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〝運命〟との邂逅*其の七


「まさか葵が精進料理の詳細を知らないとは思わなかったけれど……たぶん葵の周囲の人はみんな、まさか知らないとは思わず、伝えることもしなかったのだろうね」

「いや、さすがに精進料理に獣肉や魚を使っちゃいけないことは知ってるわよ?」

「じゃあ、卵もダメなのも分かるだろう? 卵からは鶏の子が生まれるのだから」

「えー……と。基本はそうなんだけど――」


 驚くほど中身のない会話をしながら、小柴垣でできた角を曲がってしばらく進んだ、そのとき。


「わああぁぁん、おばあさま~!」


 突如、静謐な集落に、場違いな子どもの声が響き渡った。それも、かなり元気な泣き声が。

 思わず光と二人で立ち止まり、次いで二人揃って、声のした方へ視線を向ける。今まさに通り過ぎようとしていた小柴垣の向こうから聞こえてきたため、覗き見するつもりは全くなかったけれど、視線を向ければ小柴の間から家の様子が見えてしまうのは必然。葵に見えたのだから、光にもばっちり、小柴の向こうが見えていることだろう。


 ――その庵の趣は、一目で、他とは違うと分かるものだった。小さいけれど寝殿造を模した建物が並び、その間は渡殿で繋がっている。葵たちは先ほど、かなり長く、かつ立派に整えられた小柴垣の横をまっすぐ進んで沿うように右へと曲がったから、おそらくこちらは西の対だ。建物までの距離が垣根からそう遠いわけではないので、そこにいる人たちの風貌まで、はっきり見えてしまう。なんとも、絵に描いたような〝垣間見〟のシチュエーションであった。


「まぁまぁ。そんなに泣いて、何事ですか。子どもたちと喧嘩でもなさったの?」


 そう尋ねたのは、僧衣に身を包んだ尼君。歳の頃は四十代くらいだろうか。現代日本ではまだまだ働き盛りだが、人生五十年なこの時代では、もう結構なご年齢である。その立ち居振る舞いと、僧衣であっても身綺麗に整えられた様は、どう見ても並の人ではない。間違いなく、出家前は身分のあった女性だろう。


「ひっく、えぐ、ううぅ~~~」

「泣いていては分かりませんよ。きちんとお話しなさいませんと」


 そんな彼女に宥められている、泣きじゃくっている女童が、先ほど静寂を破った声の主だろう。あの年頃特有の、背に広がる扇のような黒髪に、泣きじゃくって真っ赤になった頬。〝おばあさま〟と尼君を呼んでいたということは、彼女の孫か。そう思って見れば、確かに二人の顔立ちには似たところがある。

 泣きじゃくっていた女童は、祖母に諭され、しゃくり上げながらも必死に涙を掌で拭い、ぐっと顔を上げて祖母を見る。


 そして、言った。


「雀の子を、犬君が逃してしまったの。籠を伏せてちゃんと入れておいたのに」


(やっぱり――!!)


 薄々、確信はしていたけれど。やはり、あの泣いている少女こそ、『源氏物語』におけるメインヒロイン――後に『紫の上』となる、光の〝運命〟だ。……分かっていたことではあるけれど、葵が光に同行したところで、『原作』の流れを妨げることなど、できるはずもない。


(光の、様子は……)


 顔を上げた少女は、とてつもなく可愛かった。現代日本にいれば、間違いなく芸能界にスカウトされて、子役か少女雑誌のモデル、はたまたアイドル研修生になっていたであろう、可愛らしさだ。おめめはぱっちりくりくりしていて愛らしく、鼻筋はすっと通って、柔らかそうな頬は薔薇色に輝き、唇は絶妙にふっくらして、しかし大き過ぎることも小さ過ぎることもない。今の時点でこれほど可愛いのだから、将来美人になることは間違いないし、この子にそっくりな藤壺女御、そして藤壺女御にそっくりであったという桐壺更衣がどれほどの美女か、一瞬で想像できてしまう。……そういえば、心なしか、幼い頃の光の面影すらあるような。


(……だめかも。どうしても、光の顔が見れない)


 尼君に「あなたはどうしていつまでも子どもっぽいのでしょう。私が死んでしまったら、どうするつもりなの。もっと分別をお持ちにならなければ」と諭され、しゅんと肩を落としている少女の姿は、同性である葵から見ても格別に可愛い。葵がそう思うのだから、藤壺女御の顔を見知っている光にはもっと、愛らしく見えるのではないか――そう思えば思うほど、葵は光の方を向くのが怖くなってくる。

