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巡り逢ひて*其の一

本日より新章スタート!

いよいよ〝若紫〟が本格的に登場します!


 散策を終え、聖の坊の一室で、葵は光とともに休息の時間を取っていた。光の体調に問題はないけれど、今日は常になく活動的な一日だったからか、横になってうとうとしている。葵はそんな光の様子を見つつ、摘んだオウカコウの味を確かめ、これを飲みやすくするにはどうすべきか、『アーカイブ』に潜ってあれこれ考えていた。


「もし――失礼いたします。どなたかいらっしゃいませんか」


 そこへ、表の庭の方から、聞き慣れない声がした。控えていた楓が即座に簀の方へ出て、周囲を見回っていたらしい惟光が応対に出た音がする。


「はい、どちら様でしょう? ……おや、あなたは」

「これは惟光様、ご無沙汰いたしております。その節は、大変お世話になりました」

「あぁ、いえいえ。――〝光明法師〟のお弟子様でいらっしゃいましたね、確か」

「左様に存じます」


 おそらく、こちらへ届くようにだろう。〝光明法師〟の部分を少しだけ高い声で告げた惟光の意を汲んで、葵は光をそっと揺らす。


「光。……光、起きて」

「ん……? どうかしたの、葵?」

「寝てるところごめんね。表にお客様がいらしてるみたい」

「お客……?」


 光と小声で会話する間にも、庭での会話は続いていた。


「先ほど、人伝に、源氏の中将様がこちらにいらっしゃると聞きまして。そうと分かればご挨拶に参るべきでしたが、大層なお忍びでございましたので、何かのっぴきならないわけがあるのではと、正式なご挨拶は差し控えた次第に存じます。予めお知らせくだされば、旅のお宿もこちらにご用意しましたものを――と法師は申しております」


 ……なるほど、つまり。


「……偉い人も大変ね、光。勝手に来たのはこちらでも、あなたが居るのに挨拶しなかったとなると、京で立場が悪くなるのはあちらの方なんだもの」

「……正直なところ、こういう回りくどい貴族のしきたりは煩わしくて、私はあまり好きじゃないのだけどね」


 弟子を通じた光明法師の言葉は要するに、〝今まで挨拶しに来なかったのは、あなたを軽んじていたからではなく、どうやらお忍びみたいだったから、敢えてなんですよ~。言ってくれれば、すっごくおもてなししましたよ~〟という、偉い人を怒らせないためのヨイショだ。従者たちから聞いた話を総合するに、光明法師は宮中でも重んじられるほどの『異能』を持つ人物らしいが、それでも今上帝の息子には謙らねばならないということか。……光本人は、そうやって周囲が無駄に下がっていくことを、あまり快くは思っていないようだが。

 ため息を堪え、光は御簾外の楓を呼んで、こそこそ耳打ちする。楓は頷き、表の惟光へ光の伝言を伝えに行った。


「実は先日より、長くわらわ病を患っておりまして、こちらの聖のご祈祷が優れていると伺い、こちらへ参りました。しかし、その事情を人々へ広く告げれば、却って聖のご迷惑になりかねません。そう思い、密かに忍びでやって来たのです。こちらも敢えてお知らせしていなかったのですから、法師殿がお気になさることはございません。そのうち、そちらへも伺います。――と、中将殿は仰せです」


 こちらも遠回しな光の返答に、葵は苦笑するしかない。〝挨拶がないからって気にしませんよ。お忍びで来たのは私たちなので。歓待してくださるというなら、お言葉に甘えますね〟と直接言えたら楽だが、それでは風情がないというのが、この時代の〝雅〟なのだ。そんな言い回しを後生大事にするから、千年先で〝京都弁は優しげな言葉の裏に毒のある皮肉や悪口が含まれていて怖い〟なんて揶揄される羽目に……おっと誰か来た。


「中将様」

「惟光か。応対ご苦労だったね」

「いえ。この後すぐに法師殿がいらっしゃるそうです」

「そうか。ならば、表へ出ていないとね」

「急ぎ、隣の(へや)を整えます」

「頼む」


 休息にと通されたこの室はそれほど広くなく、光と葵と楓の三人が入って、そこそこに狭く感じる。もう一人入れなくはないけれど、さすがに高名な僧都を迎え入れる環境ではない。

 惟光が他の従者たちと協力して、隣の室を急ぎ整え終えたとほぼ同時に、光明法師の訪れが告げられた。光が隣へ移り、葵も襖越しに楓と二人、きちんと座って客を待つ。


「おぉ、これは中将様。ご尊顔を拝し、恐悦に存じます」

「ようこそ、光明法師殿。こちらこそ、お会いできて光栄です。さぁどうぞ、お座りください」


 やがて現れた光明法師の声は、先ほど垣間見た僧都と同じであった。やはり、あのとき尼君に〝兄上〟と呼ばれていたのが光明法師――あの趣深い僧坊の主で間違いない。かつては京で知らぬ者はいない人物だったという従者たちの話のとおり、声や話口調だけでも、世間から尊敬を集めていると分かる。人々の支持を得ている人間は、まず声から違うものだ。


 光明法師は光に山奥での暮らしぶりについて話し、自然の中で静かに御仏に仕える徳について説法している。対する光は、「私もいずれは……と考えていますけれど、まずは宮中で、父帝や兄東宮のお役に立ってからの話でしょうね」と返し、法師は感じ入った様子で「ごもっともなことです」と頷いていた。『光源氏』は何かというと出家が頭の片隅を過ぎり、しかし過ぎるだけで実際は最後まで俗世にしがみつくような男だった(『源氏物語』本編に、光が出家したり、亡くなったりする描写はない)けれど、光がジメジメと世の無情を嘆いているところは見たことがない。いずれ歳を取ったら世に倣ってするのだろうな、と考えている程度で、今は生きるのが楽しくて仕方ない様子である。


「病のまじないのためとはいえ、せっかくこのような山奥までいらっしゃったのです。変わり映えのしないところですが、いささか涼しい水の流れでもお目にかけましょう。よろしければ、拙僧の庵にておもてなしさせてください」

「それは、とてもありがたいお話ですが……妻もおりますので」

「もちろん、北の方様もご一緒にどうぞ。私の庵には、現在、妹尼の一行も逗留しております。女人をお迎えする準備も整ってございますよ」

「あぁ、いえ……」


(……変ね?)


 地方に京の貴族が訪れた際、近隣に住む有力者が自宅に招いて歓待するのは、一種の礼儀である。北山は地方というほど京から離れているわけではないし、光明法師は俗世から離れた身なので歓待の義務は(建前上)ないけれど、〝源氏の君〟と挨拶まで交わしながら自宅に訪れてもらえなかったとなると、後々立場が悪くなるのは法師の方だ。生まれたときから皇族である光がそれを理解していないはずもなく、あからさまに気が進まない様子を見せるのは彼らしくない。

 葵は楓に耳打ちし、「わたしも一緒に行くから、法師様のお招きに預かりましょう」と光に伝えてもらう。ややあって、言伝が届いたらしい光は、しばらくの間、何事かを思案して。


「……そうですね。せっかくの機会ですし、妻と共にお邪魔してもよろしいですか」


 にこやかに、しかし葵には光が何事かを案じていると伝わる声音で、光明法師へ答えた。対する法師は光の含みに気付かなかったようで、「もちろんにございます。では、私はひと足先に庵へ戻り、準備を整えて参りましょう。どうぞ、良き時に北の方様とお越しください」と弾んだ声で返してくる。

 それから二言三言会話し、法師が立ち去るのを見届けて、光は葵の待つ室へと戻ってきた。


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