でも片手で数えられるくらいの人しか知らないの。何も知らない人が近くにいる状況で、教えてもらってもいないあなたの幼名を呼ぶのも、こうして気安く話すのも、不自然極まりないでしょう?」

「……そういうことか。なら、私が昨夜、あなたの名を呼んでしまったのも、まずいな」

「あなたの場合は、父からわたしの幼名を聞かされていたみたいだし、大丈夫よ」


 これもまたこの世界の〝ちょっとした違和感〟に数えられるのだが、名前事情が葵の知識にある平安時代以上に複雑だったりする。正式な名付けが成人に合わせて、というしきたりは知識と変わりないが、その〝名〟は親しい人同士であっても、ほぼほぼ呼ばれない。基本的な呼び名は、生まれてすぐ授けられる〝幼名〟に統一されているのだ。〝幼名〟は〝名〟ほど取り扱いが厳重ではないので、親しい人同士の会話でポロッと出されることもままある。ただし、さすがに皇族ともなれば、よほどのことがない限り〝幼名〟が知れ渡ることはなく、(うじ)や官名で呼ぶのが通例だ。

 ちなみに光の場合、父である今上帝から授けられた〝幼名〟が〝光〟となるわけだが、彼の顔面がとんでもなく整っているため、いつしか世間がその美貌を讃えて〝光君(ひかるきみ)〟と称するようになった。親からもらった呼び名と世間からの通称が一致した、大変稀な例である。

 ついでに余談として付け加えておくと、では成人時に与えられる〝名〟は何に使うのかといえば、主に公的書類用と、もう一つ、神仏への加持祈祷用だ。天へ祈る際は本当の名を使うべきという理屈らしいが、普段使いしていない名前で祈ったところで自分ごとの感覚は薄いだろうから、神様仏様も誰に加護を与えれば良いか悩むだろうなと、令和価値観の葵はこっそり思っている。


「葵……」


 ――緩やかな風が吹き込み、御帳台の幕を揺らした。正面で、変わらず葵の手を握る光の瞳は、いつしか触れるほどに、近い。


「あなたが私を嫌っていなくて、私もあなたを想っているのなら……今宵、まことの夫婦となっても、構わない?」

「っ、ひかる、まって」


 耳元で囁かれ、くすぐったさにびくりとなる。まだまだ幼いはずの光のテクニックに内心感服するが、ここで流されるわけにはいかない。


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