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火花散る六条邸*其の六


 やがて、椿の目の前で立ち止まった葵は、抱っこしていた桔梗ごとゆっくり、膝をついて座る。


「椿様。桔梗様は、とてもご立派な皇女様ですわ。ぜひ、お話を聞いて差し上げてくださいませ」

「葵、さま……」

「桔梗様、さぁ、どうぞ。お母様ですよ」

「……」


 葵の腕の中から、桔梗はどこか不安そうにおずおずと、こちらを見上げてくる。

 泣きたくなる心地をグッと抑え、椿は意識的に笑って、先ほどの葵を真似るように両腕を広げた。


「桔梗、おいで」

「!! ――はい、おかあさま!」


 ぱっと顔を輝かせ、桔梗は葵の腕を離れると、椿の胸へと飛び込んできた。――久しぶりに抱いた我が子は、いつの間にか随分と重くなっている。


「桔梗。とても上手なご挨拶ができましたね」

「ききょう、じょうずでしたか?」

「えぇ。お客様にきちんと敬称をつけてお呼びできていたのも、偉かったわ。乳母や女房たちの話を、しっかり聞けていたのね。……お母様、桔梗にお勉強しなさいと言うばかりで、桔梗がどれだけ頑張って、どんなことができるようになったのか、今まで知らなかったわ。ごめんなさいね」

「ううん、だいじょうぶ! おかあさまはききょうのために、いろいろかんがえていらっしゃる、って、ごじょうも、しきぶも、いってたから!」

「……そう」

「……ききょうも、ごめんなさい。どうしても、いますぐ、おかあさまにおあいしたくて、みんなをこまらせました」

「そう、ね。とても驚いたわ」

「……ごめんなさい」

「――桔梗様。どうして、お母様にお会いしたくなったのですか?」


 しょんぼりと俯く桔梗に、葵が優しく問いかけた。問われた桔梗は何度か目を瞬かせ、やがてゆっくり首を横に振る。


「……わかんない。なんだか、こわかったの」

「そうですか。怖かったのですね」

「うん。まっくろいのが、おかあさまを、どこかへつれていっちゃうの。こわかったの」

「お母様が、居なくなってしまわれたのですか?」

「そうなの。おかあさまいなくて、ききょう、ひとりで……」

「ひとりぼっちは、とても怖いですよね。――大丈夫ですよ。桔梗様のお母様は、こちらにいらっしゃいますから」


 葵の言葉に、桔梗は何度も頷き、椿にぎゅうっと抱きついてくる。……その温もりに、胸の奥から、えもしれぬ幸福感が湧き上がり、気付けば椿も桔梗をそっと抱き返していた。


(この子は……これほどまでに愛おしい存在、だったかしら)


 ただ、無条件に愛しい。ありきたりだが、それ以外の言葉が思い浮かばないのだ。

 互いに抱き合う母娘を見て、何を思ったのか。葵が座ったままゆっくりと下がる。


「わたし、本日はこれで、失礼いたしますね」

「えっ?」

「せっかくの、桔梗様との貴重なお時間ですもの。わたしは基本、家で好きに過ごしておりますゆえ、時間の融通はいくらでも利きます。椿様、本日はどうぞごゆるりと、桔梗様とのお時間をお過ごしくださいませ」

「葵様……」

「父が申しました通り、わたしが風変わりな娘であることは、椿様にもご理解頂けたと存じます。こんな変わり者のわたしでもよろしければ、これからもどうぞ、よしなにお呼びください。椿様とのお話は、わたしにとっても大変楽しい時間でした。お望み頂ければ、今後もぜひ、参上したく思いますゆえ」


 滑らかに言葉を紡ぎ、畳に手をついて一礼した葵の所作は美麗で洗練されており、左大臣家の総領姫の看板に恥じぬものであった。そこだけ切り取れば、彼女が変わり者だなんて言われても信じられなかっただろうけれど、ごく普通の大臣家の姫は、初対面の幼子を抱き上げて親しく会話なんてしないし、その心をあっという間にほぐし、母親との仲立ちまで果たすなんて離れ業はもっとできない。

 ――左大臣家の姫は、良い意味で〝並〟ではあり得ないと、椿が最初に確信した瞬間である。


「ありがとうございます、葵様。お言葉に甘えて、またお手紙を差し上げても良いかしら」


 ――そうして、今にまで続く、葵との縁が結ばれたのだ。


 ちなみに、葵が〝並〟ではない理由は、付き合い始めて割と最初の頃に分かった。葵には、〝ここではないどこか〟に蓄積された、いわば〝神々の知恵〟のようなものを、必要に応じて覗き見ることができる『異能』が備わっていたのだ。何度目かに葵が梨壺を訪れた際、たまたま東宮と挨拶する機会があり、彼が〝神通力〟にて葵を見通したことで判明した。葵はそのときまで、自身に備わっているものが『異能』だという自覚がなく、問われて非常に驚いていたが。

