若紫の住む山へ*其の三
去り行く楓の後ろ姿を見送って、母屋へと戻る。光が休んでいる御帳台の傍には、野萩が先ほどと変わらない姿勢で控えていた。
「野萩、ありがとう。光の様子はどう?」
「先ほど、お水を一杯、召し上がられました。意識もはっきりしてきたようで、熱の峠は越されたかと」
「時間通りね。一度熱を測りたいから、体温計を持ってきて。あと、熱が下がったら汗を拭いて着替えもするだろうから、その準備もお願い」
「寝具も取り替えられますか?」
「そうね。その方が良いと思う」
マラリアは蚊が媒介する病で、人から人へ感染するわけではない。飛沫感染や空気感染のような感染対策は必要ないけれど、発熱時の汗が染み付いた寝具よりは、洗い立ての寝具の方がよく休めるはずだ。
葵の指示に頷いて、野萩は部屋の隅に置いてある体温計(作り方はそう難しくないけれど、水銀自体が取り扱い危険物なので、まぁまぁ苦労した)を持ってくると、一礼し、そのまま部屋を下がっていく。野萩なら葵のやりたいことを理解し、過不足ない用意を整えると分かっているので、彼女へ特に注意を向けることはなく、葵は御帳台の外から声を掛けた。
「光、起きてる?」
「あ、ぁ。葵かい?」
「休んでいたところ、ごめんね。入っても良いかしら?」
「もちろんだよ」
光は常々、自分に対して入室の許可など取らずとも良いと言ってくれるけれど、やはり親しき仲にも礼儀ありだ。というか、夫婦などそもそも赤の他人なのだから、人への当たり前の気遣いを忘れた瞬間、関係性が悪くなることはあっても良くなることはないだろうと、葵は常々――何なら前世から、思っている。
御帳台の中、畳に敷いた寝具に横たわる光は、確かに先ほどより、顔色は落ち着いている。荒かった呼吸も穏やかになりつつあって、葵は内心、ほっと胸を撫で下ろした。……マラリアの場合、熱が引いたイコール治ったにならないところが厄介ではあるけれど。
「具合はどう? そろそろ熱が下がる頃かなと思うんだけど」
「そうだね。少し前より、感じる熱さは和らいでいるよ」
光がマラリアを発症してから、既に十日以上が経過している。三日熱マラリアはおよそ48時間周期で発熱が繰り返されるため、少なくとも5回は発熱発作が起きているのだ。光自身、今は熱がある、今は下がっていると、何となく体感で分かっているらしい。
葵に促され、光は体温計を脇に挟む。何となく雑談しながら5分測って(本当は10分実測がベストなのは知っているけれど、病人に10分も起きていてもらうのは忍びないので、5分で妥協している)、返却された体温計が示す体温は、37.5度。……思った通り、灼熱期は過ぎつつあるようだ。
「……うん。もう少ししたら、熱は完全に引くと思う。そうしたら一度汗を拭いて、着替えて、食事にしましょう。熱がない間に、少しでも食べて、体力をつけておかないとね」
「葵が看病に精通しているおかげで、通常のわらわ病より、随分と楽に過ごせている気がするよ。本当にありがとう」
「大したことはしてないわ。全部、対症療法だもの。……わらわ病に効く薬の〝知識〟だってあるのに、肝心の材料が見つからないせいで、調薬できなくて」
「そんなことを気にしていたの? 葵は充分過ぎるくらい、私を助けてくれているよ。それに、葵が病まで治してしまったら、僧侶や祈祷師たちの仕事がなくなってしまう。彼らのためにも、あんまり頑張り過ぎないで」
「なぁに、それ。変な理屈ね?」
〝概ね平安時代〟な〝この世界〟において、特に貴族が病を得た場合、まず出てくるのは加持祈祷を生業とする人々だ。〝前世〟の平安時代でも、病は人に何か悪いものが取り憑いたがゆえに引き起こされるものと考えられていた。実際、病の原因の多くは目には見えない細菌やウイルスなわけだから、その考え方もまるっきり的外れとは言えない。ただ、多くの病がお祈りでは治らないこともまた、確かで。
