火花散る六条邸*其の五
女房に連れられて入室した乳母は、椿と視線を合わせるなり、ガバリと膝を折る。
「おっ、お妃様、申し訳ございません! お客様がいらっしゃることは重々承知しておりましたが、姫様がどうしても、お母君でなければ嫌だと仰るもので……!」
「言い訳は聞きたくありません。本日お迎えするお客様は、わたくしのみならず東宮様にとっても大切なお方であると言い含めていたはずです。姫は幼いとはいえ、言葉を交わすこともできる。泣き止ませられぬようなことはないでしょう」
「で、ですが……」
「現に今、泣き止んでいるではないの」
先ほどまであれほどキンキンとよく通る声で泣き叫んでいたはずの桔梗は、乳母に抱かれて入室した途端、これまで泣いていた様が嘘のようにきょとんと泣き止んで、丸い目で室内を見回している。あれほど「おかあさま」と愚図っていた割に、目の前の椿を求める素振りも見せない。場所を変えるだけで泣き止むのなら、この部屋へ連れてくる必要もなかっただろうに。
ため息を押し殺し、乳母に退出するよう言いかけたところで、またもや葵が動いた。今度は口だけでなく、文字通りすっくと立ち上がったのだ。重たい十二単を着ているとはとても感じさせない、軽やかさであった。
その軽やかさのまま、葵はすうっと、乳母へ近づく。
「皇女様は先程まで、お昼寝されていらしたのですか?」
「は、はい。目覚めて急に、母妃様をお求めになり、激しく泣かれて……」
「これまでも、そういうことは度々?」
「度々、ではありませんが……姫様は時折、とても怖い夢を見られるようで、そういったときは泣きながら起きたり、起きて急に泣かれたりすることもございます」
「そうなのですね……」
少し考えてから、葵はくるりと、顔だけ椿の方へと向けた。
「椿様。少しだけ皇女様を抱っこして、お話ししてみてもよろしいでしょうか?」
「……え、ぇ? 葵様が、直接、お抱きになるの?」
「抵抗があるようでしたら、乳母殿に抱いて頂いたまま、お話だけでも……」
「い、いいえ。少し驚いただけよ。幼子は、手や口が涎まみれでしょう? 直接お抱きになっては、葵様のお召し物が汚れてしまうと、気になりましたの」
「皇女様は、涎が多いお子様なのですね。大変健康に育っている証ですわ。わたしの衣装でしたら気にしません。汚れたなら洗えば済むことですから」
……藪から棒に理解の範疇を超えた言葉の数々が繰り出されたが、ひとまず、葵が桔梗の涎を気にしないことだけは飲み込めた。葵が良いのであれば、椿が何か言うこともない。
「それならばどうぞ、葵様の良きように」
「ありがとうございます、椿様」
綺麗に一礼し、葵はそっと、乳母に抱かれた桔梗へと手を伸ばす。
そのまま、少し腰をかがめ、乳母に抱かれている桔梗と視線を合わせ、彼女は口を開いた。
「……はじめまして、小さな皇女様。わたしは、お母様のお友だちです。皇女様にもご挨拶申し上げたいのですが、抱っこしてもよろしいですか?」
「あいさ、ちゅ?」
「はい、皇女様。わたしはぜひ、皇女様と仲良くなりたいのです」
桔梗がどの程度、葵の言葉を理解できたかは分からない。しかし、分からないなりに、目の前の葵が優しい人だと察したのだろう。何度か目をぱちぱちさせた後、桔梗は少し身を乗り出し、葵の方へ手を伸ばした。
「ひっ、姫様……」
「皇女様、ありがとうございます。こちらへどうぞ」
慌てる乳母とは対照的に、葵は落ち着き払った様子で、少しも身体の軸をぶれさせることなく桔梗を受け取り、しっかりと抱く。乳母に抱かれるより少し目線は下がっただろうけれど、乳母の腕の中より安定しているのか、しっかり葵と視線を合わせた桔梗はこれまで見たことのない笑顔を浮かべていた。
「きれーなおひめさま!」
