巡り逢ひて*其の二
室へと戻ってきた光の表情は、どうにも晴れない様子である。
葵は首を傾げて光を手招きした。
「どうしたの? そんなに行きたくない?」
「いや……法師は立派な方だよ。あの庵だって、垣越しに見ただけだけれど、よく整えてあるのが分かった。訪れる価値のある家だと思う」
「じゃあ、どうして?」
「なんとなく……本当に、なんとなくだけれど。――葵は私に、行ってほしくないんじゃないかと思って」
告げられた彼の心に、葵は思わずポーカーフェイスを忘れ、純粋な驚きを顔に出してしまった。
誤魔化しようもなく図星を突かれたと分かる表情を見せたと自覚し、下げようとした視線を、膝をついた光の掌が遮ってくる。
ほとんどの場面で、分かっていて逃がしてくれる光だけれど、今は逃す気がなさそうだ。やや強引に、葵の視線を絡め取ってきた。
「そう、なんだね」
「……どう、して」
「…………葵は私を、見くびり過ぎだよ。私がどれだけ、あなたを、あなたの心を喪いたくないと思っているのか、知らないでしょう」
「そ……そん、なの」
逃げたくなる気持ちをグッと抑え、葵は敢えて気丈に、光の目を見つめ返す。
「いつも、言ってるじゃない。あなたが望む限り、わたしはあなたの妻で、あの家からどこへも行かない、って」
「そうだね。でも、思うんだ。――私たちの結婚は、あなたが左大臣家の姫として、政略婚の義務から逃げる気がなかったゆえに、結果としてそうなっただけ。あなたが、あなたの意思で、私を選んでくれたわけじゃない」
「そ、れは、」
「もしも、あのとき。父上と左府が、あの婚姻の決定権を、葵に委ねていたら。……きっとあなたは、私を選ばなかっただろう」
「!!」
……驚愕のあまり、今度こそ、葵は言葉を失った。光が、何も知らないはずの彼が、そこまで葵の内面に迫っているなんて、誰が想像しただろう。
目を見開いて固まった葵に、光は切なく、微笑んだ。
「……知っているよ。あなたは、私を嫌いなわけじゃない。むしろ、とても好いてくれている。言葉などなくても、葵はとても真面目で、素直で、優しいから。あなたの気持ちは、共に過ごした年月の中で、痛いほど伝わっているんだ。――ずっと昔、桐壺の庭で、秘密の幼友だちだった、あの頃から」
「……」
「それでも、葵の心はいつも、肝心なところが用心深く、隠されている。……それを、無理に暴こうとは、昔も今も思わないけれど」
「……」
「――〝隠されているもの〟が、葵を私から引き離そうとするのなら。〝それ〟が表に出てくるものを、葵が不安そうに見つめるのなら。そんなもの、私の人生には必要ないんだよ」
「……!!」
言葉が、出てこない。何か言わなければと思えば思うほど、思考は虚しく霧散して。できるのはただ、切々と訴えてくる光の眼差しを、受け止めることだけだ。
(このひとは、いつから)
いつから……何も言わない葵を、同じように黙って、ただ静かに見守ってくれていたのだろうか。これほど〝真実〟に肉薄していながら、葵が心に秘めている〝もの〟を確信しながら、それを暴こうなんて露ほども思わずに。どれほど用心深く、葵の〝恐怖〟を察し、正体も知らぬままに取り除こうと、心を配ってくれていたのだろう。
(わたしは……本当に、弱い。弱くて、愚かで、自分勝手だ)
光が、好きだと、愛していると言ってくれるのを、確かに聞いて、受け止めていたはずなのに。
たぶん、本当の意味で、彼の心を理解してはいなかった。
――これほどまでに深く、底知れない、その想いを。
(最初は、ただ、死にたくないだけだったのに。……光のくれる想いがあまりに愛おしくて、彼と生きる毎日が、信じられないほど、幸せで。いつの間にか、〝このひと〟を喪う『原作』の展開に、怯えてた)
そして、それすらも。
光は見抜いて、葵の心を、守ろうとしてくれる。
「……ん」
「……葵?」
「ごめ、ん。ごめんね、光」
「何を、謝って……」
「なにも言えなくて、なのに怖いばかりで、本当にごめんなさい。……わたしが怖がりなせいで、あなたを誰よりも信じているのに、不安に揺れてばかりで……」
「……うん」
「でも……これだけは、言える。確かに、光と結婚する前、わたしに選ぶ機会があれば、あなたとは結婚しなかったかもしれない。だけど今、あなたの妻であり続けるか、別れるか、そのどちらかを選べと言われたら――わたしは自分の意思で、あなたの妻であることを、選ぶわ」
「――!」
光の目が、大きく見開かれた。
その眼差しが歓喜に打ち震えるのを、うっとりと見つめて。
「ありがとう、光。ずっと、ずっと、守ってくれて。――愛してくれて、ありがとう」
「……当然だよ」
勢いよく抱き込まれ、光の腕の中で、葵は静かに目を閉じた。
少し痛いくらいに強く抱きしめてくれるのが、たまらなく嬉しくて。確かな現実を、彼の温もりで実感する。
「私の方こそ、ありがとう。葵が葵の意思で、私の妻であることを選んでくれるなら。望んでくれるなら。私はきっとこの先、何にだって立ち向かえる」
「光……」
「愛しているよ、葵。――あなたは私の、唯一の光だ。あなたを守るためなら、私は他に何を捨てたって構わない」
耳元で響く、光の言葉。声だけだからこそ、そこに込められた心が、想いの深さがダイレクトに伝わって、葵はゆっくりと、彼の背に腕を回し、頷いた。
「ありがとう。でも、わたしのために、あなたが何かを捨てる必要なんて、どこにもないわ。――あなたがわたしを守ってくれるように、わたしもあなたを、守りたい」
「葵……」
「せっかくのお呼ばれだもの。それに、光明法師様は京で名の知れた、ご立派な方なのでしょう? そういう方と個人的によしみを結んでおくことは、きっと後々、光の助けになるはずよ」
「……ほんとうに、葵は」
そう呟いた次の瞬間、光の身体が傾ぎ、そのまま畳へ押し倒される。
驚く間もなく、光の唇が降ってきて。一瞬だけ、深く、口付けられた。
「……っ、光! ここ、お寺よ!」
「葵が悪い」
「なんで!」
「自分が不安で潰されそうなときも、わがままを言ったって誰も責めないようなときでさえ、あなたは私を優先するから! 妻の、それほど健気でいじらしい様を見せつけられて、愛でたくならない夫はいない!」
「へっ、変な逆ギレやめてもらえる!?」
「葵こそ、私の忍耐力を試すようなことはやめて、たまには素直にワガママを言うべきだと思うよ?」
「私が何を言ったって、あなた大抵、『葵は可愛いね』で終わらせて閨へ連れ込むじゃない。忍耐力なんて元々ないでしょ!」
「それもそうだ。じゃあやっぱり、外出は無しにしようか」
「先方とのお約束は、ちゃんと果たしなさい! 曲がりなりにも社会人なんだから!」
「葵はたまに、よく分からない言葉を使うよね。あとで〝ぎゃくぎれ〟と〝しゃかいじん〟の意味を教えてもらえる?」
「教えるから、もう、早く出かける準備して!」
「……誤魔化されないか」
「ちょっと!」
意味不明の攻防戦へと突入した葵と光のやり取りは、「外出の用意は整いましたが、いつ頃お出ましになりますか?」という惟光の言葉を楓が伝えにくるまで、無駄に長々続いたのだった。




