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〝運命〟との邂逅*其の四


 葵とて、今世で実際に海を見たことはない。葵の科学クラフトに貝殻の粉(つまり炭酸カルシウム)は実のところ必需品なので、父左大臣のコネで定期的に邸まで運ばれてはくるけれど、その貝殻が集められている海は〝前世〟の記憶、および『アーカイブ』所蔵の知識でしか知らない、が。


「船着場の近くに住めたら、異国から入ってくる珍しいものをすぐ手に入れられるし。左大臣家も船を持っているから、必要なものがあれば京から送ってもらうこともできる。物が手に入り易いって点では、山より海かなぁと思う」


 指先一つで頼んだものが、早いとその日のうちに自宅まで届く。そんな便利な〝前世〟を覚えている身としては、山暮らしの不便さに耐えられる気がしない。都に住んでいる今でさえ、たまにもどかしいくらいなのだ。京から離れるならせめて、物が手に入りやすい場所でなければ、有り余る時間を持て余してしまう。

 葵の明け透けな言葉をどう思ったか、光は面白そうに笑う。


「確かに。山だと、荷物を逐一運び入れるだけでも大変そうだものね」

「高いところからの景色は魅力的だけれどね。実際、ここからの眺めはとても良いもの」

「京は見えるかな?」

「京の方を見るなら、南側じゃない?」


 二人の会話を聞いた従者たちが「京はこちらの方角です」と案内してくれる。山頂を背にする形で見下ろす京側の風景は、登ってきた山桜の花霞が一望できる、まさに絶景であった。


「なんて素晴らしい景色だろう。山は不便だと葵は言うけれど、この景色を見ながら暮らせると言うだけで、何にも代え難いものがあるよ」

「光の言うことも分かるわ。利便性を取るか、風流を取るか……難しいところね」

「……あの、北の方様」


 不意に話しかけられ、葵は光と共に、声をかけてきた従者を見た。何度か顔を見たことのある、光の従者――名前は、確か。


良清(よしきよ)か。どうした?」


 そう、確かそんな名だった。父親は播磨守(はりまのかみ)で父左大臣の配下の一人であり、その息子の良清がちょうど光と歳の頃も合うため、従者として引き合わせられたのである。元々父の配下の子だったこともあり、良清は光に対してと同じくらい、葵のことも重んじてくれていた。

 光に名を呼ばれた良清は、畏まりつつも滑らかに話す。


「畏れながら……北の方様は海にご興味がおありとのこと。山には山の、海には海の、この世のものとも思えぬ風景がございます。近いところですと、我が父が任ぜられております播磨の明石の浦は、とりわけ格別かと」

「まぁ……明石の浦、ですか?」

「左様です。何か特別なものがあるわけではないのですが、海を見渡したその先の景色が、不思議と他の海とは違って広々としているのですよ」


 良清の説明になるほど、と思う。〝明石〟は〝前世〟でも千年間地名の変わらない土地の一つで、現代日本では淡路島との間に明石海峡大橋が架かっている、西日本の観光名所だ。明石の浦から海を見ると、淡路島越しに、遮るものが何もない広大な太平洋が広がっているのだ。その景色は確かに、一見の価値があるだろう。


「なるほど、明石か。京からもそれほど離れているわけではないね。一度足を運んでみるのも、悪くはないな」

「はい、是非に。父も喜ぶかと」


 笑顔で頷いた良清に、他の従者が首を傾げる。


「おい。明石といえば、お前が前に話していた、海の龍王のお妃が住まう土地ではなかったか?」

「なんだ。あんな話を覚えていたのか」

「あんな印象的な話を忘れられるものか。えぇと……確か、(さき)国守(くにのかみ)の娘、だったか?」

「おい、中将様と北の方様の御前だぞ。雑談は控えろ」


 話し込みそうになった二人を別の従者が諌めるが、逆にそこまで聞いてしまったら、続きが気になる。……それに何となく、今の話に既視感もあるのだ。


「わたしたちに気兼ねは無用ですよ。夕刻まで、特に何をすることがあるわけでもないのですから」

「そうだね。気も紛れるだろうし、良ければ続きを聞かせてほしいな」


 そういうことなら、と一行は岩屋へ戻り、帰ってきていた楓が淹れてくれたお茶を飲みつつ、良清の話の続きを聞いた。――かなりざっくりとした、いずれ出てくる『源氏物語』の重要登場人物、『明石の君』とその父親、『明石の入道』の話を。


