若紫の住む山へ*其の四
何事にもそつのない野萩によって、光が体を拭き、新しい衣装へ着替え終わった頃、部屋まで食事が運ばれてきた。野萩たちが御帳台を整える邪魔にならないよう、北庇で食事することにする。メニューは、光用に作ってもらった消化に良い粥と栄養価の高い幾つかの副菜だ。わざわざ光と別のものを用意してもらうのも申し訳ないので、ここのところ葵もずっと、光と同じものを食べている。
食べながら、予め言い置いていた通り、北山の修行僧についての話をすると。
「それほど腰を悪くしていらっしゃる方を呼びつけるなんて、とんでもない。明日であれば熱も上がらないだろうし、暗いうちに都を立てば、日が昇る頃には北山へ着けるはず。これ以上病を長引かせて左近衛の皆に迷惑をかけるのも忍びないし、私の方から参ることにしよう」
「あなたならそう言うんじゃないかと思って、惟光には旅支度をするように言ってあるわ」
「……さすがだね、葵」
「お供は、どうする? 必要なら、お兄様にも声を掛けるけど」
「俗世を離れ、静かに修行しておいでの方の元へ、大人数で押しかけるなんて無粋だろう。ないとは思うが、私だと明かして大仰に訪ね、万一祈祷が効かなかったら、口さがない者たちの噂に北山のお方を巻き込んでしまうことにもなりかねない。夜明け前に少ない人数でこっそり京を発って、名は告げないまま祈祷を受け、私たちが居ないことに気付かれないうちに戻るようにするのはどうかな?」
光の言葉は澱みなく、『若紫』の冒頭そのままを綴っていく。そうして、完全なお忍びの様相を整え、訪れた北山で。
(このひとは、運命の出逢いを果たす――……)
「――葵?」
『原作』を辿ったその一瞬、葵の意識は飛びかけていたのかもしれない。光に呼ばれ、我に返って彼を見返すと、目の前の夫は何やら思案げに、葵をじっと見つめていた。
「……な、なに?」
「忍び歩きの達人に、助力を求めているんだよ? 何しろ、実現すれば、これが私にとって初めての、正体を隠した遠出だ。素性を完璧に秘めた状態で、幼い頃から内裏の中と外を自在に出入りしていた達人に、是非とも力を貸してもらいたいね」
「ち、力を貸す、って……」
「私はもちろん、惟光たちだって、忍び歩きなど慣れてはいないんだ。ここは、この道十年以上の先達者に連れ添ってもらって、危うい振る舞いがないよう、助言してもらうのが最善だろう?」
「ええぇ???」
『紀伊守邸への方違え』に続いて『北山での加持祈祷』まで、『原作』にはない『葵の上』同行を求められるとは。光の体調はもちろん心配だし、葵も行ったことのない北山であれば、もしかしたら京では流通していない薬草が自生している可能性もあるわけで、葵とて行きたくないわけではないけれど。
「いくらなんでも、無茶でしょう? 女連れで山登りなんて!」
「北山は、それほど険しい山ではないだろう? 牛車で行けるところまでは行くし、あなたと楓に負担がかからないよう、配慮はいくらでもしよう」
「気遣いはありがたいけど、やっぱり良くないと思う。物見遊山ならともかく、あなたは病を治してもらいに行くんでしょ? いくら供を少なくしたって、女を連れて行ってしまったら、行き先の御坊様に何と思われるか……」
「御坊にお叱りを受けたら、元気になった姿を真っ先に妻へ見せたかったのだと、私がちゃんと説明するよ。徳の高い方でいらっしゃるそうだから、こちらの事情にいちいち口を出すような真似は、そもそもなさらないだろうけれど」
「それは、そうでしょうね……」
世の中には、見識高い人格者のフリをして他人の事情にズカズカ踏み込み、説教の体で好き勝手な持論をぶちまけてくる輩が一定数いるが、客観的に見た場合、そういった人物が人格者に見られることはほとんどない。良くてお節介が度を過ぎている人と見られ、大抵は無神経で非常識だと遠巻きにされる。
本当の人格者は、他人が触れてほしくないと思っていることに、無闇と踏み込まぬもの。北山の修行僧が、徳高い〝聖〟と称されるほどの方であるなら、妻を帯同したところで何を言うこともないだろう。
(『原作』で描かれている修行僧も、余計なことは言わない仕事人、って雰囲気だったし)
……だから、分かっている。北山へ葵が同行することに、表向きは不都合などない。それでも躊躇う気持ちが生まれてしまうのは、単純に、『原作』を知るがゆえの葛藤でしかないのだ。
(一緒に北山へ行ってしまったら……光が若き日の『紫の上』、『若紫』を垣間見て、一目で恋に落ちる現場に、居合わせてしまうかもしれない)
幼き日に桐壺の庭で出逢ってからずっと、光は葵に好意的なままだ。大きくなって再会し、夫婦となり、幼馴染ゆえの気安さから来る好意だと思い込みたかった葵とは裏腹に、光は行動でも言葉でも、「他ならない葵が愛しい」と告げてくる。……これほどの愛を与えられ、包まれてしまってはもう、光の心を疑う余地はどこにもない。彼は確かに、葵を、葵だけを、見てくれている。愛して、くれていると。
(疑う余地など少しもないのだから、信じ切れたら、楽なのに。……〝この世界〟は、まるで呪いのように、『原作』をなぞるような〝現実〟を突きつけてくる)
光が葵の目の前で、葵以外の女人を気にした素振りを見せたことなど、これまで一度もない。『原作』で彼が永遠に恋焦がれる女性として描かれる『藤壺女御』と同じ経緯で入内し、現在、今上帝の寵愛を一身に受けている〝藤壺に住まう女御〟は確かに存在しているし、その彼女は当時を知る人曰く、やはり光の生母である桐壺更衣にそっくりらしい。けれど、光が藤壺女御について、葵の前で何かを語ったことは一度もないのだ。
(だから、光は『光源氏』とは違う……そう信じたい気持ちと、見せられぬほど深く秘めているのではと不安に思う心が、いつだって、わたしの中で闘っている)
桐壺更衣にそっくりだという藤壺女御。その藤壺女御にそっくりなのが、『原作』通りならば、これから北山で出会う『若紫』だ。
……もしも、この先の時間が『原作』と同じように過ぎて。光が、『若紫』に該当する少女を見つけ――深く秘めているものを、表に出してしまったら。それを、間近で、目の当たりにしてしまったら。
(今更……ここまで深みに嵌っておきながら、この想いの沼から、わたしは抜け出せるのかしら。ちゃんと、光の幸福を第一に、彼が〝運命〟と巡り逢えた幸運を、祝福してあげられる?)
その覚悟が、ないのなら。
いっそ何も知らぬフリをして、彼の帰りを待っていた方が――。
「葵」
ぎゅ、と強く手を握られ、葵ははっと顔を上げた。
恐ろしいほど真剣な顔をした光が、葵の顔を静かに、強く、覗き込んでいる。
「ひ、かる……」
「あなたは……きっとまた、私には語れない『託宣』を、神から授けられているのだろうね」
「それ、は、」
「いいんだ。語りたくないことは秘めたままで構わないし、それを責めるつもりもないよ」
ただ、と、いつになく語気を強めて、光はまっすぐに、葵の瞳を差し貫いた。
「何も言わなくていいから……私と、共にいてほしい」
「光……」
「葵は、私と一緒に北山へ行くのは、嫌?」
「いや……じゃ、ない。いやって、わけじゃ、ないの」
「なら――共に、行こう」
あぁ――。
(結局、わたしは。いつも、このひとの、わたしだけを映すこの瞳に、抗えない――)
『原作』をなぞる〝世界〟に、心が揺さぶられるたびに。
葵を引き戻してくれるのは、いつも、いつだって、『原作』とはまるで違う姿で凛と〝在る〟、光そのひとなのだ。
「……えぇ。あなたと、一緒に行く」
握られた手を、いつの間にかすがるように握り返して。
葵は、静かに、しっかりと、頷いた。
このお話を書くに辺り、ど素人ながら平安時代について色々と調べているのですが、やはり数百年の長きに渡って繁栄し、歴史に残る文化を築いた時代なだけあり、現在の科学文明から見ても合理的と思える風習が多くありました。病の加持祈祷で薬飲んでるなんて、普通に知らんかったよ……
そういう注釈をちょくちょく入れるので、文字数嵩みがちにはなりますが、お付き合い頂けると嬉しいです!