「それは、わたしのことですか?」
「そうよ? おひめさまは、ききょうがこれまでみたなかで、いちばんきれい!」
「まぁ、とても光栄ですわ」
「こーえい?」
「とても嬉しくて、ありがたいという気持ちのことです」
「おひめさま、きれーっていわれるの、すき?」
「好きですとも。皇女様――桔梗様は、綺麗と言われると嬉しいですか?」
「うれしい! でもききょうは、きれいっていわれるのより、きれいなものをいっぱいみてるほうが、もっとうれしい!!」
「確かに。綺麗なものに囲まれていると、心が躍りますものね」
「こころが、おどる?」
「たくさん嬉しい気持ちになって、飛び跳ねたくなる心地のことです」
「――うん! わかる! こころおどるきもち!!」
葵の腕に抱かれたまま、桔梗は両手を挙げてぴょこぴょこ身体を揺らし、楽しげな笑い声を立てている。いつも桔梗と対面するときは、乳母に抱かれているか、お行儀よく座っている姿しか見たことのなかった椿は、初めて見る娘の姿に驚き、息を呑んで二人のやり取りを見つめることしかできない。
「きれいでやさしいおひめさま! おなまえなんていうの?」
「まぁ、名乗りが遅くなりまして、失礼をいたしました。わたし、葵と申します」
「あおいさま? ――あおいさま、こんにちは!」
「あら! 桔梗様はまだお小さいのに、きちんとご挨拶ができるのですね」
「めのとが、きょう、おかあさまにだいじなおきゃくさまがいらっしゃる、って、いってたもの! おきゃくさまのおなまえには『さま』をつけて、おひるまにあったら、『こんにちは』っていうんでしょ?」
「その通りですわ! 桔梗様は、なんて賢いのでしょう!」
「ききょう、ちゃんとごあいさつできるの! だって、ききょう、ひめみこだから! ちゃんとできなきゃはずかしいの!」
そう言って、小さな胸を無邪気に張る桔梗に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。確かに、東宮の子である桔梗には、間違っても外で礼儀知らずな振る舞いをしないため、厳しく躾けるよう乳母や側付きの女房たちに言い含めている。
しかし、実際のところ桔梗はまだ三つで、公的な場はおろか、梨壺の外へ出る機会すらない。それなのに……こうして褒められて真っ先に、〝きちんとできなければ恥ずかしい〟なんて言葉が出てくるほど、周囲の大人から礼儀正しくあることを強要されていた。
梨壺の外、宮中の悪意に呑まれまいと、ただ必死で。我が子には、外の悪意が付け入る隙を、ちらとも与えたくなくて。気付けば、他ならない椿自身が、桔梗の心からの笑顔を奪っていた。……桔梗の心からの笑顔を見た今、自分の考えがいかに狭く、歪んでいたのか、分かり過ぎるほど分かる。
椿が己の不明を深く恥じ入っている間、葵もまた何かを思ったのか、微笑みを桔梗へ向けたまま、何度か首肯してから口を開いた。
「ご立派です、桔梗様。ですが、桔梗様がきちんとご挨拶できるのは、皇女様だからではなく、桔梗様ご自身がたくさん頑張ってお勉強されたからですよ。桔梗様がたくさん頑張れる良い御子だったから、こうしてご立派にご挨拶できるようになったのです」
「……ききょう、いいこ?」
「良い御子ですとも。桔梗様のお歳で、大人から言われたことをきちんと守って、その通りにできるのは、とてもすごいことです。……お父様とお母様に褒めていただきたくて、たくさん、たくさん、頑張られたのですね」
「…………ん、うん。ききょう、いっぱい、がんばったの」
小さな瞳に涙を溜めて、桔梗は何度も頷いている。葵はそんな桔梗の頭を撫で、静かにこちらへ……言葉を失い、ただ見ていることしかできない椿の元へ、桔梗を抱いたまま、近づいてきた。