 しかしながら、『異能』があろうがなかろうが、葵の本質が大きく変わることはなかっただろう。人情家で、困っている人を放っておけない世話焼きな性分で、それが高じてか、幼子の扱いは天下一品。一方で男女の情にはとんと疎く、巷で話題の恋物語や、宮中で囁かれる恋の噂話などには、「申し訳ないですが、何がそんなに面白いのか分からないですね」とバッサリ切って捨てる。特に、見目麗しい公達の恋遍歴が特に苦手らしく、「そんなに色々な人をお好きになる多情な方の、いったいどこがよろしいのでしょう。そんな人を本気で好きになってしまったら、その方が別の女性を思う分、苦しくなるだけだと思うのですけれど」と苦い顔で言っていた。


「自分の都合ばかり考えて、女をいたずらに振り回す殿方を好きになるほど、虚しいことはないと思いませんか? そんな男はどうせ口先では調子の良いことをペラペラ話すけれど、そこに実など大して籠もっていないものです。ですがどうしてか、物語でも現実でも、そのような口先だけの殿方が持て囃されがちなのですよね」


 ……穿ち過ぎ、だろうか。目の前の、調子良く口が回っている、顔だけは特別美しい男が、葵の一等嫌う〝殿方〟の人物像と、ピタリ一致するように感じてしまうのは。


(少なくとも、葵はこの男に、尋常でなく振り回されているもの)


 政略婚は、大臣家に生まれた娘の宿命(さだめ)のようなものだ。件の二宮〝源氏の君〟と結婚することが決まったときも、結婚の儀式を終えてからも、葵は間違いなくそう達観していた。結婚当初、葵の夫となった彼は、夜遅くまで葵の屋敷を訪れないことも多かったそうで、葵はしょっちゅう、夫と死に別れて六条に居を移した椿を訪ねてくれていたのだ。「夫は良いのか」と何度か問いかけてみたけれど、その度困ったような笑顔で「あの方は主上の愛息ですから……主上も宮中も、彼を手放したがらず、早く帰れる方が稀なのです」と歯切れの悪い答えが返ってくるばかり。葵らしくない言動に、夫婦の不和を感じ取るのは容易かった。

 葵は葵で、新妻を顧みない夫を早々に諦めたのか、やがて話題は兄が左大臣邸に迎えた妻と、彼女が産んだ姪っ子のことばかりになり。『託宣』で得た様々な〝知識〟で作った子育て用品を気軽にお裾分けしてくるものだから、「こういったものは、あまり外に出してはいけない」と忠告したのも、今となっては良い思い出である。

 そんな葵と、この先も楽しく、友人付き合いを続けていくのだろうと思っていた、その矢先。――具体的には、今年に入ってから。


(葵が、六条を訪れる頻度が、尋常でなく落ちた。……それとなく探りを入れたけれど、この男が、結婚して四年以上経った今、突然、葵に執着し出しているらしいじゃない)


 長雨の季節、〝光君〟が左大臣家の妻を連れ、紀伊守の邸へ方違えに訪れたという話は、一時期貴族たちの間を大いに沸かせたという。たった一晩の方違えでも離れ難いほど、源氏の君は北の方を想っておいでなのだと、世間は概ね好意的に受け止めたようだが……葵と親しい、椿の目は誤魔化せない。


(大方、調子良く、適当にあしらっておけば文句も言わずに大人しくしていた妻が、実は自分のことなどこれっぽっちも好いていなかったと気付いて、今更振り向かせようと躍起になっているのでしょう。わたくしの誘いに乗らないのだって、腹の中では何を思っているのか、分かったものではないわ)


 元々、葵の夫となった〝光君〟に、良い印象などまるでなかったけれど、こうして顔を合わせた今、口達者な美男という葵が最も嫌う男と確信し、ますます信用できなくなった。


(葵が、この男の都合に振り回されているのなら。わたくしが、何としても助け出さなければ――!)




 ……『原作』では『六条御息所』であるところの彼女に、『光源氏』について突っ込んだ話をするのが憚られたという、完全葵都合の事情によって盛大な勘違いを拗らせた椿は、話を綺麗にまとめて辞去の挨拶を述べる光を、最後まで敵愾心たっぷりに見送るのであった。


これ書いたのちょこっと前だったので、今回、投稿前に改めて読み直して、「光のもらい事故っぷりがエグい……」としょっぱい気持ちになりました。彼はただの善良()な夫です!

次回、物語はいよいよ次のステージへ!

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