〝運命〟との邂逅*其の三
「……」
『アーカイブ』で『源氏物語』を読書中、不意に視線を感じて顔を上げると、光と話していた聖が、こちらをじっと見つめている。女人の旅衣装である壺装束の常として、今の葵は市女笠を被り、虫の垂れ衣を垂らしているから、意識がどこかにいっていても、バレることはないはずだが。
少し気まずくなり、何となく視線を合わせると、聖はスッと視線を下げ、背後に座る小坊主たちを手招いた。小声で、屏風や几帳を持ってくるよう指示を出している。女人がいるから気を遣ってくれているのか、葵の佇まいを見て屏障具が必要な身分の女人と判断したのか、微妙なところだ。
屏障具の他にも、彼は小坊主たちに的確な指示を飛ばし、あっという間に、通された岩屋を立派な祈祷場へと変貌させてしまった。〝加持祈祷の修行が疎かになっている〟という言葉が、ただの謙遜でしかないとよく分かる。
準備が整った岩屋に視線を巡らせた聖は、ゆっくり一度頷くと、足を庇いつつ立ち上がった。
「これにて、場の用意は整いました。拙僧は一度失礼し、護符に必要な薬草など、揃えて参ります」
そう言って下がる彼は、歩行こそ杖の助けを借りていたが、まだまだ現役引退しているようには見えない。これは、期待できそうである。
「……姫様。ご祈祷前に、光様のお薬を作らなくてよろしいのですか?」
「えぇ。少し気になることがあってね。一度、聖様のご祈祷を拝見してからにするわ」
そう。実は、最初に聖の話を聞いたときから、気になっていたのだ。――彼が昨年、流行したわらわ病を即座に治した、と聞いたときから。
(もしかして、と思ったら、やっぱり北山にはオウカコウが自生していたし。これはもしかして……)
やがて岩屋へ戻ってきた聖は、手元に用意した薬草を広げ、護符という名の薬を作り出す。葵は身を乗り出し過ぎないように気をつけつつ、彼の作業行程を注意深く観察した。
そして、見つけた。
(やっぱり……! 護符の材料の中に、オウカコウが入ってる)
その他の薬草も使われているが、薬草と調薬手順を見る限り、彼の護符がオウカコウを主軸としているのは確かだ。オウカコウは〝前世〟の現代社会でも抗マラリア薬として使われていたくらい、優れた薬効を持つ植物である。それを使っている聖の護符は、おそらくこの〝概ね平安時代〟において、わらわ病の治療薬として最も優れているだろう。
(この方が、徳のある優れた僧侶でいらっしゃることは、間違いないけれど。病の加持祈祷に特化した『異能』持ちというわけではなく、彼の作る護符がたまたま、わらわ病の特効薬だったということで、どうやら間違いなさそうね)
専門家が薬を作ってくれるなら、素人の葵がわざわざ『アーカイブ』に潜ってまで出しゃばることもない。採取したオウカコウは邸へ戻ってから、干すなり粉にするなりして保存しよう。……山を降りてからも、しばらくは服薬した方が菌を死滅させられるだろうし、採取したことは無駄にならないはずだ。
そんなことをつらつら考えながら、護符を飲み終わった光が加持祈祷を受ける様子を見守って。
――儀式が一通り終わる頃には、日はすっかり登り切っていた。
「お疲れさまでございました。しばらくはお勤めもございませんので、しばし楽にお過ごしくださいませ。夕刻、またご様子を拝見しに参ります」
「朝早くから押しかけて悪かったね。聖の読経のおかげか、気分も晴れやかになったようだよ」
「もったいないお言葉を……ありがたいことです」
聖が下がったタイミングで、楓と惟光が動く。例によって例の如く、「少人数のお忍びとはいえ、お邪魔することに変わりはないのだから」と言い含めて、お供えと祈祷料を持ってきているのだ。寺に着いた時点でお供え品を仏前へ供え、無事に祈祷してもらえたら加えて祈祷料を支払うように伝えておいたから、祈祷が終わったところで、楓と惟光はその話をしに行ったのだろう。