現代の医学知識を持つ葵は、病を治すより病に罹らないよう予防する方が確実と判断し、〝前世〟の記憶が蘇ってからずっと、病気予防対策を左大臣邸に敷いてきた。その結果が、最初のクラフトに石鹸を選ぶという、今から振り返ればなかなかの難易度なやらかしだったわけだが。
――が。こうして光がマラリアに感染し、邸に僧侶や祈祷師が代わる代わる訪れるようになって、分かったこともある。
(加持祈祷って、単に火を焚いてお祈りするだけじゃなかったのね。〝取り憑いた物の怪がその身体を嫌がるように〟って彼らが飲ませる護符は、簡易的な薬湯だもの。マラリアには効かないけれど、ごく普通の風邪なら、あれでも効果が見込めるはずよ)
あくまでも簡易的な煎じ薬のため、風邪の諸症状緩和くらいの効果しかないけれど、薬を飲んで、加持祈祷のために高温多湿になった部屋で数時間篭れば、発汗作用が促され、結果として風邪の治りは早くなるだろう。〝病のときは加持祈祷〟というセオリーは意味のない風習でなく、ある程度、当時の経験則に裏付けられた医療行為だったわけだ。実際の平安時代がどうだったかは知らないが、少なくとも〝この世界〟での加持祈祷が、有効な対策の一つであることは間違いない。……〝前世〟の平安時代と違い、物の怪や生き霊といったファンタジー要素があるらしい〝この世界〟では、実際に悪霊的なモノに呪われる体調不良もあるわけで、そういうときは〝祓〟の『異能』持ちの修験者でなければ対処できないらしいし。
――そんなことを考えつつ、ポツポツ光と雑談していると、湯桶を抱えた野萩が戻ってきた。背後に付き従う女房は、どうやら光の新しい単や指貫を持ってきてくれたらしい。野萩に言い含められているのか、衣装箱を置くと、彼女はそのまま一礼して下がっていく。
感謝を込め、御帳台の中から女房の背を見送って、葵は野萩へ視線を移した。
「お湯をありがとう。光のお世話は私がするから、野萩は食事の支度をお願い」
「厨房には伝えてございます。お二人のお食事中に、失礼ながら御帳台の中を整えて参りますね」
「さすがね。任せるわ」
葵の答えを聞き、再び野萩は下がっていく。野萩が御帳台の前に置いた湯桶を引き入れている間に、光は寝具から起き上がり、単をはだけさせていた。
「熱が下がるたび、葵に身体を拭いてもらうのも、気恥ずかしいものだね」
「拭くって言っても背中だけでしょう? 他は光が自分で拭くもの」
「当たり前だよ。葵は私の妻であって、乳母でも女房でもない。身の回りの雑用をさせるために、私は葵と結婚したわけじゃないからね」
「良い夫を得られて、わたしは幸運だわ。でも、本当に身体が辛いときは、遠慮なく頼ってね?」
「……あぁ、頼りにしてる」
視線を合わせて、にこりと笑い合う。湯桶に添えられた柔らかい木綿布を湯に浸し、軽く絞ってから、光の背に回って丁寧に拭いていった。……光は雑用と言うけれど、〝前世〟で弟妹たちを育てた記憶が色濃く残っているせいか、こういう〝お世話〟は正直なところ、嫌いじゃない葵だったりする。
「あ、そうだ。食事のときに、話したいことがあるの。数日前に、惟光が話していた北山の修行僧のことなんだけど」
「あぁ、昨年流行ったわらわ病を、たちどころに祓ったという僧侶の話か。そんな優れた者に診てもらえるなら、とてもありがたいけれど、どうだろうね」
「詳しくは、食事のときにね。とりあえず、北山で変わらず修行してはいらっしゃるそうよ」
軽く本題だけ伝え、背を拭き終わった葵は布を光に手渡して、着替えを用意するため、御帳台を後にするのだった。




