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若紫の住む山へ*其の二



  ***************



 秋の終わりに時雨を見送り、忙しない冬支度を整え、何かと忙しい年末年始を越えて。雪深い冬を清少納言ごっこ(かの有名な『香炉峰の雪いかならん』の一節を再現してみた)などで楽しく過ごし、やがて桜の季節が訪れた頃。


 結婚してからこれまで、風邪一つ引いたことのない健康花丸優良児だった光が、高熱を出して床についた。


「ぅ……あおい、済まない。あなたに看病などさせて……」

「病人がそんなこと気にしないの。今の光がするべきことは、適切な治療を受けて、しっかり休んで、早く病を治すことよ」

「そう、だね……」


 通常、光のような通いの婿が病を得た場合、婚家ではなく自宅にて療養するのが一般的である。しかし左大臣邸の場合、撫子が生まれたのを機に葵が「とにかく、乳幼児がなるべく死なない環境を!」と奮起した結果、世間にはあまりお披露目できない医療グッズ(体温計や保冷保温用品、簡易的な解熱鎮痛剤などなど)が豊富に取り揃えられている。どう考えても、光の自宅である二条邸より左大臣邸の方が病人に適した環境であると判断した惟光以下、光腹心の従者たちに看病を頼まれ、葵はもちろん、二つ返事で引き受けたのだ。


 ――に、しても。


(およそ48時間周期で繰り返す発熱と、発熱時の悪寒、激しい頭痛、そして慢性的な貧血。何より、数週間前、光は「季節外れの蚊に刺されて、なかなか腫れが引かない」と言っていたわね……)


 これは、たぶんアレだ。〝前世〟の現代日本では撲滅したが、世界的に見れば充分怖い病気であり続けている、マラリアである可能性が極めて高い。発熱発作の周期が48時間だから、おそらく熱帯性ではなく、三日熱マラリアと呼ばれる種類の病気だろう。

 蚊が媒介する感染症、マラリア。葵の〝前世〟では、日本にいる限り縁のない病であったが、根絶の歴史は意外と浅く、1960年代までは症例が報告されていたという。要するに、〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟なこの世界では、全然現役な、珍しくもない病気なのである。


(……それに何より、『若紫』の冒頭って、『光源氏』がわらわ病を患うところから始まるものね)


『雨夜の品定め』から始まった『箒木』の時間しかり、『大弐の乳母の見舞いに五条を訪れる光源氏』から始まった『夕顔』の時間しかり。これまでは概ね、『原作』に記された物語冒頭のイベントは、大きな差異なく〝この世界〟でも発生している。『紀伊守邸への方違え』も、まるで予定調和の如く決まっていた。その後の展開が、『原作』をかするだけで全然別の方向へと進行していったから、結果的に〝この世界〟は『源氏物語』と似て非なる存在となりつつあるが。

 だと、したら。


「――失礼いたします。姫様、表に惟光が参上いたしました」

「ありがとう、野萩。(ひさし)にて対面しますゆえ、光様を頼みます。――楓」

「はい、姫様」


 東の対は決して人手不足ではないが、光の看病は基本、この場にいる三人の仕事である。理由は単純で、葵が『アーカイブ』の知識頼みで作った看病グッズの数々を気後れなく扱えるのが、ここにいる三人だけなのだ。いくら道具が便利であろうと、扱う人間の知識と技術が足りなければ意味はない。

 光の乳兄弟である惟光がわざわざ参上したということは、葵に聞かせたい話があるのだろう。そう判断し、光のことは野萩に任せて、葵は楓とともに庇へ出て、円座(わろうだ)の上に腰を下ろす。庇と簀の間には御簾がかけられているため、庭で跪いている惟光が葵の顔を見ることはないだろうけれど、念のため扇を広げて顔を隠した。


