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若紫の住む山へ*其の一

本日よりいよいよ新章、『若紫』のスタートです!


『箒木』『空蝉』『夕顔』の物語に従って、時間は進む。――割とちょくちょく、『原作』から逸脱しながら。

 例えば。『原作』で『光源氏』と『空蝉』間の文使(ふみづかい)をしていた『小君』――時雨の弟であり、家人として東の対に引き取った(まこと)が主に姉へと運んでいるのは、光ではなく葵の手紙だったり。光が主上の遣いとして六条邸へ赴き、御息所である椿と対面を果たし、「私はどうやら、御息所にひどく嫌われているらしい」と首を捻りながら帰ってきたり(あの椿が理由もなく人を嫌うとは思えないので、光が知らない間に無礼をやらかした可能性を考え、念のために謝罪の手紙は送っておいた。椿から「葵が謝ることは何もないのよ。何か困ったことがあれば、いつでも頼ってちょうだいね」と返事が来たので、光が気にするほど嫌っているわけではなさそうだ)。


 ――夏頃、光の乳母であった惟光の母が体調を崩したため、五条にあるという家へ光が見舞いへ行き、「大弐の家はもちろんだが、隣の家の夕顔も見事だったよ」と話してくれたり。

 光が乳母の見舞いへ五条を訪れるのは、かの有名な『夕顔』の帖の冒頭である。光の乳母、大弐の隣家に夕顔が自生していたのも、『原作』と一致する。『夕顔』となるはずの夕花は、ずいぶん昔にそのルートから逃れているため、扇に気の利いた歌を詠んでうっかり主人公の興味を引いてしまうイベント自体は不発だったようだが。

『夕顔』が始まったと察した葵は念のため、兄一家の住む西の対へ遣いを出し、夏も暑いので無理のないように、何か体調に異変があればすぐ知らせてほしいと伝えておいた。あの話で『夕顔』に取り憑いたのは、『六条御息所』か、あるいは『光源氏』が『夕顔』を連れ込んだ荒屋に住み着いていた物の怪か、学者の間でも解釈が分かれるところらしいけれど、現状、そのどちらも夕花とは関わりがない。大丈夫だとは思うけれど、看病の甲斐なく『原作』通りに命を落とした先の東宮の例もあり、油断はできないと考えてのことだった。

 結果――もちろん、夕花の身に変わったことなど一つも起こらないまま、逆に「急にあのようなお手紙を下さるなんて、もしかして葵様のお加減が悪いのではと思いまして」と心配した夕花に見舞われる、なんて一幕がありながら、季節は秋へと移り変わって。時雨の夫である伊予介(いよのすけ)が上京してきて、なんと時雨と連れ添い、東の対へ挨拶にやってきた。


紀伊守(きいのかみ)の邸にて、北の方様にはひと方ならぬご厚情を賜ったと、妻より伺っております。私が源氏の君へご挨拶に行くと言いますと、妻も久方ぶりに北の方様にお会いしたいと申すもので、こうして連れ立って参りました」


 そう挨拶する伊予介は、紀伊守の父親なだけあって時雨とは確かにかなり歳が離れていたけれど、『原作』に描かれていた通り、立派な風体の実直な男性であった。伊予介に後ろめたいことなど何一つない光は、任国の土産話をする伊予介に「実際のところ、伊予の湯桁はどれくらいあるんだい?」と楽しそうに尋ねるなど、終始和やかな雰囲気で。少し離れた場所で、時雨と歓談していた葵は、リラックスした様子の光にほっと胸を撫で下ろした。

 時雨もまた、夫たちの会話を聞きながら、ほんの少しだけ眉根を下げ、口を開く。


「伊予介は、次に任国へ下る際、わたくしを同道するつもりだそうです。……まさか京から離れる日が来るなんて、思いも寄りませんでした」

「……もしも、気が進まないのなら。夫から伊予介殿へ伝えて、京に残れるよう計らいましょうか?」


 そっと尋ねると、時雨は穏やかに微笑み、首を横に振った。


「初めての場所へ赴くことに不安はありますが、このまま夫と離れて過ごすなど、それこそ妻とは申せませんでしょう。……色々ございましたが、今のわたくしは正真正銘、伊予介の妻ですから」

「時雨様……」

「京から遠く離れた伊予の地では、教養を学びたくとも学べない女も多いはず。わたくしは伊予介の妻として、伊予の地に住む者たちの力になれたらと……そう、考えております」