二人の背を、几帳越しに見守って。祈祷の間は外していた市女笠を被り、葵はゆっくり立ち上がる。足が痺れていないことを確認して、祈祷場の光の元へと向かった。
「光、お疲れさま。具合はどう?」
「あぁ、葵。付き合ってくれてありがとう。……そうだね、取り敢えず、あの護符はとても飲み難かったかな」
「オウカコウは独特の風味があるからね。他の薬草も入っていたけど、オウカコウの風味をマシにするようなものはなかったし」
「そうなのか……葵が摘んでいた薬草が護符に使われていたのは分かったけれど、あんなに味が良くないとは思わなかったよ」
「良薬は口に苦し、よ。オウカコウが使われている護符なんだから、間違いなく、わらわ病には効果があるわ」
「葵が断言してくれるなら、はるばる来た甲斐もあったね」
顔を見合わせ、二人で笑う。
安心した様子の光に、見守っていた従者たちもほっとした様子で声をかけてきた。
「中将様。ご祈祷もお済みになったことですし、外へ出て気分転換なされては?」
「よ、よろしければ、北の方様もご一緒に」
「それは良いね。今日は天気も良いから、景色がよく見えるだろう」
頷いた光が立ち上がり、葵に手を伸ばしてくる。ありがたくその手を取り、従者たちの導きに従って、二人は岩屋を出た。――眼下には、山の木々に埋もれるように幾つも建つ、いかにも僧坊な建物が見えた。
(……あれ?)
並び建つ僧坊の中に、一つ、ぱっと見でも周囲と趣が違うと分かるものがある。基本的な造りは周囲の僧坊と同じであるものの、小柴垣を塀のようにぐるりと周囲に巡らせ、建物だけでなく渡殿もきちんと立て並べ、庭の木立もどこか京風の、趣深いものなのだ。周囲とあからさまに違うだけに、ひとかどの人物が建てた庵室なのだろうとすぐに分かる。
横で景色を眺めていた光も同じものが目に入ったようで、「立派な僧坊だね。誰が住んでいるのだろう」と半ば独り言を呟いた。
「かつて世間で尊敬を集め、光明法師と呼ばれたお方が、ここ二年ほど篭っておいでのところのようですよ」
「光明法師というと、『調伏』の実力は京随一と謳われた、あの光明法師かい?」
「左様にございます」
「なんと……そのような立派な方が住んでいらしたとは。忍びゆえ仕方ないとはいえ、そのような方とお目にかかれる格好ではないね」
「心配しなくても大丈夫よ。あなたはとにかく、顔が良いもの。格好だって目立たないように高価すぎるものを避けているだけで、最低限の品位は保っているわ。誰と会ったって、恥ずかしいことにはならないから」
そんなどうでも良いことを話している間に、件の庵の庭に大勢の女童が出てきて、庭仕事や仏の世話をしているのが見えた。……寺には基本、ここのように僧侶見習いの小坊主が住んでいると思っていたが、何事にも例外はあるのか、あるいは。
(……まぁ、知ってるんだけど、ね)
光の従者たちは口々に、「あんなに女童がいるということは、あそこに女人が住んでいるのだろうか」「まさか、高名な法師様が女を囲っているわけもないだろうし」「いったい、どんな人が住んでいるのか」と言い合っているが、主人の光は興味がなさそうだ。「遠目とはいえ、あまり女性がお住まいのところをじろじろ見るものじゃないよ」と従者たちに注意し、葵をそっと抱き寄せてくる。
「葵は、こういう山の中で暮らせるとしたら、どう? 暮らしたい?」
「そうねー……人目を気にせず発明に集中できるのは、助かるけど。山って案外物流不便だし、京から離れて住むなら、山より海の方が興味あるかも」
「海?」
「そうそう、海。光も実物は見たことないわよね?」
「そうだね。絵巻物で見たことがあるくらいかな」
京生まれ、内裏育ちの光にとって、京の外は全て未知の存在だろう。なにしろ、人生初の遠出が今まさに進行中なくらい、彼は生粋の京っ子なのだ。