「惟光殿、ご苦労様でございます。北の方様、おいでになりましてございます」

「北の方様にご挨拶申し上げます。中将様が乳兄弟、惟光、参上いたしました」

「ご丁寧に、痛み入ります。北の方様にお伝えすべきお話がおありとのこと、よしなにお話しくださいませ」


 御簾の内、外との境のすぐ近くに楓が座り、惟光との会話を代返してくれる。結婚してそろそろ六年、光の従者たちとの付き合いもそれだけ長くなったはずだが、どうも彼らは葵のことを、〝左大臣家が世間に秘して育てた掌中の珠であり、神秘の力を宿した高貴な姫君〟と無駄に崇めている節があった。そのせいか、こうして直接対面する際は、いつもとんでもなくかしこまっているのである。葵の本性は最初から光にバレバレのため、彼の従者たちに対し猫を被る意味は皆無なのだが、今更イメージを崩すのも申し訳なくて、葵はわざわざ楓を間に挟み、高貴な姫君風を装っていた。

 葵の前だからか、膝をついてかしこまったままの惟光は、楓に水を向けられ、いっそう深く頭を下げる。


「はい。源氏の君の病におかれましては、京に住まう僧侶の加持祈祷に効果はなく、伝手を辿って北山に住まうという優れた修行僧にお越し頂けるよう、手配しておりました。……しかし、先ごろ届いた返事によりますと、その僧侶は腰を悪くし、山を降りることも儘ならぬとのこと。源氏の君のご病状を鑑みるに、是非ともご祈祷をお願いしたいのですが、いかがいたしましょう」


 なるほど。やはり『原作』ママの展開である。

 であれば、この後の流れも既定路線だろうけれど、当の本人の意思を無視して突っ走るわけにもいかない。

 葵は扇の影から楓にヒソヒソ返事を伝え、楓は少し驚いた様子ではあったものの、問い返すことなく頷いた。


「もうじき、源氏の君の発作も治まりましょう。その時分に一度、君のお考えを伺って参ります」

「ありがとう存じます」

「――ですが、北の方様のお考えによりますと、おそらく源氏の君は、修行僧が動けないのであれば、こちらから赴けば良い、と仰るのではないか、と。源氏の君がそう仰ってすぐ北山へ参れるよう、惟光殿を始めとした従者の方々は、遠出の準備をなさるのがよろしいでしょう、とのことです」

「……は! 畏まりまして!!」


 一瞬、思わずのように呆けた顔を上げた惟光であったが、呆けていたのは本当に一瞬であった。勢いよく頭を下げ、機敏な動きですっくと立ち上がり、「御前、失礼いたします」と立ち去っていく。そこに、葵の言葉を疑う気配はミリもない。


「あっさり信じていましたね……」

「惟光は光の最も信頼する乳母の子で、幼い頃から共に育った乳兄弟でしょう? なら、わたしにとってのあなたのように、光の経験したことは何でも共有しているはず。光がわたしの『アーカイブ』を『異能』と信じて、たまに未来視のような言動をすることも、聞かされていて不思議じゃないわ」

「あぁ、なるほど。姫様の『託宣』を又聞きされているのなら、そのお言葉を疑う余地はございませんね」


 納得する楓に頷き、葵はゆっくり立ち上がる。


「光の熱が上がり切って、そろそろ5時間が過ぎる頃よ。もうしばらくしたら熱は下がるから、そうしたら食事を摂ってもらうついでに、北山の修行僧のことを話してみるわ」

「修行僧のお話を聞いた光様は、御自ら向かうと仰る――それも、『原作』が示す〝未来〟ですか?」

「……そうなる、わね」

「承知いたしました」


 頷いた楓は、葵が先ほどまで座っていた円座を手に、「私も一度下がり、準備をして参ります」と御簾の外へ出ていった。……北山へ行くのは光と従者たちだけのはずだが、楓のあの感じだと、ついて行こうとしているのだろうか。まぁ、出かける準備そのものは、したところで特に無駄にはならない(マラリアに効く漢方の材料はないか、割と頻繁に市へ出ている)ので、問題はないだろうけれど。


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