「それは……とてもご立派な、素晴らしいお志ですわ」


 葵の言葉に明るい笑みを返す時雨は、もう、自らの不遇を嘆いて過去を引き摺ってはいない。置かれた状況を受け入れ、その上で未来の展望を描く、前向きな女人となっていた。


「ただ――京から遠く離れては、葵様との文通も途絶えてしまうのではないか、と。京と伊予では、さすがに真も文を運べませんでしょう?」

「その長距離を真に往復してもらうのは、少々気の毒ですね。――頻度は落ちますが、夫にお願いし、これまでと変わらず時雨様とお手紙をやり取りできるよう、計らってもらいましょう」


 そんな冗談を交わして時雨と別れ、変わらぬ日々を過ごす中、気づけば秋は終わりへと近づいていた。『原作』ではこの頃、『光源氏』は『夕顔』との密会を重ね、荒屋に連れ去って一晩過ごしたことで死なせ、それが元で気鬱の病にかかり、方々に山ほどの心配をかけるという大騒動を引き起こしていたけれど。現実の光は至って元気に出仕し、宿直の日以外は毎日葵の元へ帰ってきていたため誰かと密会する暇もなさそうで、誰も死なせていないため気鬱にもならずと、やっぱり『原作』とは諸々ズレていたが、時間だけは着々と過ぎる。


 そうして、秋が終わる頃。予定通り、時雨は夫の伊予介とともに、伊予へと下り。


「あちらの奥方と、せっかく仲良くなったのに……寂しくはない?」

「寂しいけれど、光が伊予との文のやり取りがしやすいように、色々計らってくれたもの。時雨様とは、頻度は落ちても、お手紙でお話しできるわ。だから、平気」


 夫婦でそんな会話をしつつ、『夕顔』の時間は過ぎていった。


 ――『原作』の『空蝉』と『夕顔』に、『葵の上』は出てこない。主人公が通っていないから当たり前なのだが、時折思い出したかの如く、左大臣や左大臣邸の様子が語られるのみ。『アーカイブ』に潜って『原作』を読み返す度、「葵の上って死んだ後だけじゃなく、生きてる間も影薄い人だったんだ……」と遠い目になってしまう。なんなら『夕顔』絡みで台詞が出てくる分、『頭中将』の方がよほど目立っており、しょっぱい心地になった。

 しかしながら、〝この世界〟の光は、『原作』通りの出来事を経験しても、夜には必ず東の対へと帰ってきて、「今日こんなことがあったよ」と葵に話してくれる。それは、外で一日働いた夫が帰宅して妻と交わす、ごくありふれた日常の雑談の一部でしかなくて。

『原作』に描かれているような、女房への浮気心など影形すらなく、ただ一途に、葵だけを妻として遇し、求める日常を過ごしていた。お世辞にも、「まるで物語のよう」とはとても言えない、とある一人の真面目な殿上人が淡々とお役目をこなし、家に帰って妻と寛ぐ、ありふれた毎日を。


 光が、結婚当初から変わらず過ごしてくれたお陰で、葵もそこまで動じることなく、『空蝉』と『夕顔』の時間を乗り切ることができた。前述した通り、この頃の『葵の上』は物語的に全く忙しくないため、しばらく無沙汰にしていた六条へ赴いて。改めて光の言動は詫びておいたが、椿には「夫君のことは、もう気にしないで。葵が元気で、わたくしたちに顔を見せてくれたら、それで充分よ」と言われて終わった。確かに通えていなかったので、それからちょくちょく、顔を出すようにしている。

 あとはもちろん、庭でいつもの〝開発〟にも勤しむなど、葵にとっても〝何気ない日常〟は、とても、とっても、充実していて。


(〝物語〟には決してならない毎日を、他ならない〝彼〟が選んでくれた。それがこんなに嬉しいなんて言ってしまったら、〝あの世界〟の『源氏物語』ファンに怒られるかしら……)


 未だ明かせない〝真実〟は、胸に秘めたまま。

 葵は静かに、移りゆく〝とき〟に思いを馳せた。


 そして、時間はいよいよ、『若紫』を刻み始める――。


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― 新着の感想 ―
この世界だとそもそも光が藤壺に執着してないから 紫を自分から拉致ってくる事はなさそうだが……
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