 とある大臣家の血筋でありながら、宮廷勤めが肌に合わず国守となり、しかし赴任先でも思うところあったらしく、まだ若い妻子を抱えた身で出家した変わり者――それが『明石の入道』だ。その『明石の入道』が出家前、妻との間に授かった娘こそ、いずれ『光源氏』と結ばれ子を授かる、『明石の君』である。

『明石の入道』は赴任先で落ちぶれてしまったことを無念に思い、一人娘の『明石の君』を都の身分高い男の妻とし、彼女が授かった娘を入内させ、入内させた孫娘に東宮を産んでもらいたいという、壮大かつ迂遠な展望を抱いている。宮中に仕える公卿であれば、生まれた娘を女御にし、天皇の寵愛を得て、東宮となる皇子(みこ)を産んでもらうのが栄華の代名詞のようなこの時代にありがちな夢といえば、それまでだが。都落ちした『明石の入道』に娘を入内させる力はなく、まずは娘を権力者の妻とし、その権力者に孫娘を入内させてもらい、ひ孫を東宮から天皇へ――という〝考え〟になったのだろう。

 結論から先に述べると、『源氏物語』内で、『明石の入道』は見事本懐を遂げる。『明石の君』が産んだ娘、『明石の女御』は入内した先で天皇の寵愛を一身に受け、やがて東宮に立つ皇子の他、数多の皇子皇女を出産するのだ。『明石の入道』のみならず、『光源氏』一族の繁栄を揺るぎないものとした功労者こそ、『明石の君』の娘、『明石の女御』なのである。


 ――もちろん、『若紫』の現段階で良清が語る噂話では、葵が知るような突っ込んだ事情までは語られない。『明石の入道』のバックボーンと、彼が〝特別の考え〟を抱き、手塩にかけて育てている娘がいると、触り程度に語られるのみだったが。


(改めて、紫式部ってすごい……メインヒロインが登場するこの『若紫』の帖で、『光源氏』の子を産む女性三人を登場させてるんだ)


 少し気になったので、良清の話を聞きつつ、葵は密かに『アーカイブ』へ潜り、先ほどまで読んでいた『若紫』の続きを読んでみた。すると、まさに今良清が口にしたそのままの噂が、『良清』によって滔々と固られているではないか。〝並外れて風変わりなことに興味を持つ性分〟と従者たちに思われている『光源氏』が、いたく興味を唆られている描写付きで。


(『若紫』って、全五十四帖中の五帖目……序盤も序盤なのに。この時点で、ここまで伏線を張り巡らせているなんて)


『明石の君』が出てくるのは物語の中盤、『葵の上』が死んだ後だ。本来であればこの時期の『光源氏』とは知り合いようもないところを、〝従者の噂話〟というトリッキーな手法で主人公が一方的に知っているという関係性を構築させた。一体いつから物語の全体図を描いていたのか……千年読まれる物語の作者は、やはり並の頭脳をしていない。

 ……そんな天才が描いた通りに、目の前で良清が明石の話を披露する様は、どこか薄寒いものを葵に抱かせはしたけれど。


「ふぅん。明石にはそんな変わり者が住んでいるのか。付き合わされる家族はいい迷惑だな。娘についての特別な考えと言うけれど、当の娘もそれを望んでいるのか、大いに怪しいんじゃないかい?」


 肝心の、〝主人公〟であるはずの光が、やっぱり『光源氏』とは全く異なるリアクションをとってくれるから。葵の心は、あと一歩のところで、絶望へ転がり落ちずに済んでいる。


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― 新着の感想 ―
この光が政争の結果流される事はなさそうだし 自発的に明石に行くハメになるのかなあ
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