 少女を挟み、尼君と女房が優雅に和歌を詠み合っていた(余談だが、〝前世〟の記憶がある葵には、平安時代を代表する歌の文化がどうしても、現代日本の「誰が上手いこと言えと」ムーブにしか見えず、慣れるまで割と苦労した)ところに、いかにも立派な風貌の僧都が一人、やってくるのが見えた。


「おや。今日に限って、このような端近においでなのですね。ここの上にお住まいの聖の坊に、京より源氏の中将殿がいらしているとの話を、つい先ほど耳にしましたので、お知らせに参ったのですが」

「まぁ、京よりお客様が? 大変、見苦しいところをどなたかに見られてしまったかしら」

「随分と念入りにお忍びされているようで、これほど近くにおりますのに、お見舞いにも参上していないのですよ。世間で評判になっていらっしゃる〝光君〟のお姿を、あなたも拝見してはいかがですか」

「兄上。何と俗なことを仰るのです」

「はっはっは。私は京で拝見しましたが、俗な世から離れた法師にとっても、この世の悩みや苦悩を忘れ去り、寿命すら伸びるかと思うほどのお美しさなのですよ。しかも話によると、このような山奥まで北の方様をお連れになるほどの愛妻家でいらっしゃる。良縁の御利益もおありかもしれませんぞ」


 そんな会話が交わされている間に御簾が下り、室内の様子は見えなくなる。僧都が「お話を聞いた以上、私もご挨拶へ参らねば」と言っているのを聞いて、葵は光とともに、無言でその場から立ち去った。……客が来ると分かった以上、散策はここまでだ。

 言葉を交わすことなく、来た道を逆に辿って、僧坊の集落を離れる。

 離れた、ところで。


「……いや、気恥ずかしいね。私に良縁の御利益があるなんて」

「えっ」

「え?」


 思わぬことを思ってもみない喜色満面のテンションで言われ、先ほどまで光の顔を見られなかったことも忘れて、葵は彼を凝視してしまった。目の前の光は葵の反応に困惑した様子で――それ以外はこれまでと何一つ変わらない、愛情に満ちた眼差しで、葵のことを見返してくる。


「どうかした、葵? 随分驚いているようだけど、まさかあなたも、私に良縁の御利益があると思っていたの?」

「あ、えっと……そもそも光のことを神様の類と思ったことないから、御利益とか考えたこともない、けど」

「だよね? ――じゃあ、何に驚いたの?」


 そう尋ねてくる光に、〝運命〟を感じた様子は微塵もない。

 その様子に、勇気を得て。……葵は、これまでにない〝一歩〟を、踏み出す。


「さっきの、尼君とか、そのお孫さんとか……彼女たちを垣間見て、光は何か、感じなかった?」

「うん? 尼君が心配していらっしゃるように、随分と幼い姫だなぁ、とは思ったよ? 私と出逢った頃の葵より歳そのものは上だろうけれど、あなたがあれほど幼かったことは、過去に一度もないだろう?」

「まぁ……わたしは大人びた子だったから。じゃなくて、確かに言動は幼い雰囲気だったけれど、でも、将来が楽しみな美人さん、だったじゃない?」

「そうなの? 女人の顔をまじまじと見るのは失礼だって葵が言っていたから、思わず目にはついたけど、はっきり見てはいないんだよね。話は聞こえたけど」


 思ってもみなかった光の返しに、誤魔化しようもないほど安堵してしまった。……光が〝運命〟と巡り逢うことをこれほど恐れる心の動きが――『葵の上』の死と関わりのない『若紫』との出逢いに揺れたこの感情を何と呼ぶのか、もう、知らないフリはできない。


(ずっと、ずっと……死ぬまで、〝姉として〟穏やかな気持ちで、このひとを想えたら、良かったのになぁ)


『葵の上』が『光源氏』に恋をしても、行き着く先は地獄でしかないと、知っていたのに。


(わたし……もう、光の隣を、誰にも譲りたく、ない)


 黄昏の光が山桜を淡くも鮮やかに照らす、春の北山で。

 葵は恋を、受け入れた。


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― 新着の感想 ―
ここまでの流れを見てたら紫への反応はそうなりますよね これで安心して夕霧が産めますね(ニッコリ)
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