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葵と光*其の一


 光の〝添臥の儀〟から、まる一日が経過した。平安時代の通い婚におけるしきたりは、婿が三夜、同じ家に通うことで成立する。それは、〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟なこの世界でも変わらない。


(――来た)


 室内を夜闇が満たす中、燭台の灯りだけが時折風に揺れる。今宵ばかりは貴族家の姫君らしく、御帳台(みちょうだい)の内で息を殺していた葵は、外で密やかな声がざわめき、その後、誰かの足音が近づいてくるのを、さすがに緊張して待ち構えた。


(暮らして実感したけど、寝殿造の家屋って、防音性能はほぼゼロに近いのよね……)


 知識としては知っていたが、寝殿造の建造物に〝壁〟という概念はほぼ存在しない。廊下と室内を区切るのは蔀戸(しとみど)と呼ばれる、現代人感覚で言えば細かい格子の外開き窓(ただしガラス無し)だし、室内の仕切りは主に御簾、次点で几帳、たまに屏風だ。いずれも木製、布製の、隙間はスッカスカな仕様のため、雨風はともかく音は遮れない。平安文学を読んでいると「プライバシーとは……?」と言いたくなることがままあったが、この環境では個人情報保護など叫ぶだけ馬鹿馬鹿しいなと納得した。

 ちなみに、室内で唯一、四方を壁に囲まれている部屋は塗籠と呼ばれ、この部屋だけはある程度の防音機能を備えている。家によっては寝所として使っているらしいが、左大臣邸、特に葵の座所である東対(ひがしのたい)において、塗籠は完全なる貴重品保管倉庫だ。葵が『アーカイブ』によって生み出したあれこれは、モノによっては数百年以上時代を先取りしており(調子に乗って発電装置と蓄電池を開発してしまった、今は反省している)、さすがに世間へ出せないと判断した父左大臣による措置である。

 ――それはともかく。


(遮音も防音もないから、どうしようもないけど! 暗闇の中で来訪者の足音だけが近づいてくるのって、地味に怖い……!)


 源氏物語然り、落窪物語然り、とりかえばや物語然り。有名どころの平安文学では、ほぼ確実に姫君の同意を得ないボーイミーツガールが描かれるが、まともな灯りもないこの時代の同意無し住居侵入など、侵入される側からすればちょっとしたホラーどころではない恐怖体験だったろう。『源氏物語』で唯一と言って良い、姫君側の了承を出している立場の葵ですら、普通に怖いのだから。


「……葵?」


 近づいてきた足音が、御帳台の前で止まって。数拍の沈黙の後、外から名を呼ぶ声が響く。外からの訪れ人をひたすら待つことしかできない、そんな相手の心を気遣う優しい声に、緊張からか握りしめていた手から、ふっと力が抜けた。


「……どうぞ、お入りくださいませ」


 音に出した返答は、思っていたほど、震えていなかった。また何拍か数えてから、ゆっくり、ゆっくりと御帳台の布が揺れ、そっと人影が入り込んでくる。


(あぁ……立派に、なった)


 昨晩は、緊張と混乱で、きちんとその全貌を捉えることは叶わなかった。視線を絡ませるなり触れてきた彼とじっくり語らうこともなく、ただ添臥として、儀式を滞りなく進めることしかできなくて。

 こうして覚悟を決めて向き合って、ようやく。懐かしい幼友だちと再会できた喜びが、胸の内からじわじわと沁みてくる。


「随分と、背が高くなられましたね」


 入り込んで、そのまま立ち尽くした彼へ、こちらから声を掛けてみる。明るい陽ざしの下、互いの表情までしっかり見えていたあの頃とは違い、今の自分たちは暗闇の中、手探りで距離を詰めていくしかない関係だ。光が実のところ、さほど人間関係に器用でないことを知っている自分が、まずは歩み寄るべきだろう。


「葵……」

「はい、源氏の君」

「その……やはり、私はあなたに、嫌われてしまったのだろうか」

「はい?」


 突然の脈絡ない質問に、脳内が純粋な疑問符で埋め尽くされた。今夜の対話の方向性如何でこちらが嫌われる覚悟は決めていたが、葵の方に光を嫌う選択肢はない。何がどうしてその結論、と質問が飛び出す前に、光が一歩、足を踏み出す。


「いや、分かっている、分かってはいるのだ! 二年前、突然あなたが私の元を訪れなくなったのは、きっとあの日、私があなたに嫌われるようなことをしてしまったからだろう、と。それなのに、昨夜の私は、あなたに逢えたことを嬉しく思うあまり、あなたの気持ちも考えず無遠慮に触れ、自分勝手に振る舞ってしまった。昔、あれほどあなたに、相手の気持ちを蔑ろにして自分の思いばかり押し付けてはいけないと、教えてもらったのに」

「いや、あの、源氏の君……」

「この婚姻にしても、いくら父上と左大臣殿から勧めて頂いたとはいえ、まずは文なりで、あなたの心を問うべきだった。左大臣殿の姫君の幼名が〝葵〟だと、歳の頃や伝え聞く風貌からもあなたに間違いないと確信を得て、あなたの夫に選ばれたのだと舞い上がって、肝心のあなた自身の気持ちを置き去りにするなど……」

「分かりましたから、あの、少しわたしの話を、」

「あなたから教わった大切なことを、何一つ実践できていない。こんな私など、嫌われて然るべきとは分かっているが――」

「――だからちょっと待って、光!」


 思い出した。この幼友だちは、なまじ頭が良くて一途なだけに、一度考え込むとどんどん自分の中だけで思考の迷宮に入り込み、明後日の結論を導き出す、暴走気味なところがあったのだ。初めて彼の特性に触れたときは、「なるほど、この暴走気質が如何なく発揮された結果が、あの『光君』なわけか」と妙な納得を得た記憶がある。

 そういうときは、ちょっと強引にでも、迷宮入りした思考を引っ張り戻さねばならない。婚姻の儀二日目の新婦の振る舞いとしては異例中の異例だろうけれど、葵は御帳台の中で立ち上がると、背が伸びたとはいえまだ自分よりは低い光の頬を両手で挟み、ぐいと強引に視線を合わせた。


「あのね、誤解。それ、全部誤解だから」

「ご……かい?」

「そう、誤解。わたしは二年前も、今日までだって、一度も光を嫌ったことなんてないよ」

「ほん、とう、に?」

「うん。わたしが、嫌ってる相手に、わざわざ自分から触りに行くと思う?」

「思わ、ない」


 夜の闇が濃すぎて、室内の燭台の灯も遠い御帳台の中では、光の表情もほとんど推測しかできないが……触れてみた感触からするに、顔の強張りは解けたようだ。葵は笑って、「とりあえず、座ろう?」と促す